第9話 地雨の逢瀬
この前降り始めた雨は、3日経ってもまだ降り続いている。
僕は会社の社食から雨の降り続ける暗い昼下がりの空を見上げながら、先輩と2人で日替わりランチを食べていた。
「くぅ~、うまい! いつも旨いけどさ、やっぱ水曜日のエビフライ定食は最高だよなぁ! あ、前島くんも大丈夫だったよな?」
「はい、美味しいですよね。衣とか身とか」
「なっ!」
とりあえず僕が何かしら反応を返したということでご満悦らしい先輩は、僕には目も呉れずにエビフライ定食を頬張り続けている。その姿を横目に、僕はまた窓の外に目を向ける。
この前――僕と彼女が再会して、彼女の名前が
降り始めた日ほどの激しさはもうないけれど、まだ傘を差さないわけにはいかない程度にはこの地雨は続いていて。いい加減うんざりさせられるような、代わり映えしない雨空を眺めていると、ポケットの中から通知音が聞こえた。
途端に、先輩がにやけ出す。
「お、前島くん。誰かからのラブコールかい? いいねぇ、若人!」
「いや、違いますって~」
「隠すな隠すなぁ、ここ2、3日のことじゃないか。特に何があった様子でもないんだから、そこはもう、疑いようがないぞ~?」
本当に、この人はこういう話題が好きなんだよなぁ……、付き合いやすくていい人ではあるけど。溜息を心の中だけでつく。
茶化したような笑顔を浮かべる先輩に見送られるように、僕はもう食べ終わった定食の食器だけ片づけて、屋上一角の休憩所まで走る。急いだつもりではいたけど、少し肩が濡れてしまった。
うわぁ、一応撥水加工にはなっているけど、やっぱり濡れたという感覚が気になる。
さすがに雨が降っているからだろう、いつもはそれなりに人の出入りがある4畳程度のこの休憩所にも、今日は誰も来ていなかった。もちろんそれを見越して僕もここに来たんだけど。
ふぅ、ここに来るまで2~3分は経っちゃったな……。
そう思いながら携帯を見ると、案の定卯月さんから『今ひま?』というメッセージが来ていた。今日って普通に平日なんだけどな……と苦笑しているうちに、『ひま?』だとか『わたしはいま、すっごく暇なんだけど』とか『おーい』とかいうメッセージが連続して表示され始めたから、あわてて通話をかける。
「も……、もしもし?」
『お、繋がった』
「遅かった、のかな?」
『うん、けっこう遅かった』
「ごめんごめん、昼食べててさ」
『へぇ、なになに?』
「エビフライ定食。味は、まぁまぁよかったって感じかな」
『へぇー、よかったね。おいしかった?』
「まぁ、まぁまぁ……なのかな。卯月さんはどうしてるの?」
『えぇ、わたし? わたしはね、今コンビニでお昼買ってるところ。あれ買ったよ、んっとね……』
その後、卯月さんが昼食に買ったパンケーキ風の菓子パンの話をしばらく聞いて、2人で会う予定の話もして、それから通話は切れた。静かになった途端、辺りから聞こえる雨音が騒がしく感じられて、無性に寂しさを感じた。電話越しに聞こえた彼女の周囲の声が賑やかだったこともあるのかも知れない。
きっと彼女は、この通話が終わっても、そのまま周りの「声」の主たちと楽しく談笑するのだろうな……と考えると少し胸が苦しくて。
「なんて、そんなこと言ったらたぶん引かれるだろうな……」
寂しさのあまり呟いた独り言は、少しずつ強まっていく雨に溶けていく街並みと一緒に、あっさりと少し冷たい空気に紛れてしまった。
卯月さんと会った日――彼女の過去に触れてしまったあの日、別れてから少し経って、もう少しでアパートの部屋が見えてこようかというところまで来たときに着信があった。それが、今のようなやり取りの始まり。
まず、もう関係を終わりにされてしまっても不思議ではないような態度をとってしまったと怯えていた僕の危惧を驚くほどあっさりと裏切ってみせた。
『あ、もしもし? よかった、
それがとても意外で、思わず言葉を失っている僕に、彼女は「へへへ」と敢えて笑い声(?)を口で言って、それから何ということのない話を始めた。
今お腹が空いているだの、飼い猫が最近どこかに行きがちだとか、そういう他愛もない話。
正直、気持ちが沈み切っていたこともあって、あまり彼女の話を聞いている気分ではなかった。けれど、そもそも辛い過去を僕に話した直後だった彼女自身がそれを語った時の暗さをおくびにも出さずに話をしてくれていたから。
それに付き合う形で彼女の話を聞いて、それに対して答えを返すだけのやり取り。
たったそれだけだったのに、どうしてか気持ちは晴れるように感じて。
それに、そんな通話の終わり際。
『うん、何か楽しかった……!』
電話越しでは、耳を澄ませていないと……少なくとも辺りが静かじゃなければ聞こえなかっただろう大きさで漏らされたその声には、直接会っているときの――外向きの笑顔を見せてくれているときの――ような、作ったような気配は感じられなくて。
代わりに、どこか脱力した安心感みたいなものが窺えたような気がした。
慌てたような咳払いとか、それで聞こえた『じゃね、おやすみ~』といういつもみたいな人を食ったような――しかしそれも繕ったような慌ただしいものに聞こえて。
そこに妙な微笑ましさみたいなものを感じてしまってから、たぶん僕らの間にはずっと地雨が降り続いている。
この緩慢な関係は、いつまで続くのだろう。
そんな不安じみた感情が襲ってこないわけではない。
だけど、今こうして電話の向こうで彼女が楽しそうにしていてくれるなら、それで構わない……そんな気持ちまで持っていて。これは言うなら、疑似的な関係だ。お互い何も知らない。
名前だとか、話せる範囲のことはお互い話しているけれど。
それでも、個人を特定できる大事なことはほとんど話していない。それに対して疑問なんて抱く余地もない――まったく知らない相手に等しいのだから、当たり前だ。
そんなことはわかっているのに。
どうしてか、たったそれだけの関わりを持てただけで妙なくらい気持ちが浮き立って。自分でも気持ちが悪いくらいだった。その気持ち悪いくらいの高まりは仕事にも表れていたらしい。
いつも定時より少し過ぎて終わるデータ入力もかなり早めに終わって、定時には明日の準備をある程度終えた状態で帰れた。
「我ながら、何か気持ち悪いなぁ」
たまにはどこかのバーで飲んでみるのもいいかも知れない。
普段の自分が聞いたら耳を疑うだろうことまで考えながら、雨上がりの曖昧な暖色に染まりながら、少しずつ夜の色に変わっていく夕焼け空を見上げて大通りを歩いていたとき。
「あっ、前島じゃん! 久しぶりぃ」
ちょうどすれ違った何人かのうちの1人から聞こえたその声。少しだけ舌っ足らずで、若々しい声を、聞き間違えるはずなんてない。
振り返った先にいたのは、あの頃よりもずっとカッチリしたスーツ姿に身を包んだ、人のいい――だけどどこか狂暴そうなものを秘めた笑顔は相変わらずな、友達の姿だった。
「あっ、
「すっげぇなぁ、前島。すっかり社会人って感じじゃん。まぁ、オレもだけどさ」
お互い大変だよなぁ……と屈託のない笑顔で声をかけてくる室谷。
正面から見られないのは、僕のせいなのだろうか。
まだ空は辛うじて明るいのに、どこかからまた雨の臭いがツン、と鼻についたような気がした。
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