第7話 篠突く雨が、遮る
彼女の体温は、冷たい雨が降りしきる夕暮れ時――もう夜と言っていいくらい暗くなっているけれど――にはとてもありがたくて、それが彼女にどんな思いをさせるのかとかまったく考えずに、僕はその細くて小さな体を抱いていた。
そして、当たり前の流れだとでも言わんばかりに重ねた唇も、彼女は拒まない。
何となくわかっていた。
わかっていてこんなことをするなんて、と自己嫌悪にも陥りそうだったけど、もうそんなのはどうでもよくなりつつあった。
今はただ眠るように、考えるのをやめたい。
何も考えたくない。
「寒い」
「わたしも」
「どこか行く?」
「うん」
「いいの?」
「うん」
雨音と黒い傘で外から遮断された、直径70cm程度の空間の中。
抱き合ったまま、耳元で言葉を交わす。狭い場所で密着しているからか、それとももっと違う理由からか、少しずつ熱が高まっていくように感じた。体の中から沸き起こる、信じがたいような欲求とともに。
だって僕らは、そんな間柄じゃないのに。
そりゃあ、確かに1週間前には突発的な衝動に任せて肌を重ねた。
それでもやっぱり越えてはいけない線というものは、まだ確かに僕らの間にはあるように思えて。
だけど、躊躇する心に反して彼女の腕を取り、僕は歩き始めていた。混沌とした心の中に渦巻いているのは、浅ましい欲望と、それを覆い尽くそうとする欺瞞。
今は秋から冬に変わろうという時期だ。
しかも、雨が降っている。
とても寒い。
それに彼女は薄着だ。
かといって、僕も今着ているスーツを貸して帰せるほど、予備がない。
だから、これは仕方のないことだ。
そんな虚しい理由付けだけして、僕は歩みを進める。静かなようで慌ただしい雨の夕暮れ。周りではいくつもの集団がこれから夜を過ごすために飲み屋を探したり、様々な目的でうろついている。
楽しげな談笑。
若者たちが上げているらしい、小うるさいくらいの笑い声。
早くも酔っぱらっているらしい人の、管をまく声。
思い思いの音と、ずぶ濡れになった人の波。そして傘の群れ。
その中で、僕たちはどう映っているのだろう。
そんなどうでもいい、まるで周りを見ることのできているようなことを考えるのは心に余裕があるからじゃなくて、そうやって余裕ぶっていないと心が押し潰されてしまいそうだったから。
わけもわからないまま、ホテル街の中を歩く。
そして適当に、心の準備ができたタイミングで隣にあったホテルに入る。隣にいる彼女を振り返って、「いいの?」と視線だけで問いかける。もちろん、拒まれないことはわかっていながら。
ただ、どちらにしても。
彼女の顔を、まともに見ることなんてできなかった。
彼女の体を見るのは、これで2回目だった。
それにも拘らず、感じた熱は最初のときよりも確かに強くなっていて。
チェックインした部屋で交わされる、やや事務的なキス。そこから彼女の動作は徐々に熱を帯び始めて、絡まる舌も熱く、動きも激しくなっていく。最初はただそれに委ねるしかなかった僕も、少しずつ自分から舌を絡められるようになっていって。
「……っ、――――」
少しだけ息苦しさを感じて、唇を離す。
それは彼女も同じだったようで、唇の間を伝ってキラキラと光る唾液の軌跡を追う彼女の顔は、どこか苦しそうに歪んでいて。
外で話しているときには、いつでもどこか余裕を残している雰囲気の彼女がこんな風に顔を歪めている。そのことに多少の優越感というか心地よさというか、そういうものは感じたけれど。
今日はそれじゃ駄目だった。
昼前に見た、見知らぬ男と並んでいる姿が脳裏を離れない。
あのとき、確かに僕を見ていたはずなのに。
少しだけ躊躇してしまったから? 何もできなかったから? 声をかけなかったから? 色々な仮定や、汚らわしい想像が頭にこびりついて離れない。いくら振り払おうとしても、僕と目の前にいるこの人がそんな間柄ではないとわかっているつもりでも、そう言い聞かせても、頭を離れない。
頭を離れないなら、まだいい。
それによって、僕は……怒りを感じていた。
昼間、彼女の隣にいた男の顔が思い返される。思い返したくなんかないのに、どうしても彼女の顔に重なるように、下品な期待に浮かれきった横顔が浮かび上がってしまう。
あの男も、彼女のこんな顔を見たんだろうか?
あの男も、彼女をこんな風に抱きしめたんだろうか?
あの男も、彼女とこの先までしたのだろうか?
したのだろう、そして、きっと僕もあの男と同じようなものに、彼女の目には映っているのかも知れない。
どうしても、そんな想像からは逃れたくて。
でも、逃れようがない。あの男を、僕は軽蔑することなんてできない。僕だって、同類なのだから。
初めて会ったあの日と同じくらい激しくなった雨が、僕をざわつかせた。
「あのさ、君の名前ってまだ聞いてなかったよね?」
せめてもの抵抗として、僕は彼女と話をしようと思った。
することをしたくせに……そう言われるのは仕方ないとも思ったけれど、何か体だけではなくそれ以外のものも交わしたのだという自覚がほしかった。そういうものがないと、自己嫌悪でおかしくなりそうだったから。
「ふ~ん、知りたいんだ」
そう尋ねてくる彼女は、もう外で見るような人を食った態度を作り終えていて。
「駄目……かな?」
「別にー。名前でしょ?
あっけらかんとした調子で答えてきた彼女――卯月さんに、僕も自分の名前を伝えた。卯月さんはどこか満足そうな顔で「ふーん?」と頷いて、「じゃあ
「光輝くんってさ、なんであの日あんなに叫んでたの?」
「えっ、それそんなに気になる?」
「うん」
事もなげに頷かれても、僕にだって正直理由なんてわからない。ただ叫びたいから叫んだ、それだけなのだ。それにもし理由をつけるとすれば……
「何か、いつもと違うことが起こればいいのに、って思ったからかな」
少しだけ格好つけてそんなことを言った僕に、卯月さんは少しだけ薄い表情になって「ふぅん」と頷いた。
「わたしもね、そういう感じのときあったんだよ?」
不意に、その口から少しだけ沈んだトーンの言葉が漏れてきて。
「まぁ、そのせいでこんな風になったんだけどねー」
苦笑混じりに言われたその言葉に。
僕は、少しだけ近付いたような気がしていた彼女との距離が、また遠ざかったように感じた。
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