第6話 やまない夕立
雨の降りしきる夕暮れ時の休憩所。
僕は、自分の中に突然湧き上がった感情に戸惑っていた。
夕暮れ時、もう辺りの街灯はほとんどが灯っており、この休憩所ももちろん例外ではない。他の道から少しだけ段差を降りたところにあるこの場所の入り口にあたる階段のところに数か所置かれ、それから数個設けられた東屋の脇にそれぞれ1つずつ設置されている。
そんな街灯の光に見下ろされるようにしてその場に立ち上がった彼女を見たとき、僕の中にはいくつかの感覚が湧き上がっていた。
まずは、初めて会った時に感じた、立ち入り難さを感じてしまうほどの、完成された空間。
この間、初めて会った高台の公園では、雨とはいえ昼間の――全体がほとんど同じ明るさでいられる時間帯の光景だった。あの日は、雲間から漏れる陽光に彩られた雨粒が彼女を飾り、神々しさを持っていた。
今、目の前にいる彼女は、また違う。
辺りはもう暗い。
だからなのだろう、上から照らしつける無機質な色の水銀灯の光を受けて、陰影が生まれていた。濡れた髪の毛やまっすぐにこちらを見ている少し茶色の割合が多そうな瞳はよく見えた。肌の白さは、水銀灯の下ではまるで病的にすら見えて。
あとの影になった首筋や、胸よりも下の辺り。すっかり暗くなった夕暮れ時に見る彼女は、その白と黒の不調和が僕の中の何かを駆り立てた。
空から降ってきてまるでナイフのようなその姿を晒しながら通り過ぎていく雨粒を前景にして微笑んでいるその顔が、まるで夕闇の中に今すぐにでも溶けてしまいそうな気がして。
ただ茫然と見つめている僕に、彼女が微笑みかける。
「ん、どうしたの? 大丈夫?」
心配したような言葉とは裏腹に、相変わらず人をからかうようなその口調に、何かが溶けていくのを感じた。
今にもどこかに消えて行ってしまいそうな危うさに誘われるように、僕は彼女に向かって足を進める――といっても、数歩くらいしか離れてはいなかったけど。だけど、その距離を詰めることすら、何だか躊躇われた。
その理由は、たぶん霧雨の中にあって。
だから、そんな記憶は少しずつ強くなっていく雨の中で洗い流してしまいたかった。
ふと握りしめていた手の温もりは、確かにここにあったのに。
それだけでは足りない……そう思ってしまった。
何故なら、その温もりを感じながらもつい思い出してしまっていたから。霧雨の中での再会――とも言い難い邂逅。しかも彼女の隣にはよく知らない男が下卑た笑顔を浮かべながら歩いていて。
そして、思わず見つめていた僕を発見した彼女が呟いた、「あっ 久しぶり」という口の動き。少しの間二の足を踏んでから追いかけた僕の前から消えてしまっていた2人。
そして、何があったのかを想像したくなくても思わず連想させられてしまう、先程遠くから見かけてしまった無表情――1週間前に僕と肌を重ねた後、駅前で『じゃあね』なんて言ってにこやかに手を振った直後に見せたのと同じ顔。
握る手に、思わず力がこもる。
「痛っ……」
そんな声が聞こえてようやく僕の意識は現実に引き戻されて。
「うわっ、ごめん!」
慌てて手を放した途端に襲ってくる、強烈な寒さ。吹き抜ける冷たい雨風を受け入れてやれるほど、僕の手のひらは寛容じゃなかった。このまま雨の向こうに透けて消えてしまいそうな手を見ていられるほど、呑気でもいられなかった。
だから、つい尋ねずにはいられなかった。
「あのさ……、今日の昼、もしかして僕と会った?」
「うん、いたよね。お昼休みだった?」
あっさりと認められてしまった。もちろん、変に隠されたって僕にはそれ以上そのことについて問い詰めることもできないし、そしてそれによってたぶん僕の中には重いものが積み重なっていくだけなのだろうけど、こうもあっさりと認められてしまっても……。
そんなの、そのときに見たものまでもあっさりと、簡単に肯定されているみたいじゃないか。それを気にするような間柄でもないくせに、何かが止まらなくなるのを感じながら。
どうあっても生まれたに違いない――避けようもなかった黒い感情が押し寄せるままに、僕は言葉を続ける。
「あのときさ、誰かと一緒じゃなかった?」
「うん」
そんなことまであっさりと肯定してしまうのか、君は。
そう言いたくなるのを堪えている間にも、雨音は傘を叩き続けている。周辺の音なんて聞こえなくなるくらいの音の中でも、彼女の声だけははっきり聞こえてきて。
だから、僕の声だってきっと同じなのだと思いながら。
「あの人は、君の何なの?」
外の音なんて聞こえない中だからこそ、僕は訊いた。
ここでの会話は、きっとここだけでの会話になるから――そう信じて。きっと彼女もそのつもりなのだと思って。
彼女の返事は「気になる?」という悪戯っぽい笑みと軽い言葉だった。
その言葉に、目眩を覚えそうになった。
予想はしていたけれど、実際にぼかして返されると心が軋むように痛む。どうしてだろう、別に彼女に対してそんな風に思う資格なんて僕にはないはずなのに。そんな関係ではないはずなのに。
『もっと早く言ってくれてたら、よかったのにね』
雨音に紛れてそんな声が聞こえたような気がして、思わず振り返ったけれど、その先にはもちろん通行人の姿しかなくて。慌ただしく雨の宵道をどこかに向かって行く人々の視線には、当たり前のことながら僕たちの姿なんてない。
まるで、別の世界に隔てられてしまったかのような気分になった。
いたたまれなくて、どこかに逃げ出したくなって、だけどどこにも行けないのがわかっていて。
だから。
「どうしたの、大丈夫?」
さっきよりも少しだけ心配そうな色合いになった声のした方に、つい救いを求めていた。
思わず抱きついていた細身の体は、冷たい雨の中にはとても温かくて。
密着しているところから体温が染み込んでいくような感覚にもなって。
ふと耳に入ってきた。
「あー、あなたもやっぱりそんな感じか」
どこか諦めたような、小さく低い声。
「でもいいよ。こういうの、もう慣れてるし」
これは、彼女の素なのだろうか。
溜息交じりの声音とともに、背中に手が回される。
慣れている。彼女はそう言った。
胸が、張り裂けるように痛い。
色々な感情で、頭が回らない。
この痛みが、僕自身のものなのか、それとも彼女の何かを邪推して勝手に生じた痛みなのか。そんなのはわからない。わかろうとも、思いたくなかった。
ただ、今は。
腕の中にある温もりに逃げていたかった。
たとえそれが、まだ名前も知らない彼女をより深く傷付けてしまうことなのだとしても。
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