第5話 雨に煙る

 ビニール傘を叩く雨音は、昼間よりもずっと強くなっていた。

 彼女との思わぬから数時間後。

 会社を定時で上がって、最寄駅に向かって流れる無個性な人の波から少し外れた公園……というにはこぢんまりとして休憩所に設置されている自販機の脇で「あったか~い」表示だった缶コーヒーを飲む。少しずつ寒くなってくるこの時期には、スチール缶の熱さもちょうどいい。


 特に、こんな雨の日には。


 この休憩所は、きっと近隣の会社に勤めている会社員だったり、それか単にこの街を訪れた人たちだったりが昼休みだったりウィンドウショッピングの合間だったりで立ち寄って休めるようにということで作られた場所らしい。

 ついでに、僕が今コーヒーを飲んでいる東屋の屋根のように、いたるところにツタを張り巡らせてこの街が緑化計画にある程度貢献していることをアピールしている……らしいことを会社の先輩からは聞いている。


 まぁ、確かに晴れた昼間とかは人の往来とかもあってかなり賑やかになるけれど、夕方ともなるとそこまで人影もなくなる。まして、辺りがすっかり暗くなってしまう秋から冬にかけては。

 この時間になると、周りの居酒屋とかが営業を始めている頃だ。よほど疲れていれば別だけど、ほとんどの人は大体そういう所に向かうのだろう。


 だから、すぐにわかるんだ。

 そういう所に行かずに東屋に居続けている人なんて、少ないから。しかもこんな――昼頃までの霧雨なんかじゃなくてもっと強くなって、東屋の屋根程度では到底防げないような雨の中で座り続けている人なんて。

 強く、冷たくなっていく雨の降りしきる暗い夕暮れ時にも、彼女は少し浮いて見えた。

 もちろん、そんなのは錯覚だった。

 もう1回見てみれば彼女の姿はその暗さ相応に見えにくかったし、そこにいる彼女は前のように存在するだけで周囲を絵画に変えてしまうような空気を持ってはいなかった。

 手元に持っているのは携帯だろうか、何かが放っている光に照らされて夕闇の中に浮かび上がっている彼女の顔は何を考えているかわからない無表情で。


 それは、1週間ほど前に僕と別れた直後に見えてしまった顔に似ていた。


 その顔を見てしまったのが、きっと僕にとっては運の尽きだったに違いない。心の中に止まらない何かが芽生えていくのを感じてしまった。目を背けてしまいたいのにそれもできないほどに、はっきりと。

 だからといって、同じ状況かはわからない。

 もちろんそれはわかっている。今、僕は最低な想像をしているんだって、わかってはいる。

 下衆の勘繰り。邪推。なんと言われたって言い返せない。

 だけど浮かんでくるのは、あの夜の無気力そうな無関心そうな、虚しさすら感じてしまうような無表情と、そして今日の昼間に見かけた肥満気味の男の下卑た笑みばかりで。

 自制のためになにか言い訳を考えたくても、そこまで頭が回らない。

 繰り返し思い返される、彼女と交わった時間。

 繰り返し思ってしまう、昼から今までの空白。

 そんなこと、僕には関係ないじゃないか。何度も使いすぎて耐性ができて効き目のなくなった自制の言葉ではもう止まれなかった。

 彼女がひとりで何事かに熱中している様子の東屋に足を進める。靴下と革靴の間から染み入ってくる雨水すらも気にならず、ただ好奇心と興味に従うという幼子みたいな衝動のまま、僕は声を発していた。


「こ、」

 声をかけようとして、喉がひりついて。

 舌がもつれて、声が嗄れて。

 雨の音にすら負けてしまうような僕の声と、雨に流れる木の葉にすら勝てないような存在感。いっそどこかにそのまま消えてしまいたいほどの自己嫌悪。

 大体、声なんてかけて何をするつもりだ?


『昼間一緒にいたのって、誰?』


 そんなの訊けるような立場か、僕は!? たった1度会って、その勢いで肌を重ねただけの相手じゃないか。僕にとっては日常の色が変わってしまうような出会いだったけれど、そんなのは僕がそうだったというだけで、彼女にとっては……?


『やぁ、久しぶり!』


 一体、どんな顔をしてそう言うことになるんだろう。たぶん、その言葉をかける僕の顔は、きっと見るに堪えないものに違いない。


 そんな風に、言葉すらも見つけられないようなら声なんてかけるべきじゃない。わかってる。思い出した。思い出させられた。

 だけど、もう遅かった。

 中途半端に出した「こ」の声は、それなりに大粒の強い雨が降ってきているのに彼女の耳に届いてしまったらしい。ん、と言いたげな顔で顔を上げた彼女と、目が合ってしまった。

 そして、今度こそ。

 気のせいじゃなくて、口パクじゃなくて、声に出して「あっ、久しぶり」と微笑む彼女。

 対する僕にできたのはただ立ち尽くしているだけで、彼女の微笑みにぎこちなく答えられていたら上出来といった有様。そんな僕に歩み寄ってくる姿は猫のようにしなやかに見えて。

「どうしたの? 何か泣きそうな顔してるよ」

 しわ寄ってる……と眉間に這わされた指の柔らかさと、ふふっ、と笑った彼女の吐息に、僕の中で何かがはじけ飛ぶのを感じた。

 さっきまで必死に自分を抑えてくれていたものは、もう雨に隠れてしまった。

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