第4話 霧雨に包まれて

 彼女と出会った雨の日から、もう1週間になる。

 相変わらず、僕の日常には何も変化がない。

 灰色のビル街は相変わらず灰色のままだし、すれ違う雑踏はあくまで日常風景の背景に属する何かでしかなくて、今降っている雨でさえ、単なる天候の1つに過ぎない。感じることがあるとすれば、「あぁ、この昼休憩の外出には傘が要るよな。一応持ってきておいてよかった」くらいのものだ。


 雨傘を叩く軽い音が耳を通過していくのを感じながら、いつもの喫茶店に行く。いつ行っても大体静かで、落ち着いた雰囲気が魅力の店だ。

 いつものようにクロワッサンを選び、カウンターでホットココアを注文する。そう待たずに手渡されたココアをトレイに乗せて、適当に空いている席に荷物と腰を下ろす。

「いただきます」

 幼い頃からの習慣でついどこででも口にしてしまう挨拶の言葉を終えてから、昼食をとる。程よく甘くて温かいココアは、最近続いている雨やすっかり涼しくなった外気で冷えた体を癒してくれたし、クロワッサンのサクサクした食感は僕にとっては理想的だった。

 いつものように舌鼓を打ってから、少し居残って窓の外を眺める。


 窓の外では、平日の昼間にも関わらず休日とそう変わらない人数が往来している。近隣の外食チェーンに並ぶ列であったり、最近よく売られているお散歩ガイドだろうか、何かの紙を広げながら何事かを相談しているらしい数人の姿だったり、思い思いの姿が見える。

 雨がそう強くないからか、外を歩いている中には傘を差していない人も少なくない。空を見てみればまだまだこの後晴れるだろうなんて言えない空模様だったけれど、暗くなっているわけでもないみたいだった。

 数分して店を出て、街中を歩く。

 元々雨粒の小さかった雨は、そのときにはすっかり霧雨になっていて、確かに傘を差していなくても長く歩いていなければ服がじっとり湿るくらいで済みそうだった。

 さて、そろそろ会社に戻ろう。

 初めてこっちの方に出てきたときには刺激に満ちていたけれど、慣れてしまった今となっては無味乾燥で退屈な都会の道をいつものように歩き始めたとき。


 目を疑った。


 だけど、その姿を見間違うわけもない。

 数十cm先から聞こえた、どこか人をからかう言葉が似合いそうな、甘いような少し落ち着いているような声が聞こえて。

 前を向いたときに見えた、そのまま吹く風にさらわれてしまいそうな小柄な体。

 軽くウェーブを描いた柔らかい髪。やはり寒いのだろうか、ファーが付いた薄手のジャケットを羽織っている。その裾から覗いている脚は、そのほとんどが黒いニーソックスに覆われていた。軽やかに歩道を歩く秋冬デザインのブーツ。

 あの日に見たのとは少し装いが違ったけど、彼女だとわかった。

 1週間ほど前に雨の降りしきる公園で出会った、彼女だ。


 彼女は、やはりそのどこか人を食ったような笑顔を見せて、楽しそうに笑っていた。

 隣を歩く、彼女よりも少し背の高い小太りの青年に向かって。

 全身がほぼ黒で統一された――それ以外に特にこだわりのようなものを感じないファッション、ボサボサで手入れされていないような髪に、伸びたままの顎ひげ。あれはたぶん1~2週間くらい剃ってないんじゃないか?

 そんな青年の隣に彼女がいるのはひどく不釣り合いのような気がして。

 気が付いたら、その2人のことを気にしている自分に気付いて。

 

 別にいいじゃないか、僕はあの2人には……たぶん1週間前に会って、熱く濡れた時間を過ごして別れた直後から彼女とはもう何も関係ないのだから。


 だから、僕はこのままあの2人を気にせずに会社に戻るんだ。

 だって僕の日常は、彼女がいなくたって回る。

 むしろ、こんな風に心を乱されたりする必要なんてないし、こんなんじゃ午後からの仕事に差し支える。

 何でもない、何でもないことだ。

 そう思って踵を返そうとしたとき。


 立ち並ぶ商社ビルの間にあるいくつかの狭い路地。

 大体そういうところには穴場的な食堂であったり、あとは疲れた体を休めるホテルだったりがあったりする。夜から営業を開始する居酒屋だったり、完全個室型のビデオ鑑賞ルームだったりも軒を連ねている。


 そんな裏路地の1つに入り込もうとしている2人の横顔が目に入って。

 何事かを期待する下卑た笑顔を隠しもしない小太りの男の肥えた体の向こう側に、たぶん気を抜いたのだろう、一瞬だけの無表情が見えて。

 その無表情が、ふと僕に気付いたように表情を変えて。


 あっ 久しぶり


 そんな風に口が動いたように見えて。

 見つめた目は、いたずらっぽい笑顔で見つめ返されて。

 一瞬の躊躇の後、2人の姿は商社ビルの陰に――曲がり角の向こうに消えていた。

 一拍の空白。

 その後、僕の足は勝手に走り出していた。

 おい、そんな必死に走ってどうするんだ。そんな風に走ったって、僕には何も関係のないことなのに。何をどうしようっていうんだ、何の権利があってそんなに息せき切って走るんだ。

 そんなしつこい自問に足を引っ張られながら、裏路地の入口に立った僕。


 その先にあるのは、表に堂々とアダルトビデオの広告が貼り出されたネットカフェと古びたホテルが角のすぐ近くに、あとはまだ「準備中」の札を立てている飲み屋が延々と立ち並んでいた。

 そして、彼女たちの姿は、その路地には見えなくて。

「………………」

 僕にできるのは、いま営業していて関係者以外も入ることのできる場所――ネットカフェとホテル――を交互に見やるという、それこそ何の意味もないことだけだった。

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