第3話 村時雨の交わり
窓の外では、まだ雨が降り続いている。
昔からあるのだろう、外壁が長年浴び続けた排気ガスだったり砂埃だったりで薄汚れているのをいつも見かけているそのホテルの一室で、僕は窓の外を流れ落ちていく水滴を見つめていた。
まるで食中毒だったり新しい感染症が発覚したときテレビで映し出される寄生虫の姿のように、いくつもの筋になって不規則に流れ落ちていく水滴は、激しさを増していっているらしい雨の中でどこか緩慢に見えて。
それはそのまま、僕の時間の動きにも思えた。
* * * * * *
しばらく続いていたシャワーの音がとうとう止まって、「お待たせ~」とどこかおどけた声で出てきた彼女を見ないようにしたのは、別にそれが紳士としてのマナーだとかそんな偽善者めいた意識を持っていたからではない。
ただ単に、見るのが恥ずかしかったから。
見たら、色々なものが断ち切れてしまいそうだったから。
だから僕はきっと必死になって目を背けていたのだと思う。
出会ったばかりの、しかも明らかに「普通」ではない人と出会ってすぐに……なんて、何か不誠実な気がした。
そういうものに、僕までなってしまうのは、嫌だったのだ。
ただ、欲望を解消するための関係。
そんなのはきっと世の中を見渡せばごまんといるのだろうし、僕の周囲にもいなかったわけではない。
というか、僕自身がそれについてはあまりよくない思い出がある。
思い出すだけで胸焼けがするような、どうにかして無理にでも笑顔を作って気持ちを押し上げないと奈落の底まで沈み込んでしまうような、そんな思い出だ。
……………………っ
また、全身に鳥肌が立った。
きっと寒さのせいではないのだろう。
どうしてか、僕の背後に立っているのであろう彼女と出会ってから、あの日のことばかり思い出してしまう。
どうにかしないと、また世界が黒ずんでいきそうで。
早く、息をしないと。
沈み込んでいく僕を。
知ってか知らずか引き上げたのは、彼女の『ねぇ!』という苛立ったような声と、背中に押し付けられた小さい拳の感触だった。
『あのさ、つまんないんだけど? ちょっとは構え』
拗ねたような、挑発するような声。
あぁ、きっとタイミングが悪かったんだ。
抑えられない気持ちを、僕はそのまま彼女にぶつけた。振り返った先のつまらなさそうな顔に、まだ何かを言おうとしているらしい唇に。
酸素の供給路を減らされた一瞬、彼女は驚いたような顔をした。
だけど、その直後には『ふふ』と塞がった口のまま含み笑いをして。その吐息の振動が僕の口内には耐え難い刺激になって。
どちらからともなく、熱く濡れた舌が重なった。
窓を叩く激しい雨音なんて耳に入らないくらい、僕の熱は高まっていた。
感じる熱のままに重ねられた舌から目の前にいる彼女の鼓動まで伝わって来るような感じがして、それが更に僕の熱を高めていって。
薄くなり過ぎた酸素を求めて、重ねられた時と同じくどちらからともなく離された唇。
もうとっくに日が暮れてしまっているのだろう、狭く薄暗い部屋に充満していく荒い呼吸の合間に、僕は尋ねていた。
『あのさ、ほんとにいいわけ?』
『それ、こっちのセリフ』
可笑しそうに笑いながら答えた彼女の声は、とても魅力的に聞こえた。
そして、また僕らの舌は重なり、それだけで足りなくなってしまうのに、時間なんて必要なかった。
* * * * * *
緩慢になっていく時間の流れ。
それでも確かに流れていることを、背中から実感する。
不定形な軌跡を描きながら窓の表面をなぞっていく雨粒のように、彼女の指はずっと僕の背筋をなぞっている。
「賢者タイムなう~」
笑いながらの囁き声は少し敏感になった僕の背筋から脳髄まで震えを運んできて、何度となく蕩けてしまいそうな理性を辛うじて奮い立たせてきた僕の心を容易く侵していく。
そして、次に窓の外を見たとき、あれだけ激しく窓を叩いていた雨はすっかり上がっていた。
外に出て空を見ると、もう秋の大四辺形がはっきりと見えていた。
現実へと引き戻すように火照った体を冷やしてくる夜風に濡れたままの衣服は少し
「じゃあ、ばいばい!」
見ないでおこうと思った。
仕事帰りらしい赤ら顔のサラリーマンたちや、イベントでもあったのだろうか、どこか浮ついて盛り上がった雰囲気の若者たちで賑わう駅前でそう言った彼女の笑顔が、僕じゃない方向を向いた瞬間に無表情になったこと。
最初こそファンデーションで隠されてはいたけれど、汗で落ちてしまったその下から出てきた彼女の体に、いくつかの醜い痣が見えたこと。脚のあたりに、躊躇い傷交じりの切り傷跡がいくつもあったことを。
見ないことにして、僕は冴えない現実へ帰っていった……。
僕は、気付いていなかったんだ。
彼女との出会いが、僕にとっては一時の夢なんかじゃなかったということに。
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