第2話 俄雨の中で

 雨が降り注ぐ高台の公園。

 そこで微笑んでいる女性には、不思議な雰囲気があった。

 たぶん、年齢は僕と同じか少し下くらい。小柄な体に、首の少し下辺りまで伸びた、軽くウェーブのかかった髪。表情から伝わってくる自由そうで……何となく危うそうな空気。

 顔はまぁ、可愛い。  

 例えるなら、いま人気絶頂のアイドル歌手、弥生やよいみつきが少し一般人寄りの容姿になった感じというか。とにかく、そこらへんにいる一般的な女性よりは可愛い……と思う。

 服装は、流行りのブランドがこの季節に推し出しているネイビーに近い色味に統一されたふわっとした雰囲気で、それが彼女にはとても合っているように思った。


 まぁ、そう思ってしまうのも、会社に入ってから可愛いと思える女性と接する機会が激減したということがあるのかも知れないが。そういう女性たちが流行りに乗ろうとしても、どうしても痛々しい雰囲気しか出なくなってしまう。似合う服装をすればいいのに……と言いたくなることも幾度かあった。

 出会いがあるのは学生時代まで、と言っていた父の言葉が蘇るようだった。

「……すごい大声だね。びっくりした」

 その声には僕を小馬鹿にするような響きがあるのに、どうしてか耳触りがよくて。

 たぶん、その声が少しだけ寂しそうで、どこか僕に親近感を持ったように聞こえたからかも知れない。

 それはもしかしたら、僕がそうだったからかも知れない。

 もちろん、そんな堂々巡りな思考に答えなんて見つからなくて。

 それを見透かしているかのように、1歩近付いた僕に彼女はまた笑いかけて。そんな笑顔にすっかり見蕩れてしまっていた僕は。

「なぁ、そんなに濡れて寒くないの?」

 何も考えられなくなりそうな頭でどうにか考えて絞り出せたのは、そんな異性に話しかける言葉としては最悪、ただの社交辞令としてもまぁ落第もの……たぶん会社の先輩が聞いてしまったら失笑の1つでもされてしまいそうな言葉だった。

 別にー?という何故か楽しそうな笑顔を返してくる彼女に向かって、僕の足は更に進んでいく。

 地面を激しく叩きつける雨と、少し急いだ僕自身の足取りのせいで泥が撥ねて、この夏に買ったばかりのスーツの裾が汚れてしまう。

 あぁ、またクリーニング出さないとな。

 面倒くさいけど、まぁ仕方がない。先輩の言う通り、いくつか予備を買っておいてよかった。

 一瞬、そんな醒めた思考が頭の中に浮かんできて。

 ジャングルジムの下から僕を見下ろす彼女に近付こうとした足は、少しの間だけ止まる。


 ここで彼女に話しかけて、僕に何ができる?

 そんな疑問が、心を包み込んでいく。


 僕は、改めて目の前の光景を見つめる。

 雨に濡れる公園の遊具と、フォトジェニックな容姿をした、けれどどこか虚ろな空気をまとった少女――いや、きっと女性というべきなのだろう。吹く風にざわめく木々。厚い雨雲の下で一段階明度を落とした町並み。

 それでも、雲を透過してくる真昼の陽光を浴びて仄かに白く輝いている。

 あちこちに付着した水滴は、まるで光り輝く綺羅星のようにも見えて、まるでその風景は、1枚の絵画のようだった。

 もちろん、その中心に鎮座しているのは、ジャングルジムの上でどこか猫を思わせる微笑みを浮かべる彼女で。

 そんな「中心」に僕なんかが気安く立ち入ろうとしていいのだろうか?

 整然とした領域を侵すのには、少なからず躊躇をしてしまう。雪原に足跡をつけることは、僕にはできない。

 今も、昔も。

 ずっと、そうなのだろう……。


「あー、飽きたー!」

 固定された不変の空気を打ち破るように大きな声を上げたのは、彼女で。

 僕にできたのは、「とう!」となんとも間の抜けた掛け声とともにジャングルジムから飛び降りてきた彼女の着地点で、その体を抱きとめる姿勢をとってみせることだけ。

 抱きとめるなんてとんでもない、言うならただそこにいただけ。

 彼女は自分で立ち止まれたし、勢い余って僕と一緒に倒れる……なんていうベタな展開もなくて。

 だけど、その抱きとめた体が雨のせいかひどく冷え切っていて。


「……冷たくなってる」

「そっちもね」


 腕の中から聞こえてくる囁き声に耳をくすぐられながら、僕は、まるでそれをするのが当たり前のことだとでもいうような感じで、彼女の冷たくてしっとりして柔らかい、それでいて骨の硬さは感じさせる小さな手を引いて、歩き始めていた。

 承諾するようなことを言ってくれたわけではなかったけれど、彼女も特にそれを拒むようなことは言わなかった。



 ただ雨宿りするだけなら、別にここでなくてもよかったはずなのに。

 磨りガラスの向こうから聞こえてくるシャワーの音に茹だっていく頭を平静に保っておくために、敢えてそんな醒めた指摘をする。


 かといって、公園近くの屋外には雨を凌げるような遮蔽物は見当たらず(見当たっても彼女が「え~、ここ? 風吹いてるから濡れるじゃん」と言ったのだ)、ずぶ濡れでどこかの店に入るのは気が引けた。

 たぶん、どちらが言い出した、というのでもないだろう。

 僕らは自然と、このホテルの一室にチェックインしていた。


 頭を抱える僕の耳に、浴室と寝室を隔てるドアの開く音が聞こえた。


「お待たせ」

 続いて聞こえたその声に抵抗することなんて、僕にできるはずもなかった。

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