気まぐれな神様は誰にでも微笑むし、誰にも微笑まない
遊月奈喩多
第1話 小雨の街角
窓を叩く激しい雨音なんて耳に入らないくらい、僕の熱は高まっていた。
感じる熱のままに重ねられた舌から目の前にいる彼女の鼓動まで伝わって来るような感じがして、それが更に僕の熱を高めていって。
酸素を求めてどちらからともなく離された唇。
もうとっくに日が暮れてしまっているのだろう、狭く薄暗い部屋に充満していく荒い呼吸の合間に、僕は尋ねていた。
「あのさ、ほんとにいいわけ?」
「それ、こっちのセリフ」
可笑しそうに笑いながら答えた彼女の声は、とても魅力的に聞こえた。
* * * * * *
「ったく……、雨降るなんて言ってたか?」
ようやく秋に入ったかという、夏と同じ格好では肌寒さすら感じてしまう昼下がり。
白く光っている、明るい灰色の曇天から降り注ぐ雨粒に、周りの通行人たちは一瞬空を見上げて、少し早足になって物陰を――強まっていく雨粒を避けられる場所を目掛けて歩き出す。
もちろん、僕もその1人だ。
天気予報曰く、今日は基本的に快晴。所によっては曇るということだったが、雨が降ってくるなんてことは少なくとも朝の時点では言っていなかったはずだ。
確かに、昼ちょっと前にボロアパートの部屋から出たとき既に空には重々しい色の雲が見えていた。ただ、それがものの2~3時間でぐんぐん広がって、こんなに冷たい雨粒を降らせてくるようになるなんて僕は思わなかった。きっと、周囲で慌ただしく歩いている通行人たちもそういうクチなのだろう。
平日の昼間とあって、土日に比べれば決して多いわけではないけれど、それでも大通りの狭い歩道にはそれなりの密度で通行人がひしめき合っている。その多くが僕と同じように外回り中の会社員で、見れば見るほど同じようなスーツばかりだ。
学生の頃、遊びに出かけたときに見たスーツ姿の群れを見て、個性がないだのなんだの好き勝手言っていたのを思い出して、つい笑う。
『ああいう人たちってさ、何が楽しくて毎日外にいるのかな?』
『こーちゃん、あんまりそういうこと言っちゃダメだよ』
『え~、だって絶対僕らの方が人生楽しんでるからさぁ、つい不思議に思っちゃったんだよね』
『まぁ、楽しいのは楽しいけど?』
最後にはそういう言葉で締め括られる、今思うと何も面白くない笑い話。何の恨みがあるわけでもなかったけれど、ついつい彼らをその具材にしてしまっていた。
今、そんな話をしながら僕を「こーちゃん」と呼んでいた人は、もう傍にはいない。色々あって付き合って、色々あって別れた。別れ話は信じられないほどあっさりと終わって、後から胸が軋んでも後の祭りで。
そんなことを繰り返していたら、いつの間にか今度は僕が「具材」だ。
今では「
それが、今の僕だ。
前島 光輝、26歳。
たった数年隔てただけの過去が遠い昔のように感じる、ただの会社員。それが、今のところ僕の正体で、僕はそれ以上でもそれ以下でもない。
上司からの突然の着信に応じて、イヤミこそ混ざっていないもののやや辛辣なお小言にヘコヘコと頭を下げていたら、ふと思った。
あーあ。
若い頃なりたくなかった「つまらない大人」とやらに、僕もなり果ててしまったわけだ。きっと僕はこのまま年老いていくのだろう。
何かの転機があれば、いつでも変われる。
そんな思い込みは、今に始まったことではない。
今がつまらないと感じたタイミングで、いつも思ってきた。夏休みになったら、大学に行ったら、一人暮らしを始めたら、就活始まったら。
転機になりそうなことがあったら、きっとそこで僕の日常は何かが変わる。
そんな期待に逃げ込んで、僕はここに至る。
確かに、転機になるようなことはあった。
それでも、チャンスの女神に後ろ髪はないというのはまさにその通り。目の前にきたチャンスに、僕は躊躇してばかりだった。そのうちにチャンスは逃げていき、僕はそのことにやり場のない怒りを覚えて。
その繰り返しだ。
そんなことを思い出してしまったせいだろう。
少しずつ強くなっていく雨の街で、ふと目に入った高台の公園。
雨に煙る町並みを向こう側に長く長く伸びている石段を上った先にある、1番端まで行くと近隣の街だったり線路だったりを見下ろすことができる、その高台に向かって、僕は走り出していた。
肌寒いなんて言って着ていた上着は脱いで、汗だくになりながら。
ようやく石段を上り終えた頃には、もう周りの音なんて聞こえないほど雨は強くなっていたけれど。
「あぁぁぁぁぁあああああああっっっ……!!!」
どうしてか、叫ばずにはいられなくて、ただ叫んだ。
過去を呼び戻す? 今をぶっ壊す? 叫び始めた瞬間から色々な理由を頭の中で探し始めたけどどれも何かが違って。
だから僕は、慌てたように街灯が灯り始めて、ヘッドライトが点灯した車ばかりが往来している眼下の景色に向かって、ただひたすらに喉を
やがて呼吸が落ち着いて、何をしていたんだろうとかそういう羞恥心と理性が戻りそうになったときに、気付いた。
普通なら真っ先に気付いただろうに、相当取り乱していたせいだろう、その瞬間まで、数m離れたジャングルジムの上に座りながら空を見上げている女の人がいることに、まったく気付いていなかった。
「………………」
雨の中でも、ほんの少しの陽光は感じられる。
その光に照らされながら雨に濡れているその
僕に気付いて、『何も見なかったよね?』とでも言いたげな微笑みを浮かべてくる彼女との出会いは、また僕に【転機】を期待させた。
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