第142話

 流血と共に葉月の体が痙攣し、体温が下がってゆくのを感じる。拓海の拳により、もはや機能していない葉月の喉から声にならぬ声が漏れた。


 お母さん


 拓海には確かにそう聞こえた。

 自らの死を前にして、葉月が口にした言葉は拓海にとって切なかった。

 どれだけ異形の姿になろうとも、その精神が歪んでいようとも、最後に想うのは自らを産み育てた母だったのだ。


 お母さん、お母さん、お母さん


 葉月は何度も母を呼ぶ。

 来るはずのない助けを求めて。


 やがて緩やかに肉体の痙攣が止まり、葉月の声も聞こえなくなった。


 歪な肉体が死を迎えたのだ。


 拓海は葉月の口から拳を抜こうとしたが、喉の奥までめり込んだ拳は簡単には抜けず、残った力で数分かけてようやく引き抜く。引き抜かれた拓海の腕には葉月の歯が何本も突き刺さっており、あちこちの皮膚が裂けて垂れ下がり、血管がむき出しになり、血にまみれ、不気味なオブジェのようになっていた。


 あまりに力を込めすぎていたせいか、それとも健が切れているせいか、開かなくなった右拳を左手の指で一本ずつゆっくりと引き剥がす。


 それから拓海は立ち上がろうとしたが、うまく立ち上がれずに尻餅をつき、後頭部を柵にぶつける。痛みは無く、ただただ寒かった。


 すると、息絶えたはずの葉月の下腹部が再びボコボコと脈打ち始めた。


 拓海はまさかと思い身構えようとしたが、一度緊張が解けた拓海の体は今度こそ動かなかった。


 しかし、次に起こった事は拓海の予想を遥かに超えた出来事であった。


 動かぬ葉月の股から大量の液体が溢れ出し、性器が大きく広がり始める。そして性器を裂くように、人とも虫とも呼べぬ白い生き物が這いだしてきた。いや、産まれてきたのだ。


 その姿はあまりに不気味であった。

 頭があり、胴体があり、人間のような手足があり、シルエットは確かに人の赤子ではあったが、その背には折り畳まれた羽のようなものがついており、関節が異常にくっきりしている。顔も昆虫に近く、決して人間のものではない。


 拓海はどうすれば良いのかわからなかった。


 逃げれば良いのか。

 それともその生き物を殺せば良いのか。


 拓海が戸惑っているうちに、その生き物はどこかへと向かって這ってゆく。そして屋上の中央付近に到達すると、羽根を広げ、夜空へと飛び去って行った。


 あれは葉月達に寄生していた虫と人間の混じり合った姿なのだろうか。


 拓海はそんな事を思いながら、飛び去ってゆく白い姿を見送る。


 色々な事がありすぎて、何を思えば良いのかそれすらもわからなかった。


 拓海の視界が霞み、白んでゆく。

 手足から大量に出血した拓海にもまた、死が迫っていた。


 恐怖は無かった。

 ただ寒く、心はとても寂しかった。


 ピコン


 どこかで小さく電子音が聞こえた。

 そちらに首を向けると、十メートルほど先にある桜子の死体の側に、剥ぎ取られた衣服と共に桜子のスマートフォンが落ちているのが見える。


 先程桜子が教えてくれた暗証番号はまだ覚えている。忘れるはずもない。それは拓海の誕生日であったのだから。


 拓海は今度こそ最後の力を振り絞り、地を這った。

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