第141話

 初めて拓海が桜子と性を交えた日、桜子はなぜ今まで拓海との肉体関係を拒んでいたのかを打ち明けた。


 それは特別に複雑であったり、難しい理由ではなかった。


 ただ、母親になる事が怖い。


 それだけであった。

 もし自分が妊娠をし、子を育てる事になった時、その命を背負うのが怖いのだと桜子は言った。だからそれと直結するセックスという行為が怖かったのだと。


 しかし桜子はこうも言った。

「こんな事言うと重いかもしれないけど、今の拓海君となら、きっと子供を育てていく事もできるかなって、そう思ったんだ。拓海君なんか変わったよね。前付き合ってた頃より逞しくなったっていうかさ」

 そして桜子ははにかむように笑った。


 もう、それが叶う事は無い。

 拓海と桜子が交わり、そこに新たな命が生まれる事は、もう無いのだ。


 拓海があの村で女達に喰われていれば、桜子がこの件に巻き込まれて死ぬ事は無かっただろう。どうせ死ぬのであれば、あの時村で死んでいればよかったのではないかと後悔の念がよぎる。


 だがそれは、今生きる事を諦めて良いという訳ではない。


 拓海の命は翔子や達山や茂木に救われた命だ。

 簡単に諦めて良い命ではないのだ。そして皆の仇を討ちたいという気持ちが、それまで混乱の中にあった拓海の胸に渦巻き始める。


 生き延びる。

 皆の仇を討つ。


 その両方を叶える方法がある。


 葉月を殺せば良いのだ。


 その時拓海は葉月に対して初めて明確な殺意を抱く。逃げるためではなく、生物として存在するために葉月を殺そうと。


「来るな……やめて……助けてくれ……」

 情けない声を出しながら、拓海はまだ動く左足と右腕で床を押し、這いずるように葉月から後退する。拓海が這った後には、乾いたマジックで線を引いたような掠れた血の道ができた。葉月は弱った芋虫を追い詰めるかのように、わざとゆっくりと、ジリジリと拓海を追い詰める。


「い、嫌だ……死にたくない……」

 拓海はやがて屋上を囲う柵まで来ると、震える腕で上半身を起こし、柵に背を預けた。葉月には拓海がもはやただの肉にしか見えていなかった。葉月は跪き、その長身を折り曲げて拓海に喰らいつこうと口を開く。


 その時、拓海の腕が素早く動いた。


 ガボッ

 葉月の口から詰まった排水管のような音が漏れる。

 拓海は葉月の開かれた口に拳を突っ込んだのだ。


 拓海は擬態していた。

 自らはもう何も抵抗できない弱者であるように振る舞い、最後の反撃の機会を伺っていたのだ。


 拓海は背中で柵を押し、そのまま葉月を押し倒すと、全体重をかけて拳を葉月の喉の奥まで押し込む。葉月は呻き声をあげ、中程まで突っ込まれた拓海の手首に歯を立てる。歯が皮膚を突き破り、骨まで達する感触があった。しかし拓海は構わず腕を押し込み続ける。脳内に溢れるアドレナリンが、拓海の痛みを消していた。


 メリメリと、葉月の喉が裂ける音が聞こえた。ゴボゴボと、葉月の口から血が溢れ出す。


 生物が生物を殺すのに、武器や毒や技術は必ずしも必要ではない。どんな手段でも相手の肉体を壊せば良いのだ。


 窮鼠猫を噛むという言葉がある。

 今の拓海はまさに窮鼠であった。


 気がつけば拓海の腕にめり込んでいた葉月の歯は折れて、腕は肘まで葉月の口内に収まっていた。しかし人体の生命力とは強く、葉月はまだ生きている。葉月の腕が拓海の顔に伸び、爪が眼球を傷つける。灼けるような痛みがあったが、拓海はそれでも力を弱めない。拓海は祈るように頭を下げ、目の前にある葉月の首へと噛み付く。そしてブチブチと引きちぎった。


 鮮血が噴水のように噴き出し、拓海の顔を赤く染めた。

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