第140話

 ぐちゃ


 片方の睾丸が潰れた感覚があり、足を食い千切られた時とは違う、重く響く吐き気を催すほどの痛みが拓海を襲い、拓海は歯を食いしばり、腕を床に叩きつけて痛みに耐える。痛みで半身が麻痺し、叫びにならぬ声が拓海の口から漏れる。


「全部あなた達のせい。大人しく死んでいればよかったのに、あなた達が私の全てを奪ったから」

 葉月は自分の歪な体を見つめる。

「ねぇ、何コレ? もう人じゃないじゃない」

 葉月の言葉を聞いて、拓海は思う。

 今の葉月は確かに化け物だ。

 拓海は灯籠村の寺で、葉月の残酷な振る舞いに「人間じゃない」と言った。

 しかし、どんなに化け物のような姿になり、記憶は混濁し、精神が狂おうとも、恨みからあらゆる手段で他人の全てを奪おうとする葉月は間違いなく人間である。そこまで醜くなれるのは人間だけだ。怒りや本能で他者の命を奪う生き物は数あれど、他人から全てを奪おうとするのは人間だけなのだ。


「あんたは……人間だよ」

 拓海はかすれる声で言葉を紡ぐ。

 その言葉に葉月は首を横に振る。

「違う、こんなのもう人間じゃない……」

 拓海はもう一度言う。

「その姿があんたっていう人間なんだよ」

 葉月は更に激しく首を振る。

「違う! こんなの私じゃない!」

「いいや、村にいた時よりもよっぽど人間らしいよ。その姿があんたの人間性を象徴してるんだよ」

 痛みのせいで恐怖が麻痺しているのか、葉月が激昂すれば今すぐにでも殺されるかもしれないにも関わらず、拓海の口からは思っている事がスラスラと出てきた。


「違う!」

 葉月は拓海を睨みつけ、馬乗りになると、拓海の顔面に拳を叩きつける。その力は強く、鼻骨が砕け、鼻血が溢れた。葉月は何度も何度も拳を叩きつける。


「あっ……」

 拓海の顔面が血みどろになった頃、ふと、葉月の動きがぴたりと止まった。

 拓海は葉月に先程のように記憶の混濁が起こるのかと思ったが今回はそうではなかった。

 葉月の腹がボコボコと波打ち始め、やがて止まる。

 そして葉月は呟く。


「……お腹空いた」

 葉月は拓海を見つめると、裂けた口を大きく開き、拓海のコートをはだけさせ、首元に顔を近付ける。そして喰らい付いた。

 歯が肉に食い込み、ブチブチと音を立てる。


 更なる痛みの中にありながら、拓海の頭は冷静であった。


 拓海はコートのポケットに手を入れると、中からキーホルダーのついた自宅の鍵を取り出す。そしてそれを握りしめ、葉月の目に突き立てる。それは拓海の生存本能が起こした最後の抵抗であった。


 葉月は絶叫しながら拓海から離れ、のたうちまわる。


 逃げるチャンスではあったが、拓海にはもう動く気力がなかった。潰れた睾丸と殴られた顔面だけは焼けるように熱かったが、出血のせいなのか酷く寒い。体も壊れたラジコンのようにゆっくりとしか動かず、もうろくに力も入らない。


 そんな拓海に向かって、般若よりも遥かに恐ろしい形相の葉月が立ち上がり、向かってくる。


 しかし拓海は葉月の事など見ていなかった。


 拓海の目には、偶然にもこちらを向いて転がっている桜子の首が映っていた。

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