第136話

 葉月が全裸である事と、その異様な体格に気付いた桜子は身を竦める。拓海は桜子を庇うように桜子の前に立つ。


「いいか、あいつに絶対捕まるな」

 拓海の言葉はあまりに説明不十分であったが、葉月の姿を見た桜子は大まかな事を理解する。「あの人はヤバい」今把握するべきはそれだけで十分だった。


 ヒタッ、ヒタッ、ヒタッ


 葉月が拓海達に向かって歩き始める。

 リノリウムの床に裸足で踏み込む足音が響く。

 拓海は桜子の手を握り「走るぞ」と言うと、葉月とは反対方向へと走り出した。


 ヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタ


 拓海達が走り出した瞬間、葉月も走り出したのが足音でわかった。


 A棟はコの字になっている建物で、全ての窓と出入り口や非常口が塞がれているとなれば、階段とエレベーターを駆使して葉月から逃げねばならない。しかし拓海にはA棟の中で安全な場所など検討もつかない。


 追われながら逃げるというのは精神的ストレスにより体力を激しく消耗する。拓海も桜子も逃げ回るうちにいずれ体力の限界を迎えるだろう。早急にA棟から脱出するか、どこか安全な場所を見つけて警察に連絡する必要があるのたが、葉月に追われている状況では窓を破る時間も、電話をかけている暇もない。もっとも警察を呼んだところで、警察の到着まで拓海達が生きていられるかはわからないが。


「ねぇ! あの人不審者でしょ!? 警備の人は!? 警備の人呼ぼうよ!」

 桜子の言葉で拓海は思い出す。このA棟の一階には警備室があり、冬休み中でも常駐する警備員がいるはずだ。しかし拓海は気がかりであった。果たして警備員がいる状態で、葉月が棟内にあれだけ好き勝手に細工ができるものかと。拓海の予想では、警備員はどこかで拘束されているか、既に殺されているだろう。


 それでも万が一の可能性に賭けて、拓海は桜子の手を引いて、先程上ってきた階段とは建物の正反対の位置にある階段を一階へと下りる。もし警備室に警備員がおらずとも、中に入り鍵を掛ければ警察に電話する時間は稼げるはずだ。もしかすれば刺又や警棒などの武器も手に入るかもしれない。


 一階に下りて階段を振り返ると、踊場に葉月の影が映る。二人は真っ直ぐに警備員室へと走った。


 拓海が入って来たのとは別の入り口の前に、警備室の窓口と入り口が見えた。窓口に警備員の姿はないが、電灯の明かりが漏れており、それを見た拓海の胸に僅かな希望が灯る。拓海は警備室の扉に飛びつくとドアノブを捻る。鍵はかかっておらず、ドアを押すとすんなり開いた。そのまま桜子と共に中に飛び込み、素早く鍵をかける。すると次の瞬間。


 ガシャガシャガシャガシャガシャガシャ


 追ってきた葉月の手により、ドアノブが激しく暴れた。あと数秒遅ければ葉月の侵入を許していただろう。拓海の背に冷たい汗が流れる。


 二人が固まっていると、葉月は侵入を諦めたらしく、ドアノブの音はやがて止んだ。拓海はゴクリと唾を飲み込む。すると、拓海の背後で桜子が小さな悲鳴をあげた。


 拓海が振り返ると、警備員室の窓口から、葉月があのニタニタとした笑みを浮かべながらこちら側を覗き込んでいた。

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