第135話

 拓海は消火栓の側に設置されていた消化器を手に取る。消火器はズッシリと重く、これならば窓を叩き割る事もできるかもしれない。窓の外を見下ろすと、地面は硬そうな石畳になっている。十メートルに満たぬ高さとはいえ、飛び降りるには正直かなりの度胸が要りそうだ。


 消火器を振りかぶり、力の限り窓に叩きつけると、完全には割れはしなかったものの、大きくヒビが入る。後数回繰り返せば窓は完全に砕けるかもしれない。しかし、消火器を窓に叩きつけた事により、静寂の中にあった棟内にはかなり大きな音が響いた。早くしなければ音を聞きつけた葉月が拓海の元にやってくるのは時間の問題だ。


 二度、三度と、消火器の底を窓に打ち付けるが、ヒビは広がっても中々破るには至らない。ガラスの中に埋め込まれている針金がガラスの強度をかなり強くしている。


 そして四度消火器を叩きつけようとした時、廊下の奥から声が聞こた。


「誰!? 何してるの!?」


 それは葉月の声ではなく、そこにいるはずのない人物の声であった。


「桜子!?」


 暗い廊下の奥に立っていたのは、コートを着て肩からトートバッグを掛けたショートヘアの小柄な女、拓海の恋人である桜子だった。


「拓海君?」


 桜子が訝しげに拓海の名を呼ぶと、拓海は消火器を手放し、桜子へと駆け寄る。そこにいたのは間違いなく桜子だ。


「お前こんなとこで何してるんだよ!?」

「え? 私、茂木君に拓海君の事で内緒の相談があるからって呼び出されて、A8教室で待ってたら急に電気が消えて、それでどうしようかと思ってたらバーンって音が聞こえてきたから、それで……ねぇ、これどうなってるの? 拓海君何やってたの?」

 葉月は拓海だけでなく、桜子の事も呼び出していたのだ。これは拓海にとって最悪の状況であった。拓海が一人で逃げれば、葉月は桜子を殺すであろう。一人であれば多少の無茶もできたであろうが、拓海は桜子を守りながらここから逃げねばならない。


「今は説明している暇が無いんだ。今かなりヤバい状況で……とにかくここから逃げなきゃマジでヤバいんだよ!」

「ヤバいヤバいって、何がヤバいの?」

「ここにいたら俺達殺されるんだよ!」

「え? ちょっと待ってよ。どういう事?」

 桜子は拓海の言う事を理解できていないようだ。桜子は灯籠村の事も葉月の事も知らぬのだから当然だ。ただ不安げな表情を浮かべて拓海を見つめている。

「後で全部説明するから! とにかく今は俺と一緒に逃げろ!」

「待ってよ! わかんないよ! ねぇ、拓海君! ねぇ……あれ、誰?」

 桜子の視線が、拓海の顔から拓海の背後へと移る。そして視線の先、廊下の奥を指差した。

 拓海が振り返ると、そこには異様に背の高い影、こちらを伺っている葉月がいた。

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