第134話

 拓海はいっそ窓を破ろうかと考えたが、大学の窓は針金の入った強化ガラスになっており、簡単には破れそうにない。この様子では一階の出口は全て塞がれていると考え、葉月を警戒しながら一番近くにある階段へと向かうと、階段を駆け上がり始めた。


 上階へと向かってどう逃げるかという手段は考えていなかったが、今はとにかく葉月から離れねばならない。二段飛ばして三階まで一気に駆け上った拓海が下階を振り返るが、葉月は追ってきていないようだ。すると。


 ウウウン


 すぐ近くで機械の駆動音が聞こえ、拓海はそちらを見る。そこにはエレベーターの扉があり、扉の上にある階層を示すランプは点滅しながら上階へと上がってきていた。


 ドアの開閉に時間のかかるエレベーターを、拓海は逃走の手段として考えてはいなかった。もしエレベーターのドアに手を差し込まれて、狭い密室に追い込まれれば助かりようもない。しかし、追う側の葉月はそれを気にする必要はない。棟から出られぬ拓海が疲れ果てるまで、じわじわと追いつめれば良いのだ。


「クソっ!」

 拓海は先程とは逆に、転がるように階段を下り始める。


 だが、一階へと下りる階段の踊り場で拓海はピタリと足を止める。拓海の脳裏には一つの疑問が浮かんでいた。


 あのエレベーターにはたして本当に葉月は乗っていたのだろうか。と。


 もしかしたら葉月は拓海が一階へと下りてくる事を読んでおり、今も階段の死角で待ち伏せをしているのかもしれない。


 耳をすませるが、上階からも下階からも足音は聞こえてこない。いや、拓海を追ってきた葉月は確か裸足であった。リノリウムの床に裸足で足音は響くものであろうか。近くであればペタペタと聞こえるかもしれないが、近付かれてから逃げても遅い。


 拓海は二択を迫られる。

 上階へ戻るか、それともこのまま一階まで下りるか。


 数秒考えた後に拓海は階段を上り始める。そして二階まで上がり、辺りを見渡すと廊下を走り始めた。

 もし葉月が一階で待ち伏せているのであれば、一階に下りれば捕まるだろう。そして今拓海のいるA棟は五階まである。葉月が拓海を追って三階以上の上階へと向かったのであれば、階段であろうがエレベーターであろうが、下りてくるまでに時間がかかる筈だ。拓海はそう判断して二階へと逃れたのだ。


 そして拓海が二階へ来たのにはもう一つ理由があった。二階であればいざという時に窓から飛び降りても怪我をしない可能性があるからだ。排水管などを伝えば三階以上からでも下りられるかもしれないが、拓海は軽業師ではないし、そんな事をした事がない。葉月から追われているこの状況で、できる限りリスクは犯したくない。


 辺りを警戒しながら走る拓海の目に、消火栓のボタンが映る。もしかしたらそれを押せば警報が鳴り、消防が駆けつけてくれるかもしれないと思い試しに押してみるが、警報装置は電源が切られているのか何も反応はなかった。


 窓の細工といい、警報装置の電源といい、葉月が拓海を殺すためにどれだけ用意周到に準備していたのかが伺える。いや、ただ殺すだけであれば刃物を持って夜道で襲うだけで良い。母である良子を殺されたからか、あのような姿になってしまったからか、葉月は拓海を底知れなく恨んでおり、悪意を抱いているのだ。だから拓海をじわじわと追い詰め、拓海が発狂しそうな恐怖の中で苦悶の表情を浮かべて死ぬ事を望んでいるのだろう。


 変わり果てた葉月のあの恐ろしい姿は、彼女の歪んだ精神を体現したものなのかもしれない。

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