第108話

 葉月は小さく咳込み、吸いかけのタバコを携帯灰皿にねじ込む。そして恥ずかしげに笑う。

「私も興味本位で吸った事あるの。あの時は二度と吸わないって思ったけどね」

 そして翔子へと歩み寄り、翔子の髪を撫でた。


「ねぇ、翔子ちゃんはこの村を出たいって思った事はある?」

 翔子は葉月に心中を覗かれたのかと思い、ドキリと胸を高鳴らせた。

「……あるよ。ちょっとだけね」

 一瞬だけなんと答えるべきか悩み、翔子は正直に答える。下手に嘘をつくよりも、本音を交えて話す方がこの場を凌ぎやすいと考えたのだ。

 それを聞いた葉月は微笑む。


「私もあるわ。外に出て、美味しいものを食べたり、色々買い物したり、素敵な人に出会ったりしたいなって」

 それはこの村で生まれた女が必ず一度は抱く気持ちであった。

「でもね、結局私達にとってはこの村が一番安全で、一番過ごしやすい場所なのよ。田舎で不便なこの村が、私達の唯一の聖域なの。だって考えてみて? もし外に出て、誰か男の人を好きになったりしたら辛いわよ。その人が誰か他の女と幸せになるのを見ている事しかできないなんて、まるで人魚姫のお話じゃない」

 人魚姫。その話は翔子も以前読んだ事があった。

 確か海に住む人魚が、陸に住む人間の王子様を好きになるという話だったはずだ。


「それだけならまだいいかもね。もしその人と性を交えてしまったらもっと辛いわよ。愛するその人を殺したくて殺したくてしょうがなくなって、我慢して我慢して我慢しても、結局殺して食べちゃう。そんなの翔子ちゃんに耐えられる? 人魚姫は王子様を殺さずに自ら泡になったけど、私達にはそれすらできないのよ。綺麗な泡になんてなれない。血に塗れて生きる事しかできないの」

 確かに酷な話だ。

 翔子は以前母に、実験的に村を出て生活をしていた人がいるという話も聞いた事があるが、彼女達も皆村に戻って来たとの事だ。中には殺人を犯した者もいたそうだ。


 だが、翔子はそうはならない自信があった。昨夜拓海とセックスをした時も、性的快楽以外には何も感じなかったのだから。何より葉月達の行為に対する長年抱いていた嫌悪感が、翔子がまともな人間であるという証拠だ。


「だからね、村を出ようなんて馬鹿な事考えちゃダメよ」

 葉月の手が翔子の頭から首へと下りてくる。

「……葉月ちゃん?」

「翔子ちゃんは私にとって大事な妹のような存在なの。だからね、葉月ちゃんには辛い思いをして欲しくないのよ」

 首元を撫でる手は、更に胸元へと下りる。翔子はくすぐったさに身をよじるが、葉月は翔子の服を掴み、更に歩み寄った。


「あ、ありがとう。私も葉月ちゃんの事、お姉ちゃんみたいに思ってるよ」

 それは翔子の本心である。

 葉月は昔からよく翔子の世話をやいてくれた。幼い頃からいつも遊んでくれたり、勉強を見てくれたり、意地悪をする友人から守ってくれたりもした。

 時より恐ろしいと思う面もあったが、葉月は翔子にだけはただひたすら優しく、翔子はその事に感謝していた。


「もし翔子ちゃんがこの村にいる事が辛いのなら、私が翔子ちゃんの生き甲斐になってあげる」

「えっ?」

 翔子がその言葉の意味を聞き返す前に、翔子の唇は葉月の唇に塞がれた。葉月の口からは、仄かに苦いタバコの匂いがした。

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