第107話
ドアの前に立つ葉月の背後から、翔子は室内を覗き込んだ。室内に茂木の姿は無い。
葉月は翔子の部屋に入ると、そのまま窓に歩み寄り、シリンダー錠を下げて窓を開けた。
「翔子ちゃん、タバコ吸うなら外で吸わなきゃダメよ。そもそもタバコ吸ったらダメだけど」
「え? う、うん」
葉月の声色はさっきとうってかわって穏やかだ。まるで先程の事が無かったかのように。そして葉月は机に置いてあったタバコとジッポライター、そして携帯灰皿を手に取った。
「翔子ちゃんがタバコとかに興味ある年頃なのはわかるけど、いくら死ぬ事が決まっている人の物でも盗んだりしたらダメよ。これは茂木さんが死ぬまでは茂木さんの物なんだから」
翔子ははじめは、葉月が何を言っているのかがわからなかった。しかし、心が落ち着くに連れて理解が追いつく。葉月は翔子が茂木の部屋からタバコを盗んで、部屋で吸ったと勘違いしているのだ。
「あ、うん。ごめん……昨日茂木さんが吸ってるの見て、私も吸ってみたくって」
葉月は呆れた表情を浮かべて翔子に歩み寄ると、掌で翔子の頭を撫でた。
「ねぇ聞いて翔子ちゃん。私達は手が血に濡れていても、心は人間なのよ。だから、悪い事はしちゃダメ。いい?」
「……うん」
「それに、昨日のお勤めでもしかしたらお腹に御子を宿したかもしれないのよ。お勤めを果たして女になったんだから、そういうのもちゃんと考えなくちゃダメ」
翔子は葉月の言葉に頷きながら、そこでようやく葉月が翔子の口内の匂いを嗅いだ理由がわかった。葉月はタバコの匂いが確かなものか確認したのではない。タバコを吸ったのが翔子自身かを確認したのだ。
翔子の服には茂木のタバコの匂いが付着していた。もし翔子の口内からタバコの匂いがしなければ、翔子は茂木と行動をしていたという事が明らかになる。あの時翔子が気まぐれでタバコを一口吸った事と、皮肉にも葉月の鋭さがこの急場を凌いだのだ。
しかし、気になるのは茂木がどこに消えたのかだ。先程鳴った物音は、翔子の部屋のドアの音だ。翔子の部屋のドアは立て付けが悪く、開くと音が鳴る。おそらく茂木は翔子の悲鳴を聞いて、様子を伺うためにドアを開けようとしてしまったのだろう。だが、廊下を歩いた音などはしなかった。しかも部屋に一つしかない窓のシリンダー錠も閉まっていた。
つまり茂木はまだこの部屋にいる。翔子の部屋で身を隠せる場所は一つしかない。押入れだ。
翔子がチラリと押入れの方を見ると、さっきまで僅かに開いていた押入れの襖がぴったりと閉じている。茂木は物音を立てたことに気付き、咄嗟に押入れに隠れたのだろう。
「とにかく、もうタバコはダメよ。美味しくなんて無かったでしょう?」
「あ、うん、めっちゃマズかった。茂木さんよくこんなの吸うよね」
「きっと男の人って口が寂しいのよ。ほら、拓海さんも昨日吸い付いてきたでしょう? 赤ちゃんみたいに」
突然そんな話題を振られて、翔子は昨夜の事を思い出して顔を赤くする。
「あー、私、香のせいで結構記憶飛んでて、あんまり覚えてないかなぁ……」
言葉通り、翔子は昨夜の拓海とのセックスをあまり覚えていなかった。断片的な記憶の中で、確かに拓海に乳房を吸われた覚えがある。しかし茂木が押入れで話を聞いている事を思うと、「吸われた」とは言えなかった。
「男の人ってどんな立派な人でも、どんなに歳をとっていても、女に母性を求めるのよ。だから死にゆく人達を私達は優しく抱きしめてあげなきゃいけないの。大丈夫だよ、怖くないよって」
そう言って葉月は窓際に立つと、手にしたパッケージからタバコを一本取り出すと、咥えて火をつける。
「ふーっ。やっぱり美味しくないわね」
窓から外に煙を吐きながら、夕暮れが迫った空を見上げる葉月は、女の翔子から見ても美しい顔をしていた。
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