第92話

 お友達。それは茂木の事を言っているのであろうか。


 拓海には葉月の言葉が信じられなかった。いや、信じたくなかった。床に転がるそれが、昨日まで陽気に話をしていた茂木であるだなんて、信じられるはずがなかった。目玉一つになってしまってはもうタバコも吸えない、バカな話もできない。生きて村を出る事はできない。


 そして、次は自分がそうなるのだ。


 拓海は腰を抜かしそうになりながらその場を逃げ出した。扉を潜り、暗い廊下を中庭へ向かって走る。もう全てどうでもいい。茂木も、達山も、葉月も、村の秘密も。ただ、この場から逃げ出したかった。そして生きてこの村から平穏な日常へと帰りたかった。


 今までどこか漠然としていた恐怖が一気に拓海へと襲い掛かる。今にも頭がおかしくなりそうだった。


 拓海は走りながら手を縄から抜こうとするが、縄はきつく結ばれており解けない。ただ汗でわずかに滑り、荒い縄の表面が拓海の皮膚を傷つけるだけだ。


 すると、手に気をとられていた拓海は足を滑らし勢いよく転倒する。顔面を庇った腕を強かに床に打ち付けたが、今は痛みに構ってはいられない。


 素早く立ち上がろうとするが、次の瞬間胃液が急激に押し寄せ、拓海は床に這いつくばったまま嘔吐した。


「あらあら」

 背後から声がする。葉月だ。葉月は胃液に喉を焼かれて苦しげに嘔吐を続ける拓海に近付くと、血に塗れたその手で拓海の背をさすった。背に触れられた瞬間、拓海の身体はガクガクと震えだす。葉月のその仕草は一見拓海を気遣う優しい仕草のように思えたが、拓海は気付いた。葉月という女が邪悪な本心を秘めている事に。


 葉月は楽しんでいる。拓海が自らが置かれた状況に恐怖している姿を。先程の会話も、優しげな言葉も、全ては今恐怖に悶える拓海を見るための演出だったのだろう。本当に拓海に穏やかな気持ちで死んでもらいたいのであれば、茂木の死を知らせるのにわざわざ茂木の眼球を手渡すなどという回りくどいことはしない。事実を隠すか、あるいは素直に告げれば良いだけだ。


 人を喰らうこの村の女達はもちろん異常だ。しかしその中でも葉月は特に異常だ。人の心を弄び、恐怖に怯える様を楽しむなど、邪悪であるとしか言いようがない。きっと今振り向けば、歪んだ笑みを浮かべる彼女の顔が拝めるだろう。拓海は恐ろしくて、悔しかった。そのような卑劣な人間、いや、化け物に殺される事が。


「……違う」

「え?」

 吐き終えたばかりの喉から漏れた拓海の言葉に、葉月は背をさする手を止める。

「あんたは人間じゃない」

 そう言って、拓海は葉月へと振り向いた。

 それは虚勢ですらない、拓海の中で湧いた恐怖と悔しさから出た言葉であった。もう助からぬのであれば、せめて葉月に一言でも恨み言を言いたかったのだ。


 達山から聞いた話で、葉月は自分達が人間であるという事に異様にこだわっていた。そして拓海も、昼間に温泉から帰る道中で葉月のその様子は見ている。だから「人間ではない」などと言われれば、葉月は激昂すると思った。もしかしたらこのまま殺されるかもしれないと。

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