第82話

 夕暮れが迫る森の中で、達山は木に背を預けながら座り込んでいた。森の中に、蝉の声が物悲しく響く。森の匂いがする風が、火照った達山の頬を撫でた。


 これからどうすれば良いのか。そんな事すら考える余裕も無いほどに、達山は肉体が疲労していた。以前フルマラソンを走った時に「二度と参加するまい」と思ったが、その時以上の疲労だ。ただゴールを求めて走り続けるのと、何かに追われながら当てもなく走り続けるのはこんなにも違うものであろうか。

 達山は思う。


 もう二度とこんな村には来るまい、と。


 最も、それは無事にこの村から逃げ切れたらの話であるが。

 達山は、背後に聳える山を見上げる。山の向こうには山があり、その向こうにも、そのまた向こうにも山が連なっている。桜島が見えれば、大体の位置と方角がわかるのだが、残念ながらこの村は山に囲まれており、その姿を見る事はできない。


 村人達の目を掻い潜り、村の出口から車道に出て車を拾える確率と、山々を越えて人里まで辿り着く確率はどちらが高いだろうか。そんな事は考えるだけ無駄である。どちらの可能性も限りなく低い。


 とにかく今は、一歩たりともここを動きたくなかった。今美咲が追いかけてきたら間違いなく捕まるだろうと思う程に。


 大きくため息を漏らし、達山は唯一の持ち物であるウエストポーチを探る。中には昆虫採集用の小物と、虫除けスプレー、スマートフォン、ペンライト、非常食用のチョコレートバー。そして、寺の蔵で拾った革張りの手帳が入っていた。


 村の地図でも書いてあるなら別だが、今更村の情報など知ってもどうしようもない。この村の秘密を解き明かし、救い出そうとしていた美咲に裏切られたのだから。


 美咲だけではない。アヤが最後に会った時に持って来てくれた水。今思えば、あれにもきっと睡眠薬でも盛られていたに違いない。達山を眠らせ、親子仲良く食卓を囲むつもりだったのだ。


 水。


 先程から酷く喉が渇いている。

 この手帳がペットボトルの水に変われば、などと思いながら、達山は緩慢な動きで、読み損ねたページを開く。


「私がこの村について調査した事をここに記す」


 その先には、西之原という人物が、達山と同じように偶然この村を訪れ、過剰なまでのもてなしを受けたという内容がつらつらと書かれていた。そのもてなしを奇妙に思い、この村を調べ始めたという事も。


 くだらない。何が調査だ。


 達山はケシの花の栽培場と、この村の最大の秘密であろう食人の現場を見たのだ。それ以上の秘密などあるはずがない。そう、思っていた。


 しかし、ある一文が達山の目を引く。


「廃寺で、この村の成り立ちを記した古い文書を見つけた。要約した内容を記す」


 この村の成り立ち。

 それはただ逃げる以外に選択肢のない達山にも興味がある事だ。


 それを知る事で今の状況が変わるとは思えなかったが、達山は手帳を読み進める事にした。

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