第81話
その声に戦慄し、達山は思わず急ブレーキをかける。シートベルトをしていない体は勢いよくつんのめり、フロントガラスに頭を打ち付けそうになった。
体制を立て直し、恐る恐るルームミラーを見ると、後部座席に積まれていた毛布が捲りあがり、一人の少女が起き上がる。それは美咲であった。
達山は動けなかった。
この村の女達は、どこまで達山を追い詰める気であろう。「我が村の観光資源は温泉と絶望です。さぁ、名物の人肉料理をお楽しみください」とでも言いたいのであろうか。馬鹿げている。
後部座席の美咲は口を開く。
「行かないで」
その声は、まるで仕事へ行く父親に甘える幼い娘のような声だ。もし達山が本当に美咲の父親であれば、その日は講義を休校にして遊園地にでも連れて行きたくなるような。
美咲は座席越しに手を伸ばし、達山を抱きしめる。そして耳元で囁くようにもう一度言った。
「ネェ、イカナイデ」
そして達山の耳に優しくキスをする。
「ワタシニ、アカチャンヲウマセテェ」
邪悪だ。
それは普通の少女が口にするはずの無い言葉だ。
美咲の中に潜む何者かが、繁殖するために美咲の体を乗っ取り、美咲の声帯を借りて言わせているのだ。次は美咲の子宮を借り、男達を悦ばせ、そこに命を宿す。そして生まれてくる子のために達山を食らうつもりなのだ。
美咲は達山の恐れを愉しむかのように、達山の耳を舐める。「もう諦めろ」と言わんばかりに。
達山は美咲の腕を振りほどき、ドアを開けて車から飛び出す。そして農道を村の出口に向かい走り出した。
運否天賦でいい。
生き残る可能性が残っているのなら。とにかく村を出て、車道で車を捕まえるのだ。
しかし、達山は自分の浅はかさをすぐに後悔する。
背後から、車のエンジン音が追いかけて来たのだ。
振り返ると、驚くべき事に運転席には美咲がいた。まさか美咲が車を運転してくるとは思わなかった。当然無免許運転という事になるが、この状況でそんな常識が通用するはずが無い。アヤの車はオートマだ。交通ルールや道路交通法を気にしなければ、最近のテレビゲームよりもよっぽど簡単に動かせる。
達山はなぜキーを抜いてこなかったのかと自分を殴り飛ばしたくなる。
このままでは数秒後には達山は跳ね飛ばされるだろう。その時に死ねれば幸運であろうが、もし目を覚ましたら手足が切断されて、あの寝台に寝かされていたらもう地獄だ。
美咲の操る車はもう数メートル背後まで迫っていた。
車が接触する寸前、達山は左側に跳躍し、畑の中に飛び込む。バンパーが僅かに足に当たったが、怪我は無いようだ。達山は土に塗れながら起き上がり、正面に見える山林へと向かって駆けた。
振り向くと、背後では達山を通り過ぎた美咲の車がハンドルを切って畑へと入ろうとしている。だが、農道と畑の間には土手がある。車は左の前輪から土手に入り、バランスを崩して横転した。ガシャンという大きな音が聞こえ、車は動かなくなる。
達山は思わず立ち止まった。
こんな状況にありながらも、美咲が怪我をして動けなくなったのではないかと考えてしまったのだ。
しかし、その心配はなかった。
横転した車のエンジン音が止まる。
そして運転席側のドアが上に向かって開くと、中から美咲がズルリと這い出してきた。
達山は胸をなでおろしつつ、再び走り出し、木々の中に駆け込む。そして美咲の姿が完全に見えなくなっても、達山は限界まで山林を走り続けた。
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