第80話

「あら、達山さん」


 アヤを見た達山は、車から数メートル離れた場所で足を止める。ぜいぜいと息を切らしている達山を、アヤは不思議そうに眺めた。そして微笑み、こう言った。


「おかえりなさい」


 それは家庭を持たず、両親も他界している達山がもう聞く事はないと思っていた言葉だ。アヤが自分を騙そうとしていた人間だとはわかっている。それでも、その一言は達山の胸にスッと染み込んだ。


 だが、達山は警戒を解く事はしない。ここで「ただいま」などと言いながら迂闊に近付けば、待っているのは死だ。


 アヤは、「今朝少し灰が降ったから、洗車してたんです」などと言いながら、水道の蛇口を止めた。そして、「大丈夫ですか? お水いりますか?」と言うと、家の中へと入ってゆく。


 達山はその隙に玄関に飛び込み、玄関脇に掛けてある車のキーを掴んだ。そして車に乗り込み、エンジンをかける。


 エンジンが唸りを上げた時、達山は思わずガッツポーズをしてしまった。車のエンジンがかかっただけでこんなに嬉しかった事など初めてだ。きっとこれからもこんな事はないだろう。


 そこに、水の入ったコップを手にしたアヤが出てくる。アヤは車に乗り込んでいる達山を見て、驚いたように「達山さん!」と叫んだ。


 ほんの少し、ほんの少しだけ発進するのを躊躇った。


 本当は「早く! 美咲ちゃんと一緒に乗って!」と言いたかった。だが、達山はそこまでセンチメンタルではない。あの素朴な顔の下には、鬼が潜んでいる。ここで情にかられ、後に彼女達に内臓を喰われながら後悔してももう遅いのだ。


 達山がアクセルを踏むと、サイドミラーがアヤを掠めて車は走り出す。そして庭を出ると、村の出口に向かい、勢いよく走り出した。


 もしかしたら出口で待ち伏せをされているかもしれない。あの狭い道であれば、乗用車一台で十分塞げてしまう。それでも行くしかない。まだ彼女達の手が回っていない事を信じて。


「ねぇ」


 突如、後部座から声がした。

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