第63話

 酔いは回っていたが、達山は布団に入ってしばらく中々寝付く事ができなかった。昼間に見たケシの花の事が気になっていたのもあるが、それ以上に、アヤと美咲と過ごした時間があまりにも心地よく、達山はなぜ今まで自分が家庭を持とうとしなかったのだろうと考えてしまったのだ。


 達山も若い頃は結婚を意識して付き合っていた女性がいた。一度だけだが、自らが受け持つゼミの学生からモーションをかけられた事もあった。だが、達山は最終的に一人でいる事を選んだ。結婚し、子を持ち、家庭を持つという事が煩わしかったのだ。


 達山の家は貧しく、両親はいつも喧嘩ばかりしていた。父は達山や母親をよく殴り、母親は達山にいつも恨み言を吐いていた。そしてこうも言った。「あんたさえ産まれてこなければ」と。


 そんな家庭背景もあり、達山は家庭を持つことに理想を抱けなくなった。結婚は所詮一時の性的欲求に流された人間がするものであると考えるようになった。研究室で虫達の交尾を見ながら、遺伝子を残すためだけに生きるなどナンセンスであるとすら思っていた。


 では達山は何のために生きるのか。


 その答えは四十を過ぎた今でも見つかってはいない。


 だが、もし、アヤのような嫁がいてくれれば、毎日に彩りがでるだろう。美咲のような娘がいれば、研究室から家に帰るのが楽しみになるだろう。そんな日々も悪くない。


 アヤは独身だと言っていた。なぜ旦那がいないのかは踏み込んで聞かなかったが、元旦那と籍を抜いてあるのならば関係ない。もしかしたらこれが、達山が家庭を持つ最後のチャンスかもしれない。


 食事にでも誘ってみようか。


 達山は目を閉じて、アヤと美咲と一緒に天文館を歩く空想をした。そんな日々が訪れたら良いと思いながら。


 幸せな空想に包まれながら、達山は眠りへと誘われてゆく。


 達山の意識が完全に眠りに落ちそうになったその時である。達山の鼻孔を、昨夜嗅いだあの匂いがくすぐった。


 達山はハッとし、酔いと眠気でぼやけた意識を覚醒させる。そして、暗闇の中で布団に誰かが潜り込むのを感じた。

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