第52話
茂木が拓海の部屋を出て、自分の部屋のドアノブを掴んだ時、茂木はドアの向こうに人の気配を感じ、動きを止めた。
ズルリ……
ドアの向こうからは、何やら布を引きずるような音が聞こえる。
拓海を呼ぶべきだろうか。いや、今変に騒がしくして、民宿を囲まれでもしたらまずい。それにもし部屋の中で待ち伏せをするつもりであれば、音なんてたてないはずだ。
茂木はゆっくりと、しかし平静を装いドアを開ける。すると、部屋の中には、茂木に背を向けて布団からシーツを外している女将がいた。
「あら、ごめんなさいね、今お布団を干そうと思って」
茂木に気付いた女将はいつも通り優しげな笑みを浮かべて、シーツを布団から剥ぎ取る。
茂木は「あぁ、どうも」と会釈して、部屋へと足を踏み入れた。
そして何も言わずに、あくまでさりげなくカバンに荷物を詰め始める。
「晩御飯は何か食べたいものある?」
背後からかけられた女将のその言葉に、茂木は僅かに肩を震わせた。
「あ、いやぁ、何がいいかなぁ」
茂木は心中を悟られぬように、作り笑いを浮かべながら荷造りを続ける。カバンに詰める荷物は多くはない。携帯の充電器や脱ぎ散らした服を入れるだけだ。すぐに終わる。
荷造りが終わったら、一度荷物を置いたまま、拓海の部屋に向かおう。とにかく今慌てる必要は無い。そもそも茂木達が何か危害を加えられるとも決まっていないのだ。それならば、何も知らぬふりをして、普通に、さり気なくこの村を去るだけの事だ。
「お肉はどうかしら? それともお魚?」
茂木の背中越しに女将は声をかけ続ける。
「うわぁ、悩むなぁ。でも、なんか毎日ご馳走になるのも悪いっすよ」
「いいのよ、気にしなくて。何でも好きな物を言って頂戴」
「じゃあ、お任せでいいっすよ。俺もあいつも好き嫌い無いんで」
「せっかくだから好きな物を教えて頂戴よ。あ、さっき車でエビが好きって言ってたわよね」
「あー、エビめっちゃ好きっすよ、でもマジでおかまいなく。女将さんの料理はマジ全部美味い……」
荷造りを終え、ふと背後を振り向いた茂木はその場で硬直した。
「じゃあ、何がご不満だったのかしら」
女将はただ、真っ直ぐに茂木を見ていた。
双眸を見開き、まるで獲物を見る爬虫類のようにじっと茂木を見つめている。その目の中にはウゾウゾと何かが蠢いていた。
「あ……」
茂木はカバンから手を離し、声の出ない口を開閉させながら後ずさる。
女将の手には何も無い。しかし、茂木の体はまるで銃口を突きつけられたかのように萎縮してしまう。それ程女将の表情は異様であった。
まだ、まだ大丈夫だ。
茂木は唾を飲み、浅く息を吸うと、言葉を絞り出す。
「別に、何も不満なんてないっすよ」
女将は無表情で、しかし目だけは見開き、抑揚のない言葉を返す。
「じゃあ、もっと、ずっとここに居てもいいじゃないの」
「そう……ですね。いっそ夏休みいっぱいいようかな。なんて、迷惑っすよね」
茂木が冗談めかして返しても、女将の表情はピクリとも変わらない。
心中は既に悟られている。茂木はそう確信した。
もしかしたら拓海の部屋の外で聞き耳を立てていたのかもしれない。そして同時に、この村がおかしいという事も確信する。茂木は意味のない探り合いを止める覚悟を決めた。
「女将さん。普通に帰らせて貰うわけにはいきませんか? この村、めっちゃいい村だよ。自然が綺麗で、人が優しくて、飯もうまいし、美人ばっかりでさ。だから、楽しい思い出を持って帰りたいんだ」
茂木は女将から目を離さず、手のひらを軽く握り、開く。先程は気圧されたが、なんとか体は動きそうだ。もちろん、荒事にならないには越したことは無いが、いざとなれば女将を縛り上げ、民宿の前に停めてあるライトバンで逃げればいい。
「どうして? 何が足りない?」
女将の声に、僅かに怒気が含まれるのがわかった。
そして女将は茂木に向かって一歩踏み出す。
「女将さん。俺たちは何も知らない。関わらない。この村の事は誰にも言わない。それじゃダメっすか?」
その言葉の是が非で、次の行動が決まる。もう余裕は無い。波風立てずに去るのではなく、どう逃げ出すかを決断せねばならない。
すると、女将の表情がフッと柔らかくなった。
「どうしたの? 急に変な事言いだして。びっくりしたわよ」
女将はそう言って、畳に落ちていたシーツを拾い上げる。それを見た茂木も、女将の急激な変わり様に肩の力が抜けた。
「でも、せっかく若い子が来てくれたのに寂しくなるわねぇ。あ、わかった。福岡の女の子に帰ってこいって言われたんでしょう? 茂木くんモテそうだものねぇ」
先程の不気味な表情が嘘の様に、女将はシーツを畳みながら、自然な残念そうな表情を浮かべている。目の蠢きも止まっている。
「……まぁ、そんな感じっす。急ですいません」
先程のあれは何だったのであろうか。茂木には女将が人間では無いように見えた。しかし、今の女将はただの人の良いおばさんにしか見えない。すると、女将は思い出したように言った。
「あ、じゃあ、良子ちゃんの家まで送らないとね、二人ともすぐに出るの? 水上君は?」
女将はシーツを畳に置き、部屋を出て行こうとする。
「あ、別にいいっすよ! 歩きでも……」
茂木が女将の背を追おうとしたその時、背後で押入れの襖が開く音がした。
茂木が振り向こうとした時にはもう遅かった。茂木の首に、押入れから出てきた女の細い腕が絡まり、凄まじい力で締め上げる。茂木はその腕を掴み引き剥がそうとするが、その抵抗は僅か数秒で終わった。
意識が遠のく茂木を見つめる女将は、本当に残念そうな表情を浮かべながら、呟く。
「最後まで、ゆっくりしていって欲しかったけどねぇ」
女将の声を聞きながら、薄れゆく意識の中で、茂木は拓海の名を呼んだ。
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