第37話

「……ふざけんなよ」

 拓海は呟き、茂木の部屋を飛び出す。

 そして今朝と同じように、茂木の名を呼びながら民宿の中を探し回った。

 しかし、民宿内には茂木の姿はおろか、女将の姿も見当たらず、今朝のように食堂のテーブルにメモが残されている事もなかった。


 民宿内を探し終えた拓海は外に出て、民宿の前から見える灯籠村を見渡す。そこには夏の日差しに照らされる、のどかな村の風景が広がっている。しかし拓海はその風景の中に潜んでいる不気味な何かをひしひしと感じた。その何かは、今確かに拓海を飲み込もうとしている。いや、もしかしたら拓海は既にその何かに飲み込まれているのかもしれない。


 ただ、旅行に来ただけの筈だった。


 自分達が何かに巻き込まれるなんて思いもしなかった。


 たとえトラブルがあったとしても、それはきっと少し後には笑い話になっており、またいつもの日常に戻るのだと思っていた。


 しかし、サメが小魚を食すように、「何か」の日常が拓海達を飲み込む事であれば、拓海達が自分達の日常に戻る事はもうないかもしれない。


 そこに待つものは何であろうか。


 我々はいつかそれが訪れる事を知りつつも、できるだけ遠ざけ、その存在を忘れて生きている。


 生きるという事自体が、それと隣合わせである事を忘れて。


 それが、待っている。


 感じたことの無い、大きく、まとわりつくような危機感が拓海の足下から這い上がってくる。


 拓海は村を見つめながら動き出す事ができなかった。

 何をすれば良いのか、自分はどうするべきなのかがわからなかったのだ。

 ただ茂木を連れてこの村を出たい。日常に戻りたい。それだけが拓海の願いであった。


 もしも自分がスパイ映画の主人公であれば、僅かな痕跡から消えた茂木の居場所を割り出し、様々なハイテクアイテムを鮮やかに使いこなして茂木を救い出し、スーパーカーでこの村を抜け出して、最後は茂木とワインでも飲みながら、夕日の沈む海を眺めるのに。


 そんな拓海の妄想が叶うはずもない。

 拓海はただの大学生で、茂木がなぜ消えたのかも、どこに行ったのかもわからない。唯一のハイテクであるスマホも、電波が届かないせいで役に立たないし、スーパーカーは借り物の軽自動車だ。

 それなのに、通常訪れる事のないような危機だけは確かに迫っている。


 これは理不尽だと拓海は思った。



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