第32話

 猜疑心というものは幸福の邪魔をする。どれだけの大金を持っていようと、身内がその大金目当てに自分の命を狙っているとすればどうであろうか。どれだけの美女と付き合っていようが、その美女が浮気をしているという噂を聞いてしまえばどうであろうか。どれだけ価値のある物を手にしていても、「安心」の無いところに幸福は存在し得ないのだ。


 今拓海の置かれている状況がまさにそうであった。

 美味な食事、美しい女性、快適な宿、それらに囲まれていようとも、拓海の胸に食らいついた猜疑心は、それらの幸福を毒の塗られた饅頭へと変える。どれだけ味が良かろうと、それを美味しく味わう事などできないのだ。


 葉月は隣を歩きながら、今夜もこの村に滞在し、今度は自分と一晩過ごすのはどうかと、魅力的な誘いをしてきた。互いのパートナーを入れ替えて燃え上がろうというのだ。他にも拓海に紹介したい女の子が複数いるという。甘い誘惑は拓海の下半身をくすぐったが、拓海はその気にはなれなかった。

 葉月達には悪いが、拓海は茂木を連れ、村人達には何も言わずに村を出るつもりであった。もし村を出る事を告げ、なんらかの手段で妨害などされたら堪らない。

 拓海のこの村への疑いは半々であったが、普段はほぼ100%の安全の中で生活している拓海にとっては、50%の危機感とは逃げ出すのに十分に値する。

 この考えを口にすれば、村人達を信頼している茂木はきっと恩知らずだと怒るであろう。しかしその時は「近くにコンビニがあると聞いた」と騙して連れ出し、そのまま人里まで下りてしまえば良い。


 しかし、そのために必要なのは、葉月の家に置いてきた拓海の車である。もし村人達が拓海達をこの村から出さないと考えているのであれば、真っ先に狙われるのは拓海の車だ。もしかすればもう既に何かしらの細工が加えられているかもしれない。

 拓海が乗ってきた軽自動車は、正確には拓海の車ではない。実家にいる拓海の母親の車だ。拓海はこの旅行のために、母親に頼んで普段使いの車を借りたのだ。型落ちの軽自動車とはいえ、普段母親はあの車を大事に乗っているため、もし破損してしまえば酷く怒るか悲しむであろう。その様子を想像しただけで拓海の胸は小さく痛む。そしてただただ車が無事である事を祈った。


「俺の車、家の前に置いたままだけど邪魔じゃない?」

 拓海は葉月に軽く探りを入れる。

「いいえ、別に邪魔じゃありませんよ。もしかして、もう帰られますか?」

 そう言った葉月は少し残念そうな様子であったが、引き止める様子はなかった。そんな葉月を見て、拓海は少し申し訳ない気持ちを覚える。

「いや、せっかく葉月ちゃんや翔子ちゃんと知り合えたし、もう少しこの村にいたいけれど、いつまでもお邪魔しているのも民宿の人にも悪いと思ってさ」

 拓海は無難だと思える返しをしたが、それには本心も混じっていた。葉月の母親である良子を助けたはいえ、宿代も払わずに何日も宿泊する客を、宿側が良い風に思うはずがない。普通であればだ。


 すると葉月は沈んだ様子で言った。

「この村のもてなしは満足いただけていないのでしょうか……」

 それを聞いた拓海は慌ててかぶりを振る。

「いやいや、そんな事は無いよ! むしろ至れり尽くせりでこちらが申し訳ないくらいだよ」

 むしろ至れり尽くせりが過ぎ、逆にこちらが不安に思っている事は言わなかったが、それももちろん拓海の本心である。もし拓海がもっと能天気な性格であれば、きっとこのまま永住してしまいたいと思うほどだ。茂木はそう思っているであろう。その茂木は今、行方知らずであるわけだが。

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