第30話
拓海は思わず小さく悲鳴をあげて一歩後ずさった。
自分もあのスマホの持ち主のように、あの鉈でやられるのであろうか。
表情が強張り、全身から嫌な汗が噴き出す。
そんな拓海を、葉月はキョトンとした顔で見つめ、口を開いた。
「水上さん、こんな所で何をしているんですか?」
その声にも表情にも敵意は無く、拓海のオーバーな驚き方に、むしろ葉月の方が驚いているようであった。
その様子に拓海の気は僅かに緩んだが、視線は葉月が手にする鉈から外す事ができない。
「は、葉月ちゃんこそ、そんな物持って……何を?」
もしも「あなたを殺すためです」なんて言われたらどうすればいいのだろう。拓海はそんな事を考えていた。
しかし、拓海の心配は杞憂に終わる。
葉月は拓海から視線を外し、右手に持った鉈を見てクスリと笑った。
「あぁ、驚かせてしまってごめんなさい。そこの竹林で竹を切っていたんですよ」
葉月が鉈で指した方には、確かに竹が立ち並ぶ竹林があった。
よくよく見ると、葉月は昨日のように小洒落た服は着ておらず、つなぎのような作業着を着ており、背に背負ったカゴには均等に切られた竹の束が入っている。
「これ、竹飾りの材料なんです」
葉月はそう言って背中からカゴを下ろし、その中に鉈を入れた。
「拓海さんは朝から温泉ですか?」
拓海は葉月が鉈を手放した事で胸を撫で下ろし、昨日スマホを露天風呂に置き忘れて取りに来た事を説明した。
「あぁ、そうだったんですね。ここってちゃんとした脱衣所が無いからか、忘れ物が結構多いんですよ。財布とかケータイとか。ほら、昨日もここにケータイが落ちていましたし」
葉月の視線が拓海の背後にある岩へと移る。
そこには例の血痕のような染みがあった。
「その赤茶色の染み、何だと思います?」
突然の葉月の問いかけに、気の緩みかけていた拓海の体に緊張が走る。葉月は何を考えているのかよくわからない表情で、ただ岩についた染みをじっと見つめている。
拓海は何と答えれば良いのかわからず、ただ視線を惑わす。すると、拓海が答える前に葉月が先に答えを口にした。
「それね、血なんですよ」
事も無げに放たれた葉月の言葉に、拓海は胸がギュッと圧迫されるのを感じた。
葉月は染みから拓海へと視線を戻す。
そして今度は拓海の顔をじっと見つめた。
拓海の猜疑心がそう思わせるのであろうか。拓海には葉月の目が、まるで獲物を見定めている動物の様な目に見えた。
しかし、拓海の不安はまたしても杞憂に終わる。
「この前ここでイノシシが死んでいたんです」
「い、イノシシ?」
予想外の葉月の言葉に、拓海は思わずオウム返しをしてしまった。
「そうなんですよ。脚を怪我していたから、多分罠にかかって逃げ出したんでしょうけど、ここで力尽きていたんです。この辺はよくイノシシが出るので、夜は危ないんですよ」
葉月の言っている事が事実かどうかは疑わしかったが、拓海の肩からはまたしても力が抜けてしまう。
「そのイノシシは捌いて村の人達で食べたんですけど、イノシシの肉ってクセがあるけど結構美味しいんですよ。都会に住む人はイノシシの肉なんて滅多に食べないですよね」
そう口にする葉月には、嘘をついている様子は一切伺えない。
拓海は葉月に完全に気を許したわけではなかったが、敵意は無いと判断して、一緒に村へと戻る事にした。
しかし、拓海の脳裏からはあのメモに書かれていた一文が離れなかった。
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