ゲートウェイ・シャッフル(2018.12)

 けたたましい着信音で眠りは破られた。「酒々井しすい部長」の表示。

「仕事だ。すぐに上がれ。二十七階がお呼びだ」

 まだ頭は回っていなかったが、かつうらしんはこの時点ですべてを察した。危機管理室長を飛び越して、総務部長からの直接の電話。簡潔すぎる内容。そして「二十七階」──。社長室だ。

「わかりました。三十分後には参ります」

「至急」

 酒々井はぞんざいな声でそう言うと電話を切った。

 自分の「能力」が必要とされていることは明白だった。おそらく、昨日から世間を騒がせている例の件だろう。

 あの小心者め……。

 酒々井ではない。社長のことだ。

 気が重い。こんなとき勝浦はいつも自分の能力が嫌になる。これのおかげで今のポジションがあることには疑いないが、これのおかげでさまざまな厄介事を被っているのもまた事実だった。

 酒々井からの簡潔な電話で呼び出されるのはこれが初めてではなかった。だからこそ気が重いのだ。この先起こるであろう事態を想像すると、どうしても気持ちがしぼんでしまう。

 まあ、実際頼まれてみるまでわからないか。勝浦はそんな気休めを口にして家を出た。

 半月ぶりの「仕事」であった。


  ◆


 京浜東北線を北上して品川駅を過ぎると、見晴らしのいい空間に出る。こんな都心の低地で「見晴らしのいい」とは矛盾にも思えるが、つまりここは大規模に工事中なのだ。線路の上にショベルカーが乗っている光景を目にできる機会はそうあるものではない。

 今でこそ建設機械や作業車がそこかしこに並び、土煙が舞う様相だが、かつてここは日本でも最大級の車両基地だった。その広大な敷地を利用して、ある建設が進められているのだ。

 開けた空間のちょうど中央辺りに、折った紙を再び開いて置いたような形をした巨大な構造物がある。今はまだ骨組みだけであることを差し引いても、それは周囲のビルのどれとも似ておらず、異様な存在感をかもしている。

 これこそが、山手線三十番目の新駅「高輪たかなわゲートウェイ」駅だ。

 建設自体は二年前から始まっているが、この新駅の名称が決まった、と小牛田こごた社長が記者会見したのが昨日のことだ。夕方のニュースでも大きく扱われ、それは多くの日本国民の知るところとなった。

 そう、多くの国民の知るところとなり、そしてさまざまな反応を引き起こした。

 小牛田もその反応を知らないわけではないだろう。

 今日はつまりそういう仕事なのだろう。

 気が、重かった。


  ◆


 「三十分」はけっこう余裕を持って告げておいたと思ったが、本社ビルに着くのはギリギリになった。

 エレベーターに滑り込み、「27」のボタンを押す。一つ上の二十八階は機械室だから、一般の社員が入ることのできる最上階だ。

 勝浦のような平社員が二十七階の廊下を歩くことはまずない。同期たちの中には、一度もこの階に足を踏み入れたことのない者すらいるだろう。

 だが勝浦は違う。過去に二十七階に来たのは一度や二度ではない。なにせこれが「本業」なのだ。

 勝浦は本業のくせに毎回気が重くなる馬鹿馬鹿しさを思った。


 エレベーターを降りる。役員室受付には女性社員が一人いるが顔パスだ。

 先へ進むとすぐ、社長室の扉が目に入る。ノックする必要はなかった。受付から何らかの連絡が行ったのか、総務部長の酒々井が薄く開けた扉から半身を出してこちらを待っていた。

「早く」

「遅くなりすみません」

「いいから早く」

「……失礼します」

 社長室に体を入れる。扉をすべて開けないところに「バレてはならない汚れ仕事」の感が漂う。社内で勝浦の能力のことを知っているのは、勝浦本人を除いても小牛田社長と酒々井部長、危機管理室長の三人だけだ。

 酒々井の機嫌は悪い。硬派ぶってはいるが、機嫌の悪さが外に出やすい幼児性には辟易へきえきする。

 基本的に人使いの荒い男だが、酒々井のこの機嫌を見るとこの男もまた「使われて」いるのだと分かる。やはり「社長マター」か……。

「いやあっハハハ。ああ、勝浦くん、よく来てくれたね。よかったね、なんとかなりそうだね」

 小牛田が破顔する。よほど思いつめていたのだろう。最後の一言は酒々井に向けていたが、酒々井はわずかなうなずきと申し訳程度の笑顔だけを返した。

「まあまあ、座って座って」

 入社して初めてこの部屋に呼ばれたときは、そう言われても座っていいものかわからず、三十分も立ち続けてしまった。昔の話だ。

 酒々井に顎で促され、末席に腰掛ける。部屋に入って正面の社長席に小牛田社長、その目前、社長から見て左側に酒々井総務部長、右側には、総務部危機管理室特殊係係長、勝浦慎五。

 危機管理室の中でも「特殊係」などというのは勝浦しかいない。勝浦の「能力」の換えが効かないからだ。「係長」というのも、だから形式的な肩書にすぎない。

「会社の事業運営上重大な危機が発生した場合に、情報の収集・一元管理と初動体制の構築を迅速じんそくに行う」ことを目的に設置された危機管理本部とは違い、総務部付の危機管理室は、リスク発見の早期化・意思決定の迅速化を目指して設置された小回りの効く機関だ。

 だがその実態は「社長直属」と呼んで相違ない。つまり社長の意思を早急に遂行する機関なわけで、今から始まる仕事はまさにそういう実態の現れなのだ。

「でね。早速本題に入ろうと思うんだけどね。酒々井くんお願い」

「はい」

 仕事の内容によっては悠々と無駄話を続けることもある小牛田のことだから、勝浦は今回の仕事の緊急性を察した。

「概要は次の通り」

 酒々井がつまらなそうに説明を始める。長身痩躯そうく、顔もいい。俳優のようなたたずまいで、そろそろ五十に迫ろうかという齢だったはずだが女性社員からの人気も高いと聞く。ただ、人使いは荒いし無駄に硬派ぶるところがあるし、常に馬鹿にされているような目線を感じて落ち着かない。上司にはしたくないタイプの人間だった。

「昨日、品川新駅の名称を外向けに発表した。その話は?」

 知っているか。という意味だと取った。

「存じ上げています」

「高輪ゲートウェイ」

 小牛田が挟む。そんなにこの名前が気に入っているのか。

「はい。それで、この駅名に今批判が集まっている」

「なんなんだ全く……。恥をかかされた」

 小牛田の機嫌が急激に悪化していく。国民のあの反応は予想だにしていなかったと見える。

 小心に加えて、プライドも高い。もちろん、リーダーシップなど皆無だ。

 そんな性格の者が社長の椅子に座るのに必要なのはリーダーシップではない。四十余年の会社人生を大過なく過ごす能力だ。小牛田はそれに長けていたということだ。酒々井とは対称的に年相応に腹のたるんだ小男である。

「いいじゃないか。高輪ゲートウェイ。先進的で時代に合ってるだろ。何がいけないんだ。アイティーでも使われる用語なんだぞ。ゲートウェイは。今後の未来を切り開くシンボルとしてぴったりじゃないか」

「反応を詳しく調査したところ、批判のポイントは大きく分けて三つ。『必然性がない』『統一感がない』『歴史がない』。そういうことらしい」

 違う。ただただダサいのだ。それは酒々井も理解してはいるだろうが、小牛田の前ではそんなことを言うわけにもいかないのだろう。

「ただカッコいいだけじゃないんだよ。高輪ゲートウェイは。必然性ならちゃんとあるんだ。これはね、品川再開発地域のグローバル・ゲートウェイ構想の一環なんだよ。世界につながるエキマチ一体の都市基盤の形成! 国際ビジネス交流拠点にふさわしい多様な都市機能の導入! 防災対応力強化と先導的な環境都市づくり! それらを実現するグローバル・ゲートウェイ品川をより広く知ってもらわなきゃならないんだ。そのための広告塔として最適じゃないか」

 この会社に長く務める弊害へいがいだろう、と勝浦は思った。小牛田には駅名が公共のものであるという意識が薄いのだ。

 小牛田の熱弁を無視して酒々井が続ける。

「新駅名について公募をかけたのも批判の的になっている。六月からの一般公募では一位が『高輪』。二位が『芝浦』。三位が古典落語から来たと思われる『芝浜』。『高輪ゲートウェイ』は三十六票で百三十位」

日和ひよったんだ。こんなことなら社員全員に応募させておくべきだった。ちゃんと保秘ほひのできる者だけに応募させたのが間違いだった」

 やはりそうだったのか。よく考えれば、いや、よく考えなくても、何もないところから「高輪ゲートウェイ」などというアイデアが出てくるはずがない。三十六人も同時にだ。

 新駅名は既に決まっていた。「みなさんの意見を尊重」という体裁ていさいを保つためだけに、公募という形は取られたわけだ。それが裏目に出た。

 小牛田が言う。

「このままではまずいんだ。なんか撤回を求める署名も始まってるって話だし、もし撤回なんてしようものならウチの沽券こけんに関わる。信頼は地に落ちる。品川再開発も初期の段階でケチが付いたことになる」

 まったくそんなことはないと思うのだが、古い企業人らしい考え方だとは思った。それくらいで「沽券に関わる」などという発想は自分だったら出てこない。

 しかし、俺にどうしろと言うんだ……? 勝浦はまだ次の仕事がどのようなものなのかつかめずにいた。酒々井が言う。

「君には『必然性』を持たせてもらいたい」

「と言いますと……」

「同日に名称を公表した『虎ノ門ヒルズ駅』には特に批判が集まっていない。何故かわかるか」

 酒々井のこの目が苦手だった。世の中のものすべてを下に見ているかのような目。

 勝浦は即答した。

「実際に『虎ノ門ヒルズ』というビルが存在するからですか」

 即答されるとは思っていなかったからなのか、酒々井は不満そうだった。

「まあ正解だ。つまりはこちらにも『高輪ゲートウェイ』というビルがあれば、批判をかわせるだろうというわけだ」

「あれば、とは……。具体的にはどうすれば」

「会ってきてほしい人がいる」

わらびけいろう

 またしても小牛田が挟む。その名を聞いても、勝浦の脳内に思い当たる顔はなかった。

「うちの二代前の会長さんだよ。今ではもう完全に隠居されているけどね。開発に口出しして鶴の一声で計画を変えさせることができるのは、この人しかいないだろ」

「別に新たにビルを建てるよう要請してきてほしいと言っているわけではない。最初に立つビルの計画を少し早め、その名前を『高輪ゲートウェイ』にし、ビル名の発表を二〇十八年十二月の新駅名発表までに間に合わせてくれればいい。竣工しゅんこうしている必要はない」

「となると……。行き先はどこいつになるんでしょうか」

だ。グローバル・ゲートウェイ構想が動き出した年」

 重い、と思った。やることが多い。会長にコンタクトを取って、計画を変更させ、今年に間に合わせる。重い。重すぎる。

「しかし、そううまくいくかどうか……」

「別にやりたくないのならやらなくてもいい」

「いえ、やりたくないというわけでは」

「お前次第だ。選べ」

 選べ。酒々井がそう言うときは決まってそれ以外に選択肢がないときだ。ただの口癖なのか、それにしたって性格が悪い。

「こちらからもサポートはしてやる。誓約書ならすでに用意してある」

 準備は万端、というわけだ。昨日の今日でよくここまで整えられたものだ。

「……わかりました、やります」

 勝浦は仕方なく了承した。いくら重かろうと、勝浦に拒否権はないのだった。基本的に終日休みで、呼ばれたときだけ出社する。同期とは比べ物にならないほどの収入が約束されている。同期の中には、そんな勝浦の生き方を「悠々自適」と評する者もいる。毎回の気の重さは、この生活を続けるための見返りだと思っていた。

 勝浦が今回の仕事を受け入れたことで再び機嫌の戻った小牛田と酒々井とに見送られて、社長室を後にした。

 勝浦はこれからのことを思った。どれだけ少なく見積もっても、一ヶ月はかかるだろう。ああ、気が重い。

 二十七階の廊下に敷かれた柔らかな絨毯じゅうたんの感触は、いささかも勝浦の心を癒やしはしなかった。


  ◆


 本社ビル七階、休憩室。

 勝浦は寝床でタスクを確認していた。行き先は二〇一三年。当時の会長に会う。鶴の一声で高輪ゲートウェイビルを作らせる……。

 要はこうだ。

 小牛田と酒々井は勝浦が持つ時間遡行そこうの能力を使って、「高輪ゲートウェイ」が批判されないような世界に変えようとしているのだった。そのために、同名のビルを建てさせ「必然性」を持たせる。「虎ノ門ヒルズ」のように。そうまでして、品川再開発計画を成功させようとしているのだ。

 仕事とあればしょうがない。勝浦はえりを正した。言うなれば、この仕事は品川再開発計画の一環とも言えるわけだ。気は重いが、大きな計画に関われるというのは燃える話でもあった。

 この能力には制限が多い。

 制限なく時間遡行できるのだったら、万馬券は当て放題だし、株で失敗する心配もない。だが勝浦の時間遡行能力はどうも自分のためには使えないらしかった。遡行前に得た情報を使って遡行先の世界で利益を得ようとした場合、強制的に遡行前の世界に引き戻される。何をもって、また、誰によって「自分のため」「他人のため」という判断が下されているのかは分からなかった。そもそも、自分のために使えるのだったらこんなところでこんな気の重い仕事などしていない。

 その代わり、というわけでもないだろうが、おそらく手に持てる程度のものは遡行先に持っていくことができるようだった。逆に向こうからこっちに持って帰ってくることもできる。

 勝浦は窓の外を見上げた。ほとんど新月の、細い上弦の月が浮かんでいる。

 月が好きだった。勝浦自身のその性向は、この能力と無縁ではないのだろうと思っていた。

 地上の建物も、空の色も、時代が変わればその姿を変える。しかし、月だけはいつの時代でもその姿を変えないのだ。

 遡行先での滞在時間が長くなるほど、自分の立脚点がどこにあったのか、自分はもともといつに住んでいたのかが曖昧になってくる。そんなときに、勝浦はいつでも変わらない月の姿を見て安心を得ているようなところがあった。

 ……まあ、月さえ出てればどんな時代でもやっていけるか。

 勝浦は「さっそく今晩から始めてくれ」との酒々井の言葉を思い出していた。この能力は「眠る」ことによって発動する。行き先を強く念じて眠りにつく。気がつくと、遡行先の世界に着いている。

 戻るときも「強く念じる」。すると、勝浦は遡行前の世界の寝床で目を覚ます。勝浦の主観としてはまるですべてが夢であったかのように感じられるわけだが、夢ではない。遡行先で起こした変化は、遡行前の世界にちゃんと影響を与えている。

 過去での「仕事」がどのように現在に影響したのか、すなわち成功したのか失敗したのかは、目を覚ますそのときまでわからない。

 タスクと持ち物を確認し終えた勝浦は、布団を被ると十分ほどで眠りについた。まだあまり眠くはなかったはずだが、寝ようと思えばすぐに寝られる体質なのが幸いした。その体質は偶然なのか、あるいは能力によって与えられたものなのかは、勝浦には分からなかった。


  ◆


 けたたましい着信音で眠りは破られた。「酒々井部長」の表示。

 勝浦慎五はこの時点ですべてを察した。

 失敗──。

「仕事だ。すぐに上がれ。二十七階がお呼びだ」

 勝浦は、思わずつぶやいた。

「じぇじぇじぇ……」


 蕨桂次朗への接触は成功した。そこまでにほぼ一ヶ月かかったが、接触さえできてしまえばあとはそれほど大変ではない。

 歴史というのは砂山に立てた棒のような姿をしているらしく、少し砂を動かしただけでも棒が倒れるほど大きな変化を見せる。

 二〇十八年十二月までに高輪ゲートウェイという名前のビルを建ててください。蕨にその要旨ようしを伝えるだけで、さまざまな力が働いて高輪ゲートウェイビルは建つ。蕨本人の思惑にかかわらず。

 その「さまざまな力」の中でも、小牛田や酒々井、そして勝浦本人の思惑がもっとも強く歴史に影響を与えていることは確実だった。その時代を生きる人間は具体的な未来を思い描けないが、勝浦たちは実際に叶えたい具体的な現実をはっきりと思い描くことができる。歴史に与える影響力の差は、そのあたりから来ているのかもしれなかった。

 ところが、である。

 酒々井からの電話は繰り返された。起きた後に、品川駅北地区に「高輪ゲートウェイ」という名のビルがちゃんと建っていることは確認した。

 新駅名への批判が止まなかった、ということだ。「必然性」をもってしても。

 無駄だったのだ。二〇一三年での数カ月は、泡沫うたかたの夢と消えてしまった。


「早く」

「すみません。遅くなりました」

「いいから早く」

「失礼します」

 勝浦の主観として一ヶ月前に見た光景が繰り返される。違うのは、勝浦の記憶と、高輪ゲートウェイビルの存在、そして、日付だ。

「いやあっハハハ。ああ、勝浦くん、よく来てくれ……あっ……」

 誓約書を見た瞬間の小牛田の絶望といったら気の毒になるほどだった。

 このときのための「誓約書」だ。そこには、詳細な指示の内容と小牛田の署名、そして創業以来代々社長にのみ受け継がれる社名の入った印鑑。

 これがあってはじめて勝浦の仕事は機能する。誓約書は「今世界がこの姿をしているのは小牛田たちの指示と勝浦の尽力じんりょくのおかげである」ことを示す唯一の証拠だった。さらに門外不出の印鑑があるので、過去の権力者にも効果を持つ一石二鳥の代物だ。勝浦はこれを持って遡行し、そして持ったまま帰ってくるのだった。

 小牛田としては「新駅名が激しく批判されたので勝浦に歴史改変を頼もうとしたら、すでに一度対応済みだった」ことを知らされたわけだ。その絶望たるや察するに余りある。

 時系列はこうだ。

 新駅名発表が十二月四日。その日のうちに批判が相次ぎ、小牛田と酒々井とで一計を案じたのち、勝浦に電話で仕事を依頼したのが翌十二月五日早朝。その日の夜に勝浦が眠りについて、歴史は変わった。品川駅北にビルが生えた。

 だが批判は止まなかった。「止まなかった」というよりは、「もともと必然性があったとしても批判される運命だった」と言ったほうが正しいだろう。この改変された世界では、駅名発表の時点でそこに「高輪ゲートウェイ」というビルはあったのだから。

 だが必然性だけはあった分、批判の勢いも緩やかだったのだろう。だから酒々井から電話がかかってくるのは駅名発表から二日後、十六日の朝になった。


 勝浦は改変前に小牛田から受けた指示と、二〇一三年での行動を事細かに説明していた。

「……というわけで、そこまでやり終えて『強く念じ』た瞬間、この世界に戻ってくることができました。それと部長からお電話をいただくのが同時とは思いませんでしたが」

 説明するにつれ、小牛田の顔はみるみるくもっていった。

「そうだったのか……、どうしようね、酒々井くん」

「どうということはありません、やるしかないでしょう」

 呼び出されたのだから、まあ、予測はしていた。「必然性」がだめならば──。

「君には『統一感』を持たせてもらいたい」

 やはりそうきたか。

「問題はいつやるかだが……」

 二〇一三年に慣れた体にはこれを耐えるのはきつい。だが今は二〇一八年だ。「今でしょ」を必死で噛み殺して、続く言葉を待った。

「一九六五年で行こうと思う。この年の四年後には営団地下鉄西にしにっ暮里ぽり駅が出来ることになっている。

 そのさらに二年後にはウチの路線もつながって、西日暮里駅は山手線二十九番目の駅となる。山手線の駅名が漢字ばかりで『高輪ゲートウェイ』との間で統一感がない、というのが問題なのだから、西日暮里駅の名前を変えてやればいい」

「具体的には、どのように……」

「周辺の地名と、近くを荒川が流れていることからかんがみて、『富士見ふじみアクアロード』で行くことにした。君には西日暮里駅を『富士見アクアロード』駅にするために……」

「いや待て」

 ずっと黙って会話を聞いていた小牛田の声だった。何か考えているな、とは思っていた。

 嫌な予感しかしなかった。

「この際統一感などはもういい。歴史だ。歴史があればいいんだ。『高輪ゲートウェイ』の名に。勝浦くん。君には……」


  ◆


 未だ月は出ず、海は黒々として静寂を保っている。

 ここ「浦浪亭うらなみてい」から見える海は闇に閉ざされ半里先すらも見えず、波の打ち寄せる音を除いて耳に届く音はない。

 しかし、その反対側に目を向けてみると、これはもう「どんちゃん騒ぎ」と言っていいに違いなかった。

 少し離れたその「どんちゃん騒ぎ」の方から、一人の男がこちらに歩み寄ってきた。奴のことだから酒は入っていないはずだが、雰囲気に当てられてか顔が真っ赤だ。

「おう勝五かつご! 何一人しとりでしみったれたつらァしてんだい。こっちまで気が滅入めいっちまァ」

 男は名を熊吉くまきちといった。この辺りでは一番の魚屋で、勝浦とは「友人」と言っていいほどの仲になっていた。

「いいじゃねェかたまには。大騒ぎするだけが祭りじゃねェよ」

 勝浦慎五がこの時代にやってきて、五年が経とうとしていた。

 周りに合わせるようにと「勝五」と名乗ることにしていた勝浦の口調は、すっかりこの時代のものとなっていた。

 当初は、そうしないと好きなように動き回れないから、という理由でこの名を名乗ったが、今では元の名前よりもこちらのほうがずっと気に入っている。

「そうは言ってもよォおェせっかくの二十六夜待ちだろう。観音様もヘソ曲げちまァ」

 都合よく名前だけ使われる観音様もたまったものではないだろうな、と勝浦は笑った。その場の雰囲気にほだされていた。

 二十六夜待ち。

 一月と七月の二十六日の深夜に出る細い月を待ちながら、飲み食いをして賑やかに過ごす行事だ。一月は寒いのでこの七月のものが特に盛り上がる。

 この日に出る月は、その光の中に阿弥陀あみだ仏、観音菩薩、勢至せいし菩薩の三尊が現れるから縁起が良い、とのことらしいが、今となっては誰もそんなこと気にしてなんかいない。ただ一晩中飲んで食って、歌って踊って楽しみたいだけだ。

 天保の改革が終わってから長い。質素倹約・こうしゅくせいうたった改革期間中にはこの行事もすたれていたというが、最近では改革前ほどのにぎわいはないにせよ、地元民の間で細々と続いている。

 勝浦は熊吉に答えて言った。

「今日はしんみりしたい日なんだよ。ノスタルジーってやつさ」

 からかうつもりでカタカナ語を使った。通じても通じなくてもいいと思った。

 熊吉にとっては、「勝五」が時折わけのわからない言葉を発するのは日常茶飯事だったから、特に聞き返すこともしなかった。

「ははは。何言ってやがんだかな。まあ勝五がそこまで言うってェんならお前ェ今日はそっとしといてやらァ」

 と言って、熊吉はしばらく勝浦の隣で黙って海を眺めていた。なにやら懐かしがっているようにも見えた。まさか「ノスタルジー」が通じたとも思えないが、勝浦の態度になにか感じ入るものがあったのかもしれない。

 熊吉のことは、あまり知らない。

 昔からとんでもない大酒飲みで、それが故に身を持ち崩したこともあったが、あるとき心を入れ替え、真面目に働いた。酒もきっぱりやめた。そのおかげで今の生活があるのだ、と自分で語っていたことがあった。

 底抜けに明るいこの男にも、そのような過去があったのかと思うと、少し親近感が湧いたものだ。

 

 ここしかなかったのだ。この時代の。この場所しか。

 嘉永かえい二年(一八四九年)。品川。

 この年のアメリカの国勢調査で、ミシガン州とユタ州とに一家族ずつ、「ゲートウェイ」姓の家族が存在することが判明していた。遡行前の調査で分かったことだ。

 この「ゲートウェイさん」を最低でも一人、日本に連れてきて、この品川の地に住まわせる。それが小牛田と酒々井の狙いだった。

 「ヤン・ヨーステン」が「八重洲やえす」になった前例もある。いや、そこまで贅沢ぜいたくは言わない。地名としては残らずとも、そこに「ゲートウェイ」が住んでいた歴史があるとなれば、「高輪ゲートウェイ」は歴史ある名前ということになる。

 関所として品川に実在した「高輪大木戸」の存在に加えての、これだ。もはや誰もその名前に文句を言う者はいなくなるだろう。

 実現すれば、だが。

 しかし、勝浦の仕事が困難を極めたかと言えば、意外とそうでもなかった。すべての状況が勝浦に味方していた。

 「品川」というのがよかった。高輪大木戸跡は熊本藩細川家下屋敷のすぐ近くだ。そして肥後細川家は、第六代細川重賢しげかたからの伝統として蘭学に縁が深い。外国との繋がりも他の大名と比べて多い。鎖国中のこの時代に外国人を抱えておけるだけの土壌はあったということだ。

 細川家ほどの大大名家ならば、幕府とのパイプも太い。細川家は、もとい勝浦は、ミシガン州のパトリック・ゲートウェイ氏を通訳として迎え入れることに成功した。

 時代もよかった。

 黒船来航を四年後に控え、この頃にはすでに少数ではあるがアメリカ、イギリス人の入国もあった。街を異人が歩いていても即座にはとがめられない環境だった。

 かくして、品川にゲートウェイ氏が住み、「高輪ゲートウェイ」は歴史ある地名となった。

 そろそろ、帰りどきかも知れんな……。

 勝浦は独りごちた。隣の熊吉には当然聞こえていただろうが、聞こえないふりをしてくれたようだった。

 熊吉は豪放ごうほうな外面をしている反面、こういう人の心の機微を敏感に感じ取る繊細さもある。

「まぁ何があったか知らねェけどよ、今日ぐれぇは飲んでなんもかも忘れたらどうでェ」

 そう言って熊吉は徳利とっくりを差し出した。何かを察したふうであった。

「お前、酒やめたんじゃねェのか」

「人が楽しく飲んでるのを見るのが好きなんだよ」

 熊吉と離れるのは寂しかった。

 こちらの時代での生活は勝浦の肌に合っていた。現代と比しての不便さは大きいが、それを加味しても、だ。

 いや、待てよ……。

 勝浦の胸のうちに、一つの選択肢が立ち現れていた。

 もし今、元の時代に帰っても、勝浦を待っているのは小心者の社長、常に人を馬鹿にした目で見てくる上司と、そして気の重い仕事だけだ。

 それに比べてこの嘉永二年は、気の合う友人たちもいるし、細川家に職も得た。何より、日々の気楽さがある。いつ仕事の電話で呼び出しがかかるかわからないストレスから開放される気楽さだ。

 こちらの時代に骨を埋める──。それは勝浦にとって、今最も選び取るべき選択肢に思えた。

 元の時代に帰るのは簡単だ。ここで強く念じれば、次の瞬間、勝浦は二〇一八年のベッドで目を覚ますだろう。

 それはここでの生活がすべて夢となり消えることを意味する。

 「どんちゃん騒ぎ」の方角から、オオッと歓声が上がった。

 水平線の向こうから、針のように細い上弦の月が上り始めていた。

 月さえ出てれば、どんな時代でもやっていける──。

 選べ。酒々井の声がこだまする。

 最後にその声を聞いたのは五年前だったが、特に懐かしさはなく、ただ忌まわしさがあるだけだ。

 わかったよ。そこまで言うなら「選んで」やろうじゃねぇか。

 現代に戻るのは──。

 勝浦は熊吉に注いでもらった酒を手に取り、誰に言うでもなく、言った。

「やっぱりやめとこう。また夢になっちまうといけねェ」


(了)




※この作品はフィクションです。実際の人物、団体、事件などとは一切関係ありません。


■参考文献

芝浜 - Wikipedia - https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E6%B5%9C

品川開発プロジェクト(第Ⅰ期)に係る都市計画について - https://www.jreast.co.jp/press/2018/20180923.pdf

田町-品川間にできた高輪ゲートウェイ駅(2020/3/14)-田町不動産 - https://www.tamati.jp/about/index14.html

Gateway Name Meaning & Gateway Family History at Ancestry.co.uk® - https://www.ancestry.co.uk/name-origin?surname=gateway

命名責任からランナウェイしたあの駅名:日経ビジネス電子版 - https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/174784/120600169/

歴史散歩 江戸名所図会 巻之一 第三冊 - http://arasan.saloon.jp/rekishi/edomeishozue3.html

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【短編集】インターネットによせて 鯵坂もっちょ @motcho

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