鬼子


 彼らの背には、朝日が昇り始めているというのに、なんという暗さだと、島野は思った。まさか自分が、何も感じない存在だとでも思っているのだろうか。仮にそうならば、腹立たしさも募る。


 島野は、口元をきゅっと引き締め、目前の人々に見せるように、白い玉をつまみ上げた。


「僕は、人の魂がどんなものか、よく知っている。でもこれは、どう見ても神の魂だ。五十鈴姫は、自身の望みに比べて、よっぽどがあったのだろう。でも、それだけで、こんなふうに失敗したりしない。こんなきれいな結晶になるのは、外からも彼女を神に留めようとする強い望みが、加わらないといけない。


 神は自由な存在たりうるか。いいや、自由でないものを神というんだ。人の望みによって形作られながら、一度存在したものの中身は常に、人知の及ばぬ世界に通じる。カミサマは皆、アンビバレントな存在だ。


 神の魂がこの通り完全なのは、人がそう望むからだ。けれど数多、人の望むものすべてを、神が与えられると思うか? 相互に打ち消し合う望みばかりなのに、いったいどれを、誰を、どんな基準で、優先できるというんだ」


 コハダは島野の言葉を理解しているのか、目に涙をためたまま俯いている。そして同様、人でないものたちは目を伏せ、何某かの罪悪感と闘っているように見える。


 それ以外の人間たちはどうかというと、滔々と話し続ける島野に気圧されたのか、ぽかんとした表情で固まっている。


 

 島野は、気の済むところまで言葉を吐きだすと、ぐいっと空を見上げ、そこに残る、幾つかの星を数えると、大きな息を吐いた。落ち着かないといけない。白い玉を右手に握り込んで下ろすと、戸枠にもたれかかるように大きな身体を寄せ、頭を掻いて言った。


「いったいどれだけ付き合っていると思う? なのに、人間は、まるで神という構造を理解していない。神を囲うのは、自分たち人間に他ならないと知っていて、なぜ精霊まで、そのことを忘れるんだ? 


 神は、人の意識に囲われずして、存在できない。それでいざ、神がその囲いの中から逃げ出そうとすると、中途半端に引き留めようとして、僕の仕事の邪魔をするんだ。どうしてくれるんだ、これ。こんな完全な魂じゃ、人間としてまともに転生できないよ。よくて現人神あらひとがみ扱いだ」


 島野が、右手にあるものを、もう一度周囲の眼前に晒すと、ようやくそれが何であるのか、人々には理解できたようだった。


 コハダが、崩れ落ちるようにもう一度、床に頭を伏せ、島野に請う。


「どうか、それをお返し下さい。姿が変わっても、。私たちの愛しい、姫様なのです」


 その言葉を聞いていない訳では無かったが、島野はふてくされたような顔をしたまま、もう片方の手に握った小石を、代わりに差し出して言った。


「これが君らの神だ。五十鈴姫よりも強く、この山の鎮守として ”生き” 永らえることだろう」


 山の精霊たちは皆、吸い寄せられるように、その石に目を留め、島野の言葉に嘘が無いことを確かめた。コハダは首を振って言った。


「山の神が、ただの力だと云うのならば、でも、我慢できましょう。ですが、私どもにとってあの方は、目と目を合わせてお話をし、ふれあうことのできる、おひとりの存在でした。それを奪うなんて酷いこと…」


 陽の光を受けて煌く緑の石は、島野の手の上で、何とも言えぬ存在感を放ち、その場にいる人間たちの意識をも、惹き付け始めていた。


「太古より、名のある大岩や、珍しい輝石が、神となることもあるしな」


「確かになぁ」


そんな同意の言葉も、ちらほらと聞こえて来る。


「姫様にお会いできる人間は、もとより限られていたのだし、山から神が失せたわけではないのなら、構わないんじゃ」


「人形をしていると、何かと厄介なこともあるから。ほら、いつだったか」


 ざわざわと、後ろの人間たちが騒がしくなってくると、精霊たちも、ここで反対するのはよそうかと、互いに顔を見合わせ始めた。コハダだけが、まだ諦めきれないように島野を見上げていた。


 島野はそんなコハダの前に腰を下ろし、ずいっと、碧色の石を差し出す。コハダは厭々いやいやと仰け反るが、そう、無碍にも出来ないのだ。途方に暮れたように、両隣の精霊に支えられ、どうにか正面に顔を向けた。


 島野は、結晶化した五十鈴の魂を、じっと見つめていたが、ふいにそれを、碧の石のごつごつとした角に、こつんと、打ち付けた。


 一回だけではない。数度にわたって繰り返されると、さすがに誰もが注視する。悄然としていたコハダも、何をしているのだろうと息を止め、島野の奇異な行動を見つめた。


 島野はまた、白い玉の表面を見つつ、碧の石にゴンと、今度は、やや力を込めてぶつけた。すると、白い石がわずかに欠けて、碧の石の角が白くなる。同時にきらきらと、白い粉が散った。


「おやめ下さい!」


 そう言って、島野の腕に飛びついたコハダは、鬼のような形相で、島野の指先から、白い玉を取り返そうとする。がやがやと他の者たちも立ち上がり、どうしたものかと困惑顔で、二人を遠巻きにする。


 島野は立ち上がり、コハダを引きはがそうとするか、相手は木の精である。ぎりぎりと締め上げるように、化体けたいしていた身体を、枝葉に変じて応戦されると、分が悪い。一騒動となって、場を収めるために庵主を呼びに行く者、人はいざ知らず、精霊たちは怯えて、たちまち姿を隠した。



 「おっと」


 島野の指先から、つるりと落ちた白い玉は、ころころと板間を勢いよく転がる。慌てたコハダが、長い腕を伸ばすより早く、小さな影が、それを拾い上げた。


 その碧色の瞳をした童子は、騒動に乗じて、どこからか紛れ込んだのか、黒髪に同じ色の着物を着ていた。3、4歳くらいの背丈で、顔の造りこそ人の子だったが、右のこめかみからはっきりと、白い乳歯のようなつのが生えていた。



「鬼、鬼の子がいる。誰か!」


 勘のいい人間の一人がそう叫ぶと、忽ちに道場の扉が閉められ、外から閂で封が為された。


 ぼんやりとした暗がりの中で残されたのは、本性を現したコハダと、額にじんわりと汗を浮かべた島野、そして、あどけない笑みを浮かべた鬼の子だけだった。


 その子どもが握っているものに気付いたコハダが、ギシギシと床を軋ませて巨体を翻すと、鬼の子は、さも何でもないように、ぴょこぴょこと、ウサギのように駆けて回る。小さな手の内にある白い玉は、ぼんやりと発光し、熱を持っているようだった。


 「お返し!」


 コハダが叫ぶと、鬼の子は、きゃっと笑い声をあげて、幾重もの枝の間をすり抜ける。


 島野は、その様子を見ながら、何をするでもなく考え込んでいたが、ちょうどこちらに駆けて来た鬼の子を、立ちふさがって、抱きとめることに成功した。


 鬼の子は、はじめこそジタバタしたが、高々と抱え上げられると気分がいいのか、大人しくなって、その翡翠のような瞳で、島野を見下ろした。その子どもは言った。


「我に何を望む?」


 島野は、答える代わりにニッと笑うと、腕の輪の中に座らせ、その子どもの額に、手を当てた。


、僕は人間ではないので、自分で望みを叶えます。ですがその手の内のものを、お返しください。前任の神に頼まれたのです。人になりたいと」


 鬼の子は、手の内の白い玉を、名残惜しそうに眺めていたが、意外なほど素直に、島野に手渡した。


「いい子だ」


 島野と子どもに覆い被さらんとしていたコハダが、ぴたっと、動きを止めた。部屋の中の空気が、まるで春を孕んだように、膨らみ始めたのだ。頭を撫でられ、喜ぶ鬼の子が、すっと目を上げ、島野の肩越しに、コハダを見上げた。


 コハダは憶えていた。これはいつかの五十鈴神が見せた、力の証左だと。鬼の子の目が、その時の姫様と同じ、やわらかな光をたたえている。生命力に満ち溢れ、人の魂を核としながら、精霊と同じ匂いがする、新たな山の神。


 こんなものを望んだのはいったい誰かと、もう問うこともできないのだ。今や、認めざるを得なかった。もうここに、五十鈴神はいない。


 

 パキパキと音を鳴らして、コハダが腕を広げたとき、もう人の形は残っていなかった。すべすべとした白い木肌に、薄黄緑色の葉が茂り、白い、小さな花のつぼみが、そこここに溢れかえる。花弁が開くと、何とも言えぬ良い香りが満ちて、島野は子ども抱えたまま、ぼうっと、その夢幻のような光景に見入った。



 鬼の子、すなわち次代の山神は手を伸ばし、その小さな花の付いた房を揺らして、言った。


「よき香りがする。これは何と言う花か」



 島野は、あやすように子どもの身体を揺らしながら、答えた。


「さぁ、何と言うのでしょう。僕はあまり、詳しくないから」


 そう言って、島野がそっと鬼の子を床に下ろすと、そっと島野の腕をひき留めて、子どもは言った。


「もう行くのか」


 島野は、子どもと同じ目線に屈むと、欠けた白い石を見せて言った。


「これをどうにかしないと。でもおかげで、最後の糸が切れました。ほら」


 島野の分厚い掌に、ちょこんと載った真珠大の玉は、ぼんやりとその輪郭を淡くしていた。風に乗ると、ふわりと浮いて、手から離れた。


「あとは、風任せでも大丈夫でしょう」


 鬼の子は、島野と一緒に、かつては山神であった人の魂が、軽々と宙を流れ、天井近くの隙間から、外へ出ていくのを眺める。



「自由なものだな、人の魂というのは」


鬼の子がそう言うのに頷きながら、島野は、こう言葉を返した。


「けれど人は、自身を呪うそうですよ。生きている限り、不自由だと」



 鬼の子がはっと振り返ると、もうそこに島野の姿は無かった。新しいこの山の神は、何かを言いかけ、そっと口を噤んだ。そしてこめかみから一本伸びた、小さな角にふれると、ふぅ、と小さな息を吐いた。


 それからいっときの後、慎重な人々によって閂が外され、道場の中があらためられたが、そこに、堂々と咲き誇る大樹の他、動くものは無かった。樹の根元には、小さな碧色の石が一つ、寄り添うように落ちていた。

人々はその石を大事に持ち帰り、かつての五十鈴神の居所に安置した。



 山より出でる湧き水は滾々こんこんと、変わらず澄んでいる。流れ落ちる滝の清らかさ、その眩い水しぶきは、清らかな香りがした。樹々は夜がくれば歌い、朝がくれば、まどろみの中、背伸びをして、いつかの実りに備えた。


 鳥や四つ足の動物たちも変わらず、祖先の通った同じ道を駆け、春ごとに子どもを殖やした。人々も変わらず、社に足を運び、掃除をし、供え物をしたが、神の名前だけを知らなかった。姿を知る者もいない。


 姿を隠した新たな神は、人目を忍んで、人を見ている。気付かれぬよう、人の暮らしを見守りながら、あるべき己の道を考える。何を知り、何を学ぶべきだったのか。五十鈴神の通った道筋を、未来の礎とするために。



 ~終~


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