神の本質
月夜の空を、薄い雲が幾つも流れていく。黄身色の光は温かく、山の端まで静かに照らし出し、樹々の頭上に霧のヴェールをかけた。
五十鈴は、その光景を大地から仰ぎ見るように、そしてまた、木の葉を揺らす風の一つとなって、山のすべてを見通す様に、眺めていた。それは自身の輪郭そのものであり、よく見知った形だった。
目を閉じ、息を長く吐くと、小さな黒い箱の中、蝋燭の明かりの灯った道場の中に、腰を下ろした自分を見つける。五十鈴は言った。
「生きることと死ぬことの間には、いったいどれだけの自由があるだろう。人を観ていると、そんなことを思った。その自由は、神を棄て、いつか忘れるほどに人自身を、強いものにしている。もし願いが叶うなら、人に生まれ変わりたいと、我は思う」
五十鈴は想いを口にして、改めて、自分の願いの儚さに思い至った。どうしてそんなことが実現するだろう。しかし、島野を前にして、言わない訳にはいかなかったのだ。島野は言った。
「いいでしょう。僕になら出来ます。大変な作業ですが、やってやれないことはない。ですが、一つ条件があります」
島野は人差し指を立て、すぐさまそれを下に向けた。
「この山の神を、失うことで困る人や動物、果てはそれ以外の者たちがいることを、忘れてはいけません。あなたがいなくなる代わりに、力の中心を支える、依り代が必要です。そこで、その石を使いましょう」
島野が視線を向けた先にあるものが、手の内の小石だと知った五十鈴は、少し戸惑いがちに、それを島野の鼻先に置いた。島野は言う。
「神の力とは本質、囲われることによって、存在しうるものです」
五十鈴は、難しそうな顔をして頷く。神の”そもそも論”など、初めて聞くのだ。島野も、まじめな瞳で頷き返し、話を続ける。
「即ち封印されたものは、大なり小なり神の力を得ていることになる。その力が作用するのは通常、内側のみですが、神の囲いは、山の端から端、人の身にすれば広大な土地であったりするので、その力は人にとっては "外側"、またそれゆえに、"不可視なもの" ともいえる。ただ、この小石大だと、分かりやすい」
島野はそう言って小石を取り上げると、ぺりぺりと、玉ねぎの皮でも向くように、黄色の札を剥がし始めた。五十鈴は不安そうにそれを見守る。
「大丈夫です。安心してください。もう、手続きは始まってるんです。ほら、よく見て」
島野の小さく、ふっくらとした手の中で、その石はぼんやりと、薄緑色に光りはじめていた。同時に熱を持っているのか、ゆらゆらと、その周辺の大気が揺れているのも分かる。
「あ」
五十鈴が思わず声を発したのは、自分の指先が、まるで溶けるように、光の糸を紡ぎ始めたからだった。それは髪の端に爪先、そして胴と、自身の
目で追うでもなく、その光の筋が流れていく先は、目前の小石であり、瞬きをしている内にも、新たな力を帯びた石が、内部をぐるりとかき混ぜ胎動し、生き物のような意思を、発し始めている。
島野はというと、熱冷しと言わんばかりに、ふーっと、石に自分の息を吹きかけ、形を定めるように小石を掌に包んで、そっと様子をうかがっていた。
五十鈴は、そんな島野に最後の疑問を投げかけようとして、既に自身の肺、口にあたるものが無いこと、言葉を音にするだけの力が、残っていないことに、気付いた。性急すぎる変化に驚きつつも、心地よい静けさに満ちた暗がりの中に、ふわりと、落ちていく感覚に呑まれる。
「山神の力の蒸留と、魂の創出。人間の魂でいいなんて、欲が無いよなぁ」
最後に五十鈴神が聞いたのは、島野のそんな言葉だった。
***
道場の四隅の照明はとうに立ち消え、地平線が白み始めるころ、島野はふっと顔を上げ、そこにもぬけの殻の着物と、襟元に転がる、小さな
島野はそれを見て、やや困ったように頭を掻くと、「よいしょっと」と言いつつ、重い腰を持ち上げた。立ち上がって一息つくと、床に転がる小さな白い石を拾い、差し込む朝日に翳してみる。そこに予想したものを見たのか、島野は、のそのそと歩いて、道場の扉の前まで行くと、ぐいっと、引き戸を開けた。
木戸の擦れる音とともに、その背後から、たくさんの顔がのぞいた。見れば、五十鈴神のお傍付きの人間、そして精霊の人形である。島野は言った。
「事前に説明したけど、分かってなかった、ってことだよね」
最前列で、島野を睨むように顔を上げていたコハダは、ふっと相貌を崩すと、うつむき、口元を
「どうか、私たちの姫様をお返しください。何をお望みですか。あなた様のような方が、なぜこんな」
コハダがもらす嗚咽に、背後に座る女や男たちも、そろって悲嘆にくれたような瞳で、恨めしそうに島野を見上げていた。
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