下法

 五十鈴が皮肉を込めた言葉を吐くと、島野は「うーん」と首を傾げてこう言った。


「なら、人を喰えばいい。一人喰えば10年は安泰だ。もし、それなりの力を欲するならば、まとめて4、5人喰えばいい。あなたを慕う人間はいるようだから、彼らに、用立てて貰えばいいのでは?」


 至極当然、という顔をしてそんなことを言う島野に、五十鈴は、顔を曇らせて答えた。


「今の世で、人を喰うのは骨が折れる。確かに、名だたる山の神は、ほどほどの頻度で、人を喰らうとも聞く。観光客、よそ者。内輪の事情を知らぬ人間を、わざわざ山に寄せるのは、そういう目的のためだとも。しかし島野。私の場合は、それができぬのだ。聞いてはいないのか。我が母のことを?」


 五十鈴は、悔しいことを口にしたかのように唇を噛み、島野に尋ねる。五十鈴の言わんとすることを汲んだ島野は、すぐにこう言って返した。


「えぇ、ちらっと調べただけですが。あなたの母神が、女子供ばかり攫って喰ったこと。それが人の怒りを買って、”殺された”ということは、知っています。ですが、それが何ですか。当時はあなたがいたから、それも出来たでしょうが、今は事情が違う。神ひとり生かすためなら、多少の犠牲もありかもしれない」


「それは婆や、否、イクエがそう言ったのか」


 島野は考えるそぶりをしたが、波須イクエに頼まれたのは、鬼退治のみである。五十鈴も尋ねはしたが、島野の様子を見て、諦めたような笑顔を浮かべると、言った。


「我の”生き死に”などもう、あまり重要ではないのかもしれない。波須の母親は、我の母が喰らってしまった。波須自身も、命辛々、逃げ果せたのだが、それも奇跡のようなものだった。

 

 我の母は最期、人の手に掛かったが、その後、神殺しの汚名をすべて背負って、イクエが今の役に就いたのだ。我は誰を憎むことが出来るだろう。罪を犯したのは、母神では無かったのか。なぜ人はああも、神に対する "あがない" を重んじる?


 なぁ、島野。今更ではあるが、神が人の情を顧みないで、何を尊べというのだ。神の理を説いたのは、そなたの方ではなかったのか」


 

 五十鈴は、ぐらぐらとする腕に力を入れ、身を起こそうとする。島野はそれを見て手伝い、五十鈴はようやく正面から、島野を見上げた。



「そなたは我に、どんな選択肢をくれる?」


 五十鈴は、厳しさをこめた瞳で、島野に問いかける。


「神の理、神の法。越境者と名乗る割には、己以外の者が道を踏み外すことには、うるさいと見える。何がしたいのだ。そなたは一体、何なのだ。なぜ、我の前に現れた。そなたがいなければ、どうにか成っていたかもしれないものを、すべてそなたが、台無しにしたとは思わぬのか」


 

 島野は、目を丸くして五十鈴の話を聞いていたが、最後のひとことには、にんまりと笑みを浮かべて、こう言った。


「たしかに僕自身が、あらゆる意味での、”壊し屋”であることは間違いが無い」


 五十鈴のてのひらの石を指さし、島野は言った。


「通常はね、そうした禍津まがつものを封印するというのは、浄化するだとか、純粋なエネルギーに還元することが出来ないときの、最終手段です。でも、僕がそれをやるのは、それを嗜好品に変えるため。


 。人間の念の混じった年代物、とくに鬼と化したような上級品は、ことことと良く煮だせば、珈琲になります。僕はそれを飲むのを、密かな楽しみにしている。それは、あなたでも飲めます。人間でも、それと知らなければ、飲めるでしょう。

 

 こんなふうにほら、たとえ同じような行動を採ったとしても、その行為の意味するところは、こんなにも違っている」


 悪戯っぽい瞳を輝かせ、ひとり、自分の言葉に頷くと、島野は続けた。


「人間同士だって、感性や価値観の相違があるでしょうけど、終局、出来ることなど似たり寄ったりだ。でも僕は、同じ結果さえ持てないのだから、僕の存在は、人や神々、神羅万象、そうした主だったところのことわりを、歪めているとも、言える。


 僕と深いかかわりを持つということは、そうした歪みの中に取り込まれること。それが嫌なら、決して僕の差し出す選択肢や、誘惑めいた言葉に、身を預けるべきではない。そういう意味でしか僕は、もとい、法理を説く資格はありません」



 五十鈴はじっと島野の話に耳を傾け、その言葉を吟味していた。何を拾い、どう解釈し、また何と返すべきか、と。


「なぜそなたは、自分の為すことを“歪み”だと結論付ける? 自分の存在が特別だと? あぁ、確かにそうだろう。我も神だ。我も特別だとも。だが、我の為すことは歪みではなく、はじめからそうと定められた、秩序の内にある。何をしようとも、結果は全て、神の行いとして、正される。


 神が負わされた存在理由、それは、存在しえないものであることだ。『神であること、すなわち正しきもの』。しかし、この囲いの外には、何があるのだ? わざわいだけか? そなたの言うように、歪み、悍ましきものか? 我はそのようには、思わない。境を超える者よ、そなたの知る正しさとは、何だ?」


 

 島野は、ぱちぱちと瞬きをして、五十鈴を見返した。


 言葉を交わした神は数あれど、こんなことを言う神はかつて居なかった。島野は、『面白い』と感じた。


 話していて楽しい相手など、数えるほどしか知らない。自分に課せられた制限や運命、理に対して、それ以外のもの、その外にあるものを、こんなふうに肯定できる神もいる。それがひどく、島野の心を揺さぶった。


「あなたは僕を肯定してくれるんですね。僕という存在を知って、最初に誰もが口にするのは、否定ばかり。僕は世界の歪みだと、いてはならない"誤り"だと、言われ続けました。

 

 だから僕も、そんなものだと、世界が変わらなくとも自分は平気だと、思うことにしました。でも本当は、正しさも誤りも、僕の中では、境が無いから。あらゆることの否定が、僕にとっての嘘になる。


 ねぇだって、いいじゃないですか。こんな生き物が一人くらい居たって、困ることなんてない。むしろ、いいことがある。僕をその気にさえさせてくれれば、何だって思いのままかもしれないのに、ってね」


 島野がそう言って五十鈴に見せた笑顔は、その体躯に不似合いなほど、あどけないものだったので、五十鈴は少し、面食らって言った。


「そなたはもしや、百瀬も生きてはいないのではないか。それほど幼ければ、悩みも多かろうが」


 五十鈴が年齢のことを口にするので、島野は、首を小さく振って言った。


「大抵、知識は、生きた歳月に比例しますが、僕の場合は、が形になる。おそらく逆なんだろうと思います。僕が決めたことが、何かの始まり、何かの決まりごとになる。ですから年若くとも、関係ない。創造するというのは、つまり、そういうことなんです」


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