越境者
どこからか甘い、桃の熟れた香りがする。五十鈴はまだ、自分が夢うつつの状態にあることを知る。視界は、ひどい靄に閉ざされていて、その香りと自身の身体の輪郭の他には、頼りがない。その中でひとつ、声が聞こえてくる。
「…僕はね、基本的に神様っていうのが、羨ましいんですね。だって、人にこれだけ搾取されるっていうのは、一つの愛のカタチじゃないですか。僕は、願いさえすれば、神様になれるのかもしれないけど、願って成っても、嬉しくないとは思います。まるで、人の好意を金で買ったような気分、というのかな。だから、同情するし気になるし、神様関連の依頼を受ければ、優先的にスケジュールを組んで…」
声の発せられてくる一点を掴んだ途端、視界が開けた。腕の感覚が、そして、伸ばした指先の感覚が空を泳いで、小さな風を起こす。眼を開けた先には、
布団越しに感じる床は、天井とは異なる香りと硬さを持つ、松の板敷。まるで壺の底にいるような気分になるほど、自身の存在が小さく、まとまっている気がする。腕を伸ばした分しか世界が存在しないような、まるで人のような感覚だ。
五十鈴がそうしてようやく一息ついたところで、さっきの声の主が、今度ははっきりと、五十鈴に向けて言葉を発した。
「お目覚めですね、神様。改めまして島野大樹です。ですがまあ、再びお会いできて良かったのかどうか。それは、お話次第ですが、お加減はいかがです?」
なにせ、出逢った時の印象の強い相手だ。いつの間にか、枕元まで近づいて来ていた小山の様な影が、自分を、覗き込むようにしている。思わず、その不思議な目に引き込まれるように見返すと、星空の様な燦然とした光に、目がくらんだ。
五十鈴と視線を合わせた島野は、まるで気が済んだように、ごそりと動いて身を引くと、自分の足を抱えるようにして、五十鈴の枕元に腰を落ち着けた。島野の影は、背後から差す松明の明かりと、奇妙なほど明瞭な境界線を保ち、より暗く、より大きな存在に見えた。
不安に駆られた五十鈴は、確かめるように自分の頬に手をやる。関節が痛むような感覚はあるが、不思議と気力、体力に満ち、視界も明るい。目を凝らせば、山の上の天気まで、よく見えそうだった。
「…我に何をした?」
声だけは、病み上がりのもののようにかすれた。島野は答える。
「山の神は、みなそれぞれ地脈と、気脈を持っています。それが人や悪鬼のせいで根詰まりすると、不調になる。ですから、そこに溜まったゴミを、僕なりの方法で掃除しました。こんど、特許を申請しようかなって思ってますけど、バリエーションが多くて。
まぁ、言うなれば、疲れた神様に ”デトックス効果のあるマッサージ” を施した、ってとこでしょうか。お気に召したようで何より」
会った時から、やたらとしゃべる奴だったと、五十鈴は思い出す。
「それにしても、他に人はいないのか。ひどく冷える」
掛け布団一枚を、身体に巻き付けるようにかき寄せると、五十鈴は白い息を吐いた。いつもの寝間着だ。たとえ着物のせいでも、山中でこんな寒気を味わったことが無い。自分自身の体温に凍える様なものだ。違和感はなはだしい。
目を走らせれば、蝋燭の灯る道場の四隅は、思いの外遠く、こんなに広い空間だったろうかと、五十鈴は身をすくめた。
「あぁ、それはおそらく僕のせいですし、それとこれ」
島野は、背後から大きな袋を取り出すと、太い腕を突っ込み、中を、ごそごそとやりだす。中から、何やら奇妙な小物がたくさん転がり出てくるのを横目に、五十鈴は、道場の中に差し込む月明かりから、おおよその時刻を計った。そして、既に人が寝静まっている時間だとわかると、すっと肩の力が抜けた。そんなに眠ってしまっていたのだ。
「よいしょっと」
島野がとうとう、袋をひっくり返す。ぱらぱらと散る木くずと一緒に、最後に現れたのは、微細な模様の札が貼られた、男のこぶし大の”石”であった。
その見慣れない黄色の札は複数、石の表面を埋め尽くす様に貼られ、地の肌は見えない。しかし、発している気の種類で、その中身が食物などではないことが分かる。
「それは?」
すかさず問うと、島野は、こつんとそれを床に置いて言った。
「これは、貴方の鬼です」
ふっと、息を止めた五十鈴を前に、島野は気まずそうに唇を噛むと、引っ込めた腕で、足先を掴むように握り込んだ。一瞬の沈黙の後、勢いを付けて、島野は告白する。
「僕から見ても、大層きれいな鬼だった。若い風貌をしてて、30匹はいる群れの頭領をしてたな」
五十鈴の揺れる瞳を前に、敢えて思い出す様に目を逸らした島野は、事のあらましを説明する。
「他を引き離すのに苦労しましたよ。僕は基本、化生でも何でも簡単に殺めたりしませんからね。捕まえるか、姿を変えてしまうか、本当に、違うモノにしてしまうか、他の選択肢が無数にあるので、どれにしようか、いつも決めかねるところです。ただ、こいつは少し暴れたので、力を抑え込むために、ちょっと、えげつない封印をしました」
島野は石を拾い上げ、五十鈴の手を取ると、「ハイ」と言って、掌にそれを置いた。五十鈴ははじめ、疑うような瞳で島野を見返したが、恐る恐る、石を手の内に納めた。
島野は、唇の端をぽりぽりと掻いて、言う。
「僕はね、たとえ神であっても、恋愛は自由だと思うんです。人の間には、他人の恋路を邪魔立てする者はなんとやら、という諺もあるそうだから、僕だって、それに倣ったって、いいじゃないかってね。
ただ、今回はね、鬼の調伏を、『仕事』としてもらったから、それはとりあえず済ませて、そのあと、ちゃんと山神であるあなたの意見を聞こうかなと、判断しました」
「我の意見?」
「そうです、あなたの」
島野は、さも当然、とばかりにそう言い放つ。
五十鈴は長らく、人にさえ、意思を問われることが無かったことを思い出し、苦笑して言った。
「…そうか、やはりお前は人では無いのだな。妙な術を使う人間は皆、そんな風なのかと思ったが」
すんなりと答えが返ってこなかったので、島野は、ちょっと困ったような笑みを浮かべると、言葉を選び直す。
「えぇ、まぁ、たぶん…そうなんでしょうね。人というのは、命あるものの中では、一番狭い範疇の生き物です。死ななければ、別の生き物にはなれない、という点でもそう。
僕は気付いた時から人間のフリをしていますが、こればっかりは、元々そうなのか、そうなりたいから、擬態をしているのか。いくら、考えても分からないんです。
やだなぁ、僕の話をしたいんじゃないんですよ。五十鈴さん、あなたの望みを知りたいんです、僕は」
五十鈴は、手の内で石を転がす様に、しかしじっと、指で包むように胸に抱えると、胸の内を、そろそろと語り出した。
「…我にはもう、神が務まらん。どうせ終えるなら、鬼に喰われてしまえと思ったが、案外、人の
「僕も、余計なことをしました」
五十鈴はこくんと、力なく頷く。
「極まるところ、我が出来ることと言えば、鬼討伐と銘打った下法、
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