はずみ


 姫は、来た道を戻り始める。学校に通うより先に、すべきことがある。迷いながら一か月、人の暮らしをしていても、望んだ選択肢には手が届かなかった。土地に住まう幾多の命を護る神に、既にその力が無く、逆に人に護られ、安寧を保障されている神など、どんな意味があるのだ。


 早足が、だんだんと駆け足になって、人の間を抜けていくうちに、保っていた人の形が揺らいでいく。澄んでいた空の端から雲が覗き、はらはらと、細かな雨を大地へ注ぎ始めた。



「あっ、雨だ」


 反対方向へ歩いていく子どもたちが、声を上げる。同じ制服を着ているのを認めて、姫はくすりと笑った。



 “山の神が顕現すると、雨が降り出す”


 昔の人間はそう言って、突然の雨に手を合わせたり、見えない神の存在を感じ取っていた。今はもう、そんなことはない。姫は強く念じた。


『鬼ども、どこだ。いるのだろう、出てこい。話がある』


 

 足元の薄い影を振り切ると、もう、人の目に映らぬ姿となった。雨を頼りに、ふわりと宙に躍り出る。


 小雨の中を泳ぐように身をよじると、呼気を抜ける水滴に、己の昂ぶりが、和らいでいく気もする。人の巡らした、送電線を見下ろせる高さまで昇ると、五十鈴の本体である川辺が見えた。


 そこからは、落ちるように任せて、一気に空を下って行く。久々の跳躍は、無い力をさらに削ぐような苦痛を伴ったが、同時に、強い邪気にもあてられていた。


 五十鈴は、それが発せられた方向をはっきりと認識し、ぐっとこらえて、着陸に備えた。


***


 注意深く、玉砂利の河原へ足をついた姫は、息も荒いまま、立っていられず腰を落とした。遅れて姫の学生鞄が、空から落ちて来たが、どんと角を打ち付け、一回跳ねると、姫の隣に転がった。


 雨の匂いに混じって、禍々しい臭気が、霧のように立ち込める。背中を這うようにあがってくる怖気を堪えて、姫は顔を上げた。雨の中を、鬼が一匹、やってくる。



 人の形をした鬼は、傘を持たず、ただ、見慣れた高校の制服を着ていた。年若い人の子の姿をとり、その瞳は爛々と、生気に満ち溢れていた。存在そのものが濃い影のように揺らぎ、ぐつぐつと、煮え立つ鍋のように、強い熱を帯びている。


 河原に座り込んだ姫と、現れた鬼は、しばらく黙って、視線を交わした。山の外で対峙するのは、これが初めてである。


 鬼は、目を細めて空を見上げると、小雨に濡れる髪をかき上げた。姫は、吐き気をこらえながら首を垂れ、雨が髪を伝う感触に、心を鎮めようとする。鬼は、用心深く周囲を見渡し、ため息を一つ吐くと、興醒めをしたように、ぽつりと言った。


「気がふれているというのは、案外、正しいのかもしれんな。その魂、タダでくれてやるほど安いのか?」


 姫は、キッと表情を強張らせると、ゆっくりと手をついて立ち上がる。


 ぼたぼたと水の滴るスカートの裾をしぼり、長い髪を右肩に束ねると、力を込めて、指で梳いた。すると、それを待っていたかのように雨が弱まり、間もなく止んだ。眩い光が、雲間から差し込む。鬼は感心して言った。


「山の神の神通力か。まだ多少は使えるらしい」


 姫は薄く笑うと、自分の右の掌を、開いて閉じた。一度は解いたはずの人の姿が、また戻っている。おそらく何かの安全装置が働いたのだ。人の許しなくして、逃亡まかりならん、ということらしい。



「ククク、神通力とは笑えたものよ。かつては嵐も晴れ間も、神の気分次第で思いのままであった。だがそれも、先の代までの話。我にあっては、もう大した力など無い。神とは名ばかりの、人に劣る代物よ」



 山の神を前に、鬼は、またしばらく、値踏みをするように目を細めた。

力の無い神など食って、何になるだろう、そんな思案をしているに違いないと、姫は思った。だが、隠しおおせることでもない。


 事実、鬼を前にして激しく、自身の気が揺らいでいる。己の陣地である山中ではいざ知らず、日中に一対一など、賢くはない逢瀬だと思う。


 鬼は、そんな姫を知ってか、見下したような態度で首を傾げると、こう言い放った。


「お前は、俺に食われに来たのだろう。そうであればこそ、こんな場所へ出向いてやったというものを。力を失ったとはいえ、山の神が身を差し出すのは、屈辱か?」


 姫は、奥歯を噛み締め、揺らぐ膝に力を込めて、こらえた。


 腹の底から、そんな自分が可笑しくて情けない。こんな場で湧いてくるのは、怒りに似た感情か。姫は、唸るように言葉を返した。


「あぁ、我も神なのでな。鬼や魔物と、いかな理由であれ、血を交えるなどと言うのは、はらわた煮えくり返る想いよ。しかし今や、人を食うわけにもいかん。進んで神の供物になる人の子もいない。ならばいかにする」


 人に真心を説く神の口から、こんな戯言が出てくる日が来ようとは、誰も思うまい。姫は、不敵な笑みを浮かべて、続きの言葉を口にする。 


「鬼よ、そなたは我が喰らう。食うや喰われるやの勝負、受けて立つか? 我は力が欲しい。力を失った神など、誰が望むか。お前も神の力が欲しいのだろう? ならば、争うものは同じ。断る理由は無いではないか」


 鬼は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐさまふっと、得心の笑みを浮かべる。



「いいだろう、承知した。それが神の矜持というならば、付き合ってやろう。しかしお前も、妙な遊びを思い付く。この俺が、瀕死の神に喰らわれる日など、来るはずも無かろう。覚悟を決めておくがいい。その精気、山ごと喰らってやろう」


 姫が、鬼の言葉を最後まで聞いていたかは分からない。その言葉を残して鬼が消えると同時に、姫は力尽きた。意識を失い、そのまま人形のようにぱたりと、その場に倒れた。



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