神成り
「でも…ほんとはどうなのかな、神様も、今の世の中じゃ、だいぶ近いような気がします。だから時々、何か勘違いしそうで、怖いんですけど」
「勘違い?」
支度が終わった姫は、椅子を引いてもらい、立ち上がる。ミツキも合わせて、素早く椅子を立つ。何か言いかけたが、周囲の女たちの視線で、キュッと萎縮する。
「ここじゃ、言えません。あぁ怖い怖い」
ミツキがそそくさと玄関へ向かうので、姫も、早足で付いて行く。見送りの女たちが、口々に「いってらっしゃいませ」と言う。姫も、「行ってくる」と、挨拶を返した。この堅苦しさは、いっこうに変わりがない。気安いミツキのほうが、例外なのだ。
テニスラケットの入ったケースと、大きな部鞄のベルトをぐいっと肩に回し、一足先にミツキが、朝の陽光の中に飛び出していく。
「こんなにいいお天気で、気持ちがいい! ね、姫様」
外に出ると、程よい風もあり、たしかに心地のいい朝だった。
ミツキは、んーと大きく背伸びをして、くるりと一回りすると、揺れるスカートに機嫌を良くして、にこにこと姫に笑いかけた。嬉しそうなミツキを見て、姫も笑う。
美しい姫の笑う姿は、本当に絵になる。そう思って見惚れたミツキだったが、このまま家の前で、立ち往生する訳にもいかない。ミツキは、少し怖い顔をして気を引き締めると、姫を促して学校へ向かう。
歩き様、話の続きが聞けるものと期待していた姫は、突然黙りこんだミツキを見上げ、疑問の表情を浮かべる。しばらくは、同じように黙って様子を窺っていた姫だったが、大きな車道に出たところで、もういいだろうと、口を開いた。
「なぁ、ミツキ。勘違いというのは、どういう意味だ」
どきっとしたミツキが口を開くより前に、二人の目の前を、自転車が横切っていく。おっとと、ミツキが庇うように腕を伸ばして、姫の足を止めた。
「やっぱりそこ、気になります?」
往来が賑やかになって来たのを気にしながら、ミツキは、短い自分の髪に手をやり、言ってしまってよいものか、悩んだ。しかし、姫が頷くので仕方がない。ミツキは、言いにくそうに小声で続けた。
「神様って、難しいな、って思うんです」
姫は、ミツキの言葉を聞き洩らさないように、じっと耳を傾ける。ミツキの背は高く、頭一つ分か、それ以上の差がある。
「むづかしい、とはまた、分からないことを言うな」
そうは言ったものの、言わんとすることは、伝わらないでもない。ミツキは、下唇をいじりながら、姫相手に思案して、言葉を重ねる。
「神様って、身近であっても、そうでなくとも、『敬う、奉る』っていう習慣があります。何かと人が世話を焼くというか、お社もそうだし。で、そうして関りを深めると、神様に近い人間と、そうでない人間、という区別も生じる。
物理的に近しい関係が、必ずしも親しいことを意味しないはずだけれど、そうして信心深くしていると、人も神様になれる、そんな考え方があるでしょ。ご先祖様とかも、一番とはいかないまでも、神様の "列" に入るから。位置的な高さというか、意識的な ”高さ” なんだと思う。
近くても、今居る位置から、一段高いところ。そこにいるのが、神様ってもので、その高みに憧れるかどうかっていうのは、人によるんでしょうけど」
社にいては、聞けない話を聞いたと、姫は思う。
「人も神になれる、か。よいことを聞いたな。それは知らなかった」
姫が気になるのはそこかと、ミツキは慌てて、言い繕った。
「いや、だから難しいですって。やだなぁ、もう。私の言うことを、あんまり真に受けないで下さい。私の勝手な解釈の域を出ないんですから。
おじいちゃんの持ってる民俗学の本とか読んでて、そんな感じかなぁって。でも、生きている人じゃないですよ、亡くなった人が神様に”成る”、ですからね。生きている限りは、ちゃんと神様を祀って、信心深くって…ねぇ、聞いてますか、姫様?」
「あぁ、聞いているよ」
*** ***
校門が視界に入って来た。ミツキの友人が、向こうから手を振っている。
「あぁっと、話の途中ですけど、すみません。じゃあまたお昼に!」
駆け出してゆくミツキの背を見ながら、姫は、心がざわざわと波打つのを感じていた。ミツキの言うことを信じるなら、神が、実体として存在する意義は、もはや無い。神は一個の概念として、人の頭の中にだけ、存在していればいいのだ。
姫自身、気付けば生じていた「己」というものに、どれほどの価値があるのかと思い、悩みもした。しかしいざ、それを自分で定めようにも、今日ではあまりに、人との関りが深すぎる。
彼らの求める都合のよい神であることが、存在価値であること。乃ち人の願い、人の理想の受け皿こそが、神の実体であると、人は言う。息苦しいほど切実であると同時に、いざ神の方が振りむけば、人の関心は著しく、散漫でさえある。
だからこそ、古代からの神が消えてゆくのは、変わりゆく人の意識の為なのだと思う。形が定まらないのも、力が失せていくのも、すべては、変化する人の ”自然” に、応じているだけなのだ。
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