人の慈しみ


 岩沼に連れられ、帰り着いた先は、姫の住まう山の、庵主を勤めている婆やの親戚の家だった。子どものいないその家は、行き交う風の音まで飲み込む、静けさの中にあった。


 ぽうっと明るい玄関戸を透かして、出迎えであろう人の影が映る。


「心配しておりました」


 そう言って、音もなく開いた戸の向こうで、身を隠す様にして姫に声を掛けたのは、一人の婦人だった。ゆったりとふくよかな肢体に、淋し気な微笑を浮かべている。だいだい色の照明のなかで、婦人のセーターの色は、柔らかく膨らんで見え、とても温かそうであった。


 姫は目を伏せ、挨拶を返した。


「心配をかけて、すまない」


 姫が、玄関戸をくぐると同時に、岩沼は一歩、身を引いた。そして、ぺこりと頭を下げて言う。


「僕はこれで」


 姫のこの滞在先に、男の家族はいない。皆ゆえあって、山の社に通ってきている婦人ばかりが、集って住む家だ。


「ありがとう」


 姫は、普段見せないような笑みを浮かべると、礼を言った。迷いが晴れたような姫の様子に、岩沼は嬉しさを感じる反面、小さな不安を覚えた。


「いいえ、滅相もございません。また明日」


「あぁ、また明日」



 家に帰り着いてから、姫が行うことは、そう変わり映えのしないことばかりである。

 

 まずは身体を清めて、香を焚き、形ばかりの食事をして、寝間着に着替えると、人の子どもと同じように、勉強をする。この一か月、そんな姫の家庭教師をしていたのは、大学で講師をしている佐久間だった。


 彼女は時折、その痩せた体を抱くようにしてぼんやりする癖があったが、姫に話しかけるときは、こぼれんばかりの明るい笑みを浮かべた。



「この問題は、こちらの式を用いて、例題と、ここだけ違うように解けというものです」


 姫は、国語の問題にはてこずらなかったが、数学や科学の図式、実験を理解するには、かなり時間をかけた。そもそも、慣れないシャープペンシルという筆記具を使って、文字を書き連ねる作業だけでも、姫には堪えた。身体を使役することで、生活の術をその身に付けるという人の知恵を、どうにか理解しようとする。


 だが、腫れあがった指を見つめながら思うのは、人の求める癒しを、神が解することの難しさばかりだった。人や動物が、身体を使役し、傷めた末に学ぶものを、神は、その死の一点でしか、見ることはできない。体感の遠さを、姫は噛み締めていた。



 命あるものは、時に疲れ消耗するが、休息の後、英気を取り戻す循環の中にある。かりそめの春とはいえ、それが何度も巡りくる喜び、決して同じようには訪れない変化を知りながら、死へ向かう。けれど、姫が自身において感じるのは、漸進的に衰弱していく力と存在の、さらに儚いものになりゆく意識の軽さだけだった。


 “危機感”というものは、命あるものの特質なのだ。神の性質ではない。消えてゆくものは、意識もろとも薄らいでいく。不可逆の衰弱とは、当事者さえ、置き去りにしてゆくものらしい。気が付くと、眠りに落ちているこの頃も、そんなしるしの最たるものだ。抗わず、受け容れさえすれば、心地よいものかもしれない。


 しかし自分は、その望まぬ消失に抗う術を、求めている。悪鬼に身を任せたところで、何があるかは分からない。ただ、出逢い頭に責められるようなことではない、とは思う。何をもって自身とし、他と分かつのか。その問いの答えが見つかったときに、採るべき道も決まるだろう。


 * * *



「今日は、ここまで。お疲れでしょう」


 佐久間が、歴史の教科書を読み上げてくれている傍で、姫はうとうとと、眠い目をこすった。



「我の意識がもたず、すまないことをした。また明日、頼めるか」


「はい」



 姫が椅子からおりて、布団の方へ歩いていくのを見送ると、佐久間は、近くに置いてあったガラス製の水入れを傾け、桜色の湯呑に、水を注いだ。


「姫様、こちらにお水を置いておきます」


佐久間はそう言って、枕元の小棚の上に、湯呑を置いた。


「ありがとう」


 布団を引き上げながら、姫が礼を言うと、佐久間はそれを手伝いつつ、姫の枕を、その首の下にあてがう。


 姫が、枕に預けた首を反らすと、もの言いたげな佐久間の表情が目に入った。その大きな瞳に疑問符を浮かべて、姫は「なんだ?」と、佐久間に尋ねる。


 佐久間は、少し距離を取って正座に居直ると、真っすぐ、姫の視線に応えるように、こう切り出した。


「姫様は、山の神なのですから、むやみに礼を言われずとも、よいのです。でないと、私たちが惨めになります」


 姫は、眼をぱちぱちと瞬かせると、また目を凝らす様に、佐久間の顔を見上げた。彼女の意図が知りたかった。


「そんな、驚かないで下さい。ここにいる誰もが、思っていることで、わたしだけがそういう考えでは、無いのですから」


 佐久間の困った顔を見ながら、姫は言葉を返す。


「正直、我がいま、お前のような者たちに、どれだけのことが出来ているのか、よく分からん。神と人、価値あるものを同じくするならば、その理解も及ぶのだろうが」


「それは」


宙を見るように、視線を漂わせる姫を前に、佐久間は急いで、言葉を探した。


「どうして神が、人の心のすべてを解することなど出来ましょう? 私だって姫様、あなたのことを本当は、よく知りもしないのです。けれどお傍にいて、お世話をして、姫様の守って下さる山と、恵みに感謝をして、それが何より幸福だと、感じています。


 姫様の存在は、ただ、そこにあるだけで、尊いのです。ですからあなたが、ご自身のことにどのような決着をつけられようと、私どもは、何も言えない。


 ですから、どうか、こうしてお傍にいる者のことを、お忘れなきように。そして山神としての御立場を、つまらぬ徒人ただびとの為だけに危うくするようなことは、何があっても…」


 姫の視線は、また、佐久間の上に戻っていた。佐久間がそこに見たのは、ひどく穏やかで、凪いだような表情だった。佐久間は、言葉が過ぎたことに気付くと、その青い唇で、次に続く言葉を飲み込んだ。そして深々と、その場に頭を下げる。



「過ぎたことを申しました。どうぞ、お休みなさいませ」


「おやすみ。佐久間」



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