戒め


「今日はもう少しだけ、学校ここに居てもいいか」


ミツキは驚いた顔をして、姫を見る。


「姫様に秘密の御用? なんですか、それは」


「いや、用と言うほどのものでは無いんだが、借りた本を読んでしまってから帰りたくて」


 これは表向きに用意していた理由。こんなことで大人しく帰ってくれるかどうか、


「はぁ、わかりました。さとしはどうせ、6時までクラブだし、呼べば来ますから。後は宜しくです」


 じゃ、と言って、ミツキはいつもの爽やかな笑みを投げかけつつ、走り出ていく。意外なほど、あっさりと納得されたので、姫の方が驚いたが、思えばこの一か月、ほぼ帰りはミツキが一緒だった。友人も多いようなミツキに、無理をさせていたのかもしれない。


 顔には出さないミツキだが、姫が言い出すまで、本来の自由もままならないのかと、ふと、寂しい感情が湧いた。


「なんだ、私はいつもこんな甘え方をしているのか」


 山の神が、人の子に姿をやつし、里に下りる際の制約や危険は、ごまんとある。しかし、そればかりに気を取られて、周囲に居て、暮らしの手助けをしてくれるミツキや岩沼、また社にいて、無事の帰りを祈ってくれているコハダや、人々の想いを、自分は、どれだけ汲み取れているのだろうか。


 人と山神。対等と言うには異なるモノで、相応に異なった役割を負っている。それは、人にかしずかれる度、神として試されることに始まり、期待と尊崇に満ちた目に出会う度、頷いて見せることの中にも、確かに感じられる、"違い" なのだ。


 しかし、こうして紛れるように人の間で、彼らの真似をして過ごすうちに、いったいどれだけの価値が自分に残され、また、"神頼み"という名の期待が掛けられているのだろうかと、姫は思う。


 自分を、人の子のように思いなして笑ったり、彼らの用意した食事を摂ったり、眠ったり、たわいもないことで、心を躍らせることは、神においては、禁忌とする掟もあることを、姫は知っている。けれど、それは自らを裁くより他に、裁いてくれるもののいない神にとって、まるで甘い誘惑のようにも見える。


 こうして神として、人の間にあって、無理をきかせることさえ、当然だという顔をして、彼らの綺麗な心を騙す様に生きてしまえるなら、本当に自分は、人に成れるのではないだろうか。


 辿りついた考えに生じた、苦い矛盾。

 

 姫は吐きかけた息をとめ、庭の緑を見やった。



 膝に抱えた本のしおりを引き、読み残したページの数を数える。あと、12ページである。鞄を持って、庭のベンチで読み上げてしまうことにした。



 日が暮れてしまう前の、焼けるような茜色が、夜の帳にしみ入るように、地平線へ落ちて行く。風の柔らかなこの季節は、山上では、いくら惜しんでも束の間に過ぎていくものを、ここではずっと長く感ぜられて、喜びも一入ひとしおである。



 行間の間に、意識が沈んで行こうとしたとき、ふと、呼び止められた。


「もしもし、ここで眠ってはいけませんよ神様」


 曖昧な意識の狭間にも、どこかで聞いた声だったかと、頭を巡らす。そして、その記憶がないことを思い出すと、瞬時に我に返った。



「あぁ、良かった。危ないところでしたよ」


 本を読んでいるうちに、ついつい眠ってしまっていた。


 ふるっと身体を震わせ、周囲を見渡せば、冷えた藍色の大気の中に、すっぽりと収まっていた。かぐわしいほど充実した気の力を感じ、驚くほどの静けさだ。


 どの方位にも、複雑かつ巧妙な守護の術が、その“指示式”が、張りめぐらされている。それは、一寸の無駄も無いほど重なりが無い上に、隙もない。


 それはそれは見事なもので、姫は思わず、感心のため息をもらす。


 自分を見下ろす青年の背は、まるで熊か何か、獣のように黒々と、巨大に見えた。だが彼の目は、きらきらと真夏の青星あおぼしのように光って見え、それは、獣の発するものよりも、不可解なほど多彩な光を宿していた。もちろん電灯の反射などでは無く、特別な力の証拠であった。


 姫は言葉を発しようとして、喉が、すっかり渇いていることに気づく。


「あぁ、今は話してはダメです。鬼が近くまで来ていたから、気をきかせて呪いまじないを。あ、僕はちなみに人間側です。ただちょっと異質で。島野大樹と言います」


 島野と名乗った青年は、どさりと姫の左隣に腰を下ろす。いよいよ圧迫感のある存在のように、感じた。


「お節介だとは思うんです。通りがかっただけの男が言うのもなんです。でも」


 青年はじっと姫の目を射るように見つめてくる。それは姫の周囲にある幾つもの層を、ものともせず、神聖な神の領域に素足で堂々と踏み入ってくるような、そんな圧倒的な力をもった視線だった。


「お前は…」


 島野は、大きく瞬きをすると、姫の鼻先にくいっと、人差し指を立てる。


「神が、神のことわりを崩せば、たちまちその力は失われ、死せるものとなる。人の心は乱れ、鬼が跋扈し血肉を得る。世は乱れ、魑魅魍魎が我先へと、天を目指して命を刈り急ぐ。花山風月いざ知らんや。蟲も獣も死すれば毒となって地を塞ぐ。それでも、そは道を誤ろうと言うのか。そは己よ、悔い改めよ」



 強い風が吹き、翻弄される髪に手をやり、姫は島野をじっと見返す。


「そなたは我の為すことを止めよと、口出しをされるどこぞの神か」



 島野は姫の問いかけに、ニコリと笑い、首を横に小さく振る。


「いいえ、滅相も無い。そんな大そうな役割も、使命も負ってはいません。ただ、僕にはいろんなことが分かってしまうし、出来てしまうから、つい口出しを」


「さてと」と言いつつ、島野はパンパンと自分の掌を打って、呪いを解いた。そして、ぐわりと立ち上がると、「はい」と言う体で、姫に手を差し出す。


 姫はその手を取り、立ち上がる。だが、長い間、固いベンチに座っていたせいか、痺れた足の感覚が遠い。思わずよろめきそうになって、島野の太い腕につかまる。


「もし、お厭でなければ送りますが、僕のようなものが、呼ばれもしないのに現れると、面倒なこと、この上ないので、やめておきます。だからあなたの縁者を、呼ぶだけにしておきましょう」


 そう言った島野は、天に向けて右腕を差し上げると、手首から先を、外側に折るように、コキコキと、曲げ伸ばしする。何かを招く動作に見えた。


 そうして島野の腕に注視していると、突然、背後に気配を感じ、姫は振り返る。そこには、岩沼が立っていた。


「あれ、僕、トイレに行った帰りで、あれ?なんで姫様がいるの?」


 上履きのままの岩沼は、突然なことに面食らっている。姫も動揺を隠せないまま、島野の方へもう一度向き直った。こんな真似は、もう神でも出来なくなっている。なのになぜ、この男は。


「あぁ、訝しんでますね。まぁ、当たり前か。僕はその、生まれが特殊で、本当の父も母も知らないんですけれど。"越境者"と俗に呼ばれてます」


 島野は、ぽりぽりと頭を掻いて見せる。


「そこそこ、この界隈では有名人です。今日も仕事で、呼ばれた先の学校を探して、うろうろしてまして、ちょっとあなたの発する、に引かれてしまったと言う訳で。どうかこのあたりで、失礼をさせていただきます。じゃあ」


 島野はよいこらしょと、傍らの大きな包みを背負うと、姫の前を横切り、宵闇に遠ざかって行った。


 大きく見えるその形は、不気味な靄に輪郭をかき消されたように、茫洋と広がって見え、彼の歩みに応じて、僅かに伸び縮みをしているようにも見える。その靄は、実体としてそこにあるせいか、月の落とす影を凌いで暗く、彼の形を、人ならざる曖昧さに、とどめ置いているようにも見えた。


『悔い改めよ…か』


 姫はふと、自身の不鮮明な記憶の底に触れた気がした。神代の基準でも、古臭いと呼べるほどの太古の昔。あんな闇を纏っていたころは、神々も存在が確かで、秘跡の多少も、苦では無かったのだ。


 深く息を吸い込むと、何ともしれない深い力のみなぎりに酔える気がした。


 戸惑い顔で、島野を一緒に見送った岩沼に、声を掛けた。


「帰るか、岩沼」

「あっ、はい」


 岩沼は、事態が飲み込めないながらも、次にすべきことは心得たようだ。彼の差し出した手を、自然と取る自分に驚いた姫は、くすりと笑う。


「な、何か?」

「いや、なんでもないよ」


 緊張で汗ばんだ岩沼の掌は、あまりにも人間のものなのに、嫌とは想わないのが、不思議である。多少の気も狂おう。そう、あてられたのだ、島野という男に。


、現世でも、平気でうろついているのならば、自分のような非力な神にも、何がしかの希望があろうというものだ。



「何か、おかしなことでもありましたか?」


 靴を取りに戻りたいという岩沼に付き合って、明るい校舎の一角に向かって歩き出す。


「岩沼は、私が怖くないのか?」

「怖い?」


 岩沼は、姫の手を握る力を弱めると、そうっと、悪びれた様子で、手を引っ込めた。


「姫様は、お優しい方だと、聞いています」


「優しい? 弱い、ではなくてか?」


「違います」


 靴箱の前まで来ると、岩沼はそう言って、黙ってしまった。姫は言う。


「昔は、人が神を畏れて、子どもを供え物にした。だが今は、そんなこともない。それは神が弱くなったからだと、我は思う」


 びくっと、分かりやすい動揺に固まった岩沼を、姫は、じっと首を傾げて、観察する。


 人に勝る力を得るために、人を喰ったいつかの昔、その頃は、こんな迷いや疑問の中で、弱っていくとは思いもしなかった。


「安心しろ、岩沼。我にはもう、人を喰う気力など無い。冗談だ」




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