戒め
「今日はもう少しだけ、
ミツキは驚いた顔をして、姫を見る。
「姫様に秘密の御用? なんですか、それは」
「いや、用と言うほどのものでは無いんだが、借りた本を読んでしまってから帰りたくて」
これは表向きに用意していた理由。こんなことで大人しく帰ってくれるかどうか、
「はぁ、わかりました。
じゃ、と言って、ミツキはいつもの爽やかな笑みを投げかけつつ、走り出ていく。意外なほど、あっさりと納得されたので、姫の方が驚いたが、思えばこの一か月、ほぼ帰りはミツキが一緒だった。友人も多いようなミツキに、無理をさせていたのかもしれない。
顔には出さないミツキだが、姫が言い出すまで、本来の自由もままならないのかと、ふと、寂しい感情が湧いた。
「なんだ、私はいつもこんな甘え方をしているのか」
山の神が、人の子に姿をやつし、里に下りる際の制約や危険は、ごまんとある。しかし、そればかりに気を取られて、周囲に居て、暮らしの手助けをしてくれるミツキや岩沼、また社にいて、無事の帰りを祈ってくれているコハダや、人々の想いを、自分は、どれだけ汲み取れているのだろうか。
人と山神。対等と言うには異なるモノで、相応に異なった役割を負っている。それは、人に
しかし、こうして紛れるように人の間で、彼らの真似をして過ごすうちに、いったいどれだけの価値が自分に残され、また、"神頼み"という名の期待が掛けられているのだろうかと、姫は思う。
自分を、人の子のように思いなして笑ったり、彼らの用意した食事を摂ったり、眠ったり、たわいもないことで、心を躍らせることは、神においては、禁忌とする掟もあることを、姫は知っている。けれど、それは自らを裁くより他に、裁いてくれるもののいない神にとって、まるで甘い誘惑のようにも見える。
こうして神として、人の間にあって、無理をきかせることさえ、当然だという顔をして、彼らの綺麗な心を騙す様に生きてしまえるなら、本当に自分は、人に成れるのではないだろうか。
辿りついた考えに生じた、苦い矛盾。
姫は吐きかけた息をとめ、庭の緑を見やった。
膝に抱えた本の
日が暮れてしまう前の、焼けるような茜色が、夜の帳にしみ入るように、地平線へ落ちて行く。風の柔らかなこの季節は、山上では、いくら惜しんでも束の間に過ぎていくものを、ここではずっと長く感ぜられて、喜びも
行間の間に、意識が沈んで行こうとしたとき、ふと、呼び止められた。
「もしもし、ここで眠ってはいけませんよ神様」
曖昧な意識の狭間にも、どこかで聞いた声だったかと、頭を巡らす。そして、その記憶がないことを思い出すと、瞬時に我に返った。
「あぁ、良かった。危ないところでしたよ」
本を読んでいるうちに、ついつい眠ってしまっていた。
ふるっと身体を震わせ、周囲を見渡せば、冷えた藍色の大気の中に、すっぽりと収まっていた。かぐわしいほど充実した気の力を感じ、驚くほどの静けさだ。
どの方位にも、複雑かつ巧妙な守護の術が、その“指示式”が、張りめぐらされている。それは、一寸の無駄も無いほど重なりが無い上に、隙もない。
それはそれは見事なもので、姫は思わず、感心のため息をもらす。
自分を見下ろす青年の背は、まるで熊か何か、獣のように黒々と、巨大に見えた。だが彼の目は、きらきらと真夏の
姫は言葉を発しようとして、喉が、すっかり渇いていることに気づく。
「あぁ、今は話してはダメです。鬼が近くまで来ていたから、気をきかせて
島野と名乗った青年は、どさりと姫の左隣に腰を下ろす。いよいよ圧迫感のある存在のように、感じた。
「お節介だとは思うんです。通りがかっただけの男が言うのもなんです。でも」
青年はじっと姫の目を射るように見つめてくる。それは姫の周囲にある幾つもの層を、ものともせず、神聖な神の領域に素足で堂々と踏み入ってくるような、そんな圧倒的な力をもった視線だった。
「お前は…」
島野は、大きく瞬きをすると、姫の鼻先にくいっと、人差し指を立てる。
「神が、神の
強い風が吹き、翻弄される髪に手をやり、姫は島野をじっと見返す。
「そなたは我の為すことを止めよと、口出しをされるどこぞの神か」
島野は姫の問いかけに、ニコリと笑い、首を横に小さく振る。
「いいえ、滅相も無い。そんな大そうな役割も、使命も負ってはいません。ただ、僕にはいろんなことが分かってしまうし、出来てしまうから、つい口出しを」
「さてと」と言いつつ、島野はパンパンと自分の掌を打って、呪いを解いた。そして、ぐわりと立ち上がると、「はい」と言う体で、姫に手を差し出す。
姫はその手を取り、立ち上がる。だが、長い間、固いベンチに座っていたせいか、痺れた足の感覚が遠い。思わずよろめきそうになって、島野の太い腕につかまる。
「もし、お厭でなければ送りますが、僕のようなものが、呼ばれもしないのに現れると、面倒なこと、この上ないので、やめておきます。だからあなたの縁者を、呼ぶだけにしておきましょう」
そう言った島野は、天に向けて右腕を差し上げると、手首から先を、外側に折るように、コキコキと、曲げ伸ばしする。何かを招く動作に見えた。
そうして島野の腕に注視していると、突然、背後に気配を感じ、姫は振り返る。そこには、岩沼が立っていた。
「あれ、僕、トイレに行った帰りで、あれ?なんで姫様がいるの?」
上履きのままの岩沼は、突然なことに面食らっている。姫も動揺を隠せないまま、島野の方へもう一度向き直った。こんな真似は、もう神でも出来なくなっている。なのになぜ、この男は。
「あぁ、訝しんでますね。まぁ、当たり前か。僕はその、生まれが特殊で、本当の父も母も知らないんですけれど。"越境者"と俗に呼ばれてます」
島野は、ぽりぽりと頭を掻いて見せる。
「そこそこ、この界隈では有名人です。今日も仕事で、呼ばれた先の学校を探して、うろうろしてまして、ちょっとあなたの発する、危なげな気に引かれてしまったと言う訳で。どうかこのあたりで、失礼をさせていただきます。じゃあ」
島野はよいこらしょと、傍らの大きな包みを背負うと、姫の前を横切り、宵闇に遠ざかって行った。
大きく見えるその形は、不気味な靄に輪郭をかき消されたように、茫洋と広がって見え、彼の歩みに応じて、僅かに伸び縮みをしているようにも見える。その靄は、実体としてそこにあるせいか、月の落とす影を凌いで暗く、彼の形を、人ならざる曖昧さに、とどめ置いているようにも見えた。
『悔い改めよ…か』
姫はふと、自身の不鮮明な記憶の底に触れた気がした。神代の基準でも、古臭いと呼べるほどの太古の昔。あんな闇を纏っていたころは、神々も存在が確かで、秘跡の多少も、苦では無かったのだ。
深く息を吸い込むと、何ともしれない深い力のみなぎりに酔える気がした。
戸惑い顔で、島野を一緒に見送った岩沼に、声を掛けた。
「帰るか、岩沼」
「あっ、はい」
岩沼は、事態が飲み込めないながらも、次にすべきことは心得たようだ。彼の差し出した手を、自然と取る自分に驚いた姫は、くすりと笑う。
「な、何か?」
「いや、なんでもないよ」
緊張で汗ばんだ岩沼の掌は、あまりにも人間のものなのに、嫌とは想わないのが、不思議である。多少の気も狂おう。そう、あてられたのだ、島野という男に。
あんな化け物が、現世でも、平気でうろついているのならば、自分のような非力な神にも、何がしかの希望があろうというものだ。
「何か、おかしなことでもありましたか?」
靴を取りに戻りたいという岩沼に付き合って、明るい校舎の一角に向かって歩き出す。
「岩沼は、私が怖くないのか?」
「怖い?」
岩沼は、姫の手を握る力を弱めると、そうっと、悪びれた様子で、手を引っ込めた。
「姫様は、お優しい方だと、聞いています」
「優しい? 弱い、ではなくてか?」
「違います」
靴箱の前まで来ると、岩沼はそう言って、黙ってしまった。姫は言う。
「昔は、人が神を畏れて、子どもを供え物にした。だが今は、そんなこともない。それは神が弱くなったからだと、我は思う」
びくっと、分かりやすい動揺に固まった岩沼を、姫は、じっと首を傾げて、観察する。
人に勝る力を得るために、人を喰ったいつかの昔、その頃は、こんな迷いや疑問の中で、弱っていくとは思いもしなかった。
「安心しろ、岩沼。我にはもう、人を喰う気力など無い。冗談だ」
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