思い付き
―翌朝。
「婆やを呼んではくれまいか」
粥と茶だけという朝食の後で、姫はコハタに告げた。
「はぁ、それにしても突然ですね」
コハダは関心に満ちた眼差しを送りながら、姫が、いつしか人里の菓子を買いに行きたいと言った時のことを持ち出す。
「こんどはどんなお願いですの」
「少し込み入っていてな、相談というかなんというか」
「まぁまぁ、また私どもを困らせないでくださいな」
「そう…だな」
姫は、まだ眠たそうな瞼をこすり、ますます明るくなる障子に背を向ける。
「それにしても眩しい。たまらん」
「はいはい」
そういうと、コハダは姫の盆を持ち、奥へと下がる。
「ちょっと」
コハダが呼ぶと、そそくさと手伝い男がやってきて、姫の背後にあった衝立を襖の前に置く。
「これでよろしいか」
「あぁ構わない」
手伝い男の名前を姫は知らなかったが、こうした力仕事になると、すぐ呼ばれて出てくるところを見ると、コハダ達と変わらずこの屋敷で寝起きしているのかもしれない。
「では、お待ちくださいね、姫様」
コハダと手伝い男が消えると、しんと静かな緑の光が部屋に満ちる。
「はぁ」
姫は足を崩して、足袋の脚を投げ出すと、濃い翠の打掛を掛布団代わりに横たわる。
「眠い、あまりに眠い」
そう言うと、また浅い眠りに就いた。
ふと気づくと、姫は夢の中に落ちていた。あたりは光一つ無いが、そのせいでひどく落ち着いた。
それは見慣れた夜の闇。ただ嬉しくて駆けると、足の裏は柔らかな土を踏む。慣れた斜面と谷底をいくつも駆け抜け、そうして自分がどこへ向かうのか、ふと疑問に思い、立ち止まる。
『ここは我の山だから。私の腕であり、胴であり、脚であり、心だから』
誰に言うでもない、自分自身に言い聞かせるように言葉にすると、走ってきた背後を振り返る。
すると来た道には、蛍のような淡い光が溢れていた。
『我は与うるもの、富ますもの。そしてありて在るもの』
使い古されたフレーズのようなレゾンデートル。姫は卑屈な笑いを浮かべる。
「―そうか」
自分のものでは無い、男の声がして見上げると、そこには黄金色に輝く両の目が、じっと自分を見下ろしていた。
「―おまえはそんなところにいるのか」
見えない闇の中からまっすぐ腕が伸びてきて、自分を捕まえようとするのを、姫はじっと見ている。
『もし本当に我を捉えたいのなら、やってみればいい』
その腕が、ぐわりと姫の肩口を掴んだその途端、胞子が散るように光がはじける。そして一度はじけた像が、また離れたところにぼんやりと集まると、姫の声で、からからと笑い声を上げた。
『易くはないな。だが、鬼なら出来るやもしれん』
「―ふん」
鬼の気配が一瞬強まり、また、去っていくのを感じた。姫はゆっくりと、夢から覚醒する。瞬きをし、畳の上に伸びた自身の小さな手と、細い腕を見つめた。
「婆や」
姫が呼ぶと、襖がすっと僅かに開いて、婆やの白い頭が覗いた。
「姫様が、お目覚めになるのを待っておりました」
婆やが、頭を床に着けたまま上げようとしないので、姫はそのままで話をすることにした。
「そなたらは我のお目付け役であり、守護者であると分かっている。だが、それを承知で、我を人里に、僅かばかりでいい、置いてはくれんか」
しばらくの沈黙ののち、やはりそのままの姿勢で、婆やは応えた。
「それは、姫様のお考えがあってのことと存じますから、私どもはそれをどうにか叶えて差し上げとうございます」
「そうか」
姫は、起き上がり、膝を正した。それに伴ってさらさらと黒髪が渦巻き、しなやかに白の寝間着姿の姫の肩を包んだ。
「婆や」
「はあ」
「我は恐ろしいか?」
婆やは応えなかった。しかしそれは沈黙の肯定であった。
姫が幼い頃から、婆やは最も遠いところから姫を見ていた。まるでその距離が絶対の正しさのように、聖域のように、だ。
婆やの、その実直すぎるところは、仕方のないものであると感じた。姫がいまの身体を帯びる前から此処にいて、何がしかの後悔と、罪悪感の中で仕えているのだ。
「婆や、そなたのせいではないからな」
婆やはそれ以上何も答えず、ただ深々と、さらに床に頭を付けるようにして、襖の向こうに消えた。
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