童心
「まぁまあ、姫様、また裸足でどこへ行ってらしたんですか」
気遣わしげに彼女の帰宅を迎えた女性は、控えめな浅緑の紬に、黒髪をゆるやかにまとめている。
「あぁ、コハダか、すまないな、心配をかけて」
「いいえ、姫様がご無事ならいいんですの」
そう言いつつ、コハダは手にしたおしぼりで、少女の土に汚れた足をふく。"姫" は、コハダの肩に軽く手を置き、為されるがままだ。
「本当に姫様の足は、白くて白くて…」
コハダは、そう言って膝の上に載った小さな足に、満足げな嘆息をもらす。少女は、ややうんざりしたような目で、彼女を見下ろした。
「もう、いいか」
「えぇ、もうよろしいですわ」
姫と呼ばれた、この小柄な少女は、齢は大きくて、十をこえたくらいにしか見えない。ただ、その大人びた美貌は、幼い背格好に反して整い、どうにも人間離れしている。
じっさい、彼女は人では無く、この山の神だった。そんな姫の麗しさたるや、煌々たる日の光のもとでも陰りが無く、人も獣も、出逢ってしまえば、みな足を止めて、放心するほどである。
そのせいか昼間の間、姫は、光を嫌って自室にこもり、夜になると、気晴らしに月明かりを求め、山中に彷徨い出てゆく。
お付の者が慌てて探すが、見つかったためしなどない。静かに夕餉の箸をおいたかと思えば、毎度、風のように姿を消す彼女は、やはり特別な存在であった。
「お湯の支度が出来ておりますが、入られますか?」
「いや、今日は」
姫は、コハダに代わってやってきたミツキを見上げ、悪巧みをしているかのような笑みを浮かべて言った。
「今日は、鬼どもが見ているかもしれんからな」
「はぁ、鬼ですか」
短く耳の下で髪をそろえたミツキは、昼間は高校に通う、"巫女ならい" である。世間の事情にも、詳しい。とくに外界との接触が少ない姫にとっては、貴重な存在である。
「姫様は、危ないことがお好きだから、鬼くらいどうにかされるでしょう。それよりも」
ミツキは、姫のほっそりとした肩を、上からそっと抱きしめるようにして、言った。
「今日こそ、ホラー映画の鑑賞をしましょうね」
「あぁ、考えておく」
姫はそう言いつつ、掴まえ損ねた蝶のように、するりとミツキの腕をかわすと、逃げるように、湯屋に続く廊下の左へ、姿を消す。
「もう、姫様の怖がり」
ミツキは、行き場の無くなった腕を、ばたばたと不満そうに振ったが、しょうがないかと、溜息を一つこぼし、唯一、テレビのある部屋へ戻っていく。コハダは、姫の着替えを抱えて戻り、遠目にミツキの様子を、困ったような笑みを浮かべて見送る。
「なぜああも、人の作ったものは薄気味悪いのか」
一度ミツキに見せられた怪奇映画というものを思い出して、姫は身震いする。
「姫様は、映画がお嫌いでしたか」
コハダが尋ねると、姫はこくんと頷き、湯屋の入り口、暖簾の端をつまんだ。ミツキのせいで気が変わったのだ。コハダも後に付いて行く。
自慢の流れるような黒髪は、自然と床をなでることも、風に絡まることも無く、彼女の腕の中に収まる。そうしてこなれた動作一つ、輪ゴム一つで、頭上の小さな "団子" になった。
無造作に脱がれた着物は、コハダが拾い上げ、大きな衣桁の上に静かに広げられた。
「皺になると、ヨミがうるさいからな」
姫の言葉に、コハダは笑みを返し、礼をして部屋を出ていく。姫は、白の内衣一枚に、絹の手拭いを持つと、とことこと歩き、ガラス戸を開けた。
すうっと息を吸い、ゆっくりと、吐き出す。夜の冷気と、温泉の湯気が混じりあった生温かな空気に、肺がなじむまで、姫は深呼吸を繰り返した。そうしてまた、ひとりきりの、湯浴みの時間を楽しむ。
澄み渡った濃紺の空には、輪郭のはっきりとした月が、甘いような黄色に色づいている。
「よい香りだ」
昨晩から咲きはじめた木犀の香りか、それとも先程まで居た竹林の若草の香りか、それとも、あの血生臭い、鬼どもに混じって香った“高貴”の香りか。
姫は、自身の山中に鬼どもの巣があることも、それがどんな悪さをしているかも、余所の山神たちの話に聞き、知っていた。
まるで、蜂の巣のように迷惑がられる『鬼』というものの顔を見てみようと足を運んだ先で見たのは、なかなか人の間では見ないほど淫靡で、かつ、至上に美しい姿の鬼だった。
どうやらそいつは、同じころ自分の存在を知ったようで、今日などはわざわざ人里近くまで仲間を連れてきていたものだから、悪戯心が刺激された。
「にしても…どうするか」
あそこまで近づいてきたところを見ると、早晩、この屋敷の囲いも破られるやもしれない。そうなると、自分はともかく、コハダなどの侍従たちや、人里から通ってきているミツキなどが、困るだろう。昨秋に植えたばかりの若い桃の木や、馬なども被害に遭うのではないかと思うと、気が滅入った。
「ままならんな、隠れて住んでいれば平和、ともいかないか」
姫は、岩陰の向こうにの不穏な気配を感じつつ、白く霞む闇の向こうに思いをはせた。
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