高山テキスタイル株式会社 -パワーハラスメント-

 月末が近づくと、いつものように外注のトレースの上がり日はどうだ。前倒しで出来ないのか、なんで納期に合わせられないのかとトレース室に矢の催促が飛んでくる。

 トレース室の責任者はもちろん豪であり、その対応まで委ねられている、普通。そして月末の締めに合わせてどれだけ売り上げが上げられるかとヤキモキさせているのは豪の母靖子だ。しかし、一人息子を溺愛するあまりにすべてを甘く育て、降りかかる災いはすべて我が身が楯となり、息子の命には一切逆らわず、また一切の口出しをしなかった。表向きは。

 バカを操るには指示はいらない。煽て宥め賺せてレールの上を歩ませればいい。靖子の豪の育て方はそうであった。息子を叱りつけずに売り上げを伸ばす方法、それは半ばマス夫さん然の博隆を使う事である。

 写真型の会社を独立して立ち上げたとはいえ、靖子の弟雅樹の梅津テキスタイル株式会社の暖簾分けのような立場である。ましてや博隆には他に頼る親族や友人もなく、老後の面倒を見てもらえるのは靖子しかいない。その靖子から売り上げを上げろと命ぜられれば従わざるを得ない。かと言って会社の心臓部を担う息子の豪へ強く当たると豪から靖子へ告げ口が飛び、靖子から博隆へ逆鱗が落ちるのだ。若嫁真理子はすでに敵側にあり、家庭で安らぐ居場所がなくなっては堪らない。

 そんな博隆が唯一安らげるのが豊美との時間であり、豊美のいるところに社長ありと社員からは笑いの種ともなっていた。金魚の糞の如く豊美について回っては、わざわざ折りたたみいすを持ってきてまで家庭内の愚痴を吐き、時には若いころの武勇伝、知ったつもりの世間話で少しでも家にいる時間を減らすのだ。その社長の迷言の一つが「仕事中の無駄話を慎む」であり、私語はミスを誘発すると豪語するが、周りからは死後に自らを誘発してもらいたいと冗談とも本気とも嘲るのであった。

 長い就業期間ですっかり高山家に関わり過ぎてしまった豊美は、すでに泥沼に足を付けている事に気付くことなく、博隆のいい茶飲み友達であり、靖子の小間使いであり、豪の捌け口であった。

 人は長い期間洗脳を続けられると、今自分が辛い立場に立たされている事に麻痺してしまうようで、また辛い自分から現実逃避すべく希望的楽観な思考に陥るようだ。豊美の場合に限るだけかもしれないが。

「松永さん、ちょっとトレース室行ってきて仕事の上がりを聞いてきてくれ。納期前倒しでやってもらわんと売り上げがあがらんぞ」

 いつも午後の仕事までの時間潰しに豊美と博隆は椅子を並べて話しているのだが、今日は違う。樹脂場に乗り込んだ博隆の顔は、意思を貫き通す覚悟とばかりに眉間にしわを寄せ、豊美を睨みつけるように言い放った。博隆は一番言いやすい逆らわない人間にだけ強い。靖子からの指令を豊美から豪へ言わせる算段だ。

「えー社長、自分で言って下さいよ。豪ちゃん私が言うとすぐに怒りよんやもん」

 これまでにも散々社長の伝言役で豪と何度も遣り合ってるだけに、豊美も二つ返事とはいかずに応戦する。

「そんなもん関係あらへん。事務職っちゅうのは会社の売り上げに関わる大事な仕事なんやさかい、ワシよりもあんたが言うのが一番効果あるんや、遠慮せんと言うたったらええ」

 一体どの国の常識をぶら下げているのか、単なるパワーハラスメントである。しかし長年の強要が当たり前の常識として刷り込まれた豊美は訴えるなどと言う発想が出てこない。否応なく従うのだ。

 豊美はトレース室の裏口から入って来るなり、

「ちょっと、今月あと幾つトレース上がるか分る? 前倒ししてちょっとでも月末までに放り込んでくれって社長が言うて来てるんやけど」

 怪訝そうな声で聞いてきた。

 この言葉を何度も聞いてきた篤郎は、小さく憤りを覚えるが、納期のスケジュール管理は豪の仕事である。チラッと豊美を一瞥するとすぐにモニタに向かって作業を続けた。左横の栞里は、人差し指で豪の方向を突く手振りで豊美に合図を送った。

「豪ちゃん? 納期の進捗どうなってるん?

 栞里の手振りに気付いた豊美は名指しで豪を呼んだ。

「俺に言ってんの? ちょっとわからへんなぁ」

 顔を向けることもせずに豪はモニタを眺めながら返事した。

 検修中は図案との間違い探しだけでなく、少し型枠がズレても染色のはみ出しや白場と言って色と色の隙間が出ないように掛け合わせという技術を用いるのだが、それが忘れずに出来ているかなど細かな確認があり、集中力を必要とする。

 普通の人間であれば、目通しが出来ればキリを付けることができ、途中で手を止めることも可能だが、豪はそれが出来ない。一つの事をやり始めたら終わるまで次に掛かれない。そして、手を止められると瞬時に血が上り苛立ちを見せるのだ。そして何より自分が監督責任者である事を理解していなかった。

「朴ちゃんとこ電話してちょっと聞いてくれへん? 細見さんとこは何柄行ってるん? あとどれだけ着くかもわからへんと二部制にせならんかも決められへんやん」

 呆れかえって豊美は声を荒らげると、台帳を自分の事務机に広げ、型番ごとの納期や枚数の確認をし始めた。

「ちょっと待って松永さん! なんやその言い方は!」

 豪は突如椅子から立ち上がると猛然と豊美の席へと歩み寄った。

「俺に電話して聞けってか? 聞くよ、いくらでも電話なんかしたるわいな。それで明日仕上げてくださいねってそんな簡単なもんやないんや、トレースは。難しい柄もあんねんって。いいですか、一回しか言いませんよ、よー聞いて下さいよ。僕らが一生懸命検修して、送り返して、直してもらって、してもらっとるんですわ。いつできますかーって聞いていついつですって言われたら待つしかないでしょ」

 豪は椅子に座る豊美の目線まで腰を曲げ、手を腰に当てて一気に捲し立てる。

「今日上がるって言われても午前になるかなー、午後になるかなーって僕らは待つしかないんですよ。来ても検修じゃ直しじゃですぐに下せるとも限らんし、ここの管理は大変なんですわ!」

「でもどれくらい月末までに下ろせそうとか見込みは分るんと違うん? ねぇ仲瀬さん」

 豊美は血走った豪の目線をどうにか避けながら仲瀬に援護を求めた。その間も豪の顔は目の前に差し出されている状態だ。

「まーいくつかサンプルや完成前データが届いてる分については目安は立ちますし、あとは外注に進捗を確認する事で大体の数は把握できると違いますかね。納期を早めて完成させるって言うのは元々それだけの納期が必要だろうって概算で出された日数なんで、それは出来たらラッキー程度で見てもらう方がいいと思いますよ、ですよね、豪さん」

 トレースの納期を把握できるのは実際に描いてるトレーサーでなければ分からないことは篤郎が誰よりも知っている。順調に進めていたはずが大きな手違いで一からやり直す事もあれば、難しいと思っていた描画が試行錯誤で編み出した手法で予定の半分で仕上がる事もある。自分ならこれくらいの納期かなと思っていたのが人によっては倍ほど掛かることもあれば数日で終わらせる事もある。なのでマメな進捗確認が必要となるのだが、豪に全体を管理する能力がない事は何よりも知っている。

「そうやな、仲瀬さんが言うた通りやわ。ある程度の数は出せると思うけど、進捗を確認するんは松永さんが電話して聞いてくれるか?」

 豊美にも豪にも援護射撃を撃つと、豪はようやく怒りを収め、父博隆よろしく面倒は豊美任せとばかりに急にへつらう様に豊美に頼み込んだ。

「それは豪ちゃんやってよ、私が納期聞いてもトレースの事分からへんのになんて応えるんやな」

「やんね。それは豪さんの仕事やわ」

 豊美が正当に拒絶した事で豪がまた言い返すのを阻止すべく、篤郎は間髪入れずに合いの手を打った。

 二人に言い負かされた上に進捗確認の作業まで押し付けられたことに、豪は機嫌の悪さを全身でアピールしながら自分の席に戻ると、立ったままの姿勢で篤郎を見下ろし、吐き捨てるように言い放った。

「PTは僕が電話しますんで、細見には仲瀬さんが聞いてもらえますか?」

「なんで僕が? そういう管理は豪さんの仕事でしょ」

「豪さんの仕事、豪さんの仕事ってここは会社です。みんなで協力するのが当たり前でしょ」

「分かってますよ、それくらい。僕普段自社トレースして、みんなが出来ないややこしい修正や指図書いて、豪さんのわからない図案の確認を紀ノ川や船越に電話で聞いてしてる間、検修ない時の豪さん何してはります?インターネット見て遊んではりますやん。その時間に進捗確認やってればすんだ話でしょ? それをここぞとばかりに協力って言わはるんでしたら、僕が定時すぎて仕事してる時、一緒に残ってくれはった事ないですやん?」

「僕はトレースできる人として仲瀬さんに来てもらったんです。トレースしてもらって当たり前やろ」

「そうですよ。だったら納期管理するのは経営者の仕事で当たり前ですやん」

 先ほど豊美にやった顔を近づけてくる行為を篤郎にも披露する豪に、理路整然と言い負かすいつもの篤郎に栞里は笑いを堪え、豊美はハラハラするばかりである。

 豪は何かを言い返そうとするが何を言っても勝てる気がしないどころか劣勢の一途である。

「とりあえず、こんなバカな事言い合ってる間にも納期確認できるんですし、豪さんがいっぱいいっぱいで無理やったらなんぼでも電話はしますけど。時間がもったいないですわ」

 いつまでもおっさんが顔を近づけて見つめられる事に耐性のない篤郎は、いつもの懐柔案を出してあとは判断を委ねて自分の仕事に戻り、すぐ横にある豪の顔を無視する事にした。

 しばらくそのままの姿勢で黙ったままの豪がようやく自分の椅子に座った気配を感じた刹那

「そしたら細見さんとこだけ、納期確認お願いしますわ」

「はーい」

 毎度ながら阿保らしくてやってられない。そんな生返事で篤郎は席を立つと、豊美の事務机の横にある電話機に向かった。

「松永さん、そしたらPTと細見さんとこの納期聞いてまたどれくらいできそうか言うし、仕事戻ってもらったらいいですよ」

「ありがとうね、仲瀬さん。そしたら豪ちゃんもお願いね」

 豊美自身、樹脂場に戻ると結果報告を待つ駄々っ子の博隆が待っている。少なくとも怒られずにする報告は出来そうだと安堵してトレース室を出て行った。

 篤郎は受話器を上げて細見トレースの電話番号を書いた一覧表を眺めながら、この一件の主犯が靖子だろうと推測しながら今度の対策を練るのであった。

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