なんでこんな山奥に会社を建てたんだろう、しかもこの坂道。家から会社までずーっと登りではないかと安浦朋弥は自転車で立ち漕ぎするのも諦め、乗るには楽だが押すには厄介でしかない自転車のサドルに体をもたれる様に被せ、竹林の奥へと続く坂道を歩きながら一人ごちた。
 六月半ば、年々気温が上昇してくるのでこの時期と言えどすでに夏である。額一面に噴出した汗をブラウスの首元に引っ掛けたハンカチで拭うも、次の瞬間には同じ毛穴から噴き出す。背中にべったり染み込んだ汗が気持ち悪く、今度の給料こそ電気自転車を買おうかなと思うのだが、ついつい贅沢品に思えて諦めるのだ。朋弥は車の免許証は持っているものの家に一台の車は夫が通勤で使っている。原付バイクはそれこそ高嶺の花、ならばやっぱりこうして重い自転車を押して上がらねばならないのか。
 いつまで続けるんだろう? ふと朋弥はそんな事を考えた。長く周りからはスナック部屋と呼ばれたトレース室も最後のレジェンド柿谷優紀子が辞めて久しい。昼休みはトレース室の床にシートを敷いて昼寝時間が半強制的に設けられ、三時になると中央のガラステーブルいっぱいにお菓子が並べられ、仕事そっちのけの休憩時間がこれまた半ば強制的に行われていた。これがレジェンドたちが築き上げたスナック部屋と呼ばれた所以である。
 スナック部屋の女性陣に下ネタでしか笑わせる事の出来なかった豪は優越に浸りながらも、現場が忙しい最中であっても仕事の手を止め休憩に入るこの行為だけは憤りを感じていた。しかし多勢に無勢で自ら動くことはせず、母靖子へ苦情とも愚痴ともいえる相談をした結果、トレース室の貢献者吉富知加子を筆頭に、また一人と「諸事情」の下、会社を去っていった。
 絵を描くことが好きで、実際同人漫画を執筆してコミックマーケットへ出品もしている朋弥は、美術系学校の卒業資格を持ち、求人広告の条件に書かれていた美術系経験者優遇を見て応募した。ファッション系の会社ですと面接をした豪に説明を受けたが、入ってみると衣料関係の図案も扱っているので無いとは言えないまでも、いや無いだろうと朋弥は思った。しかし豪はファッション系業種といまだ信じているようなので悪意があったのではないだけにやり切れない。
 そんなこんなを回想しているとようやく会社の門に辿り着いた。
「おはよう~!」
 目敏く門の前に姿を見せたのと同時に、枠掃除の手を止めて桃井正造が朋弥に手を振っている。桃井は取引先で預かってきた廃枠と呼ばれる経過年数が経ち再利用する事のなくなった枠から、樹脂の塗られた紗を剥がす作業を行っていた。ボンドで張られた紗は手で簡単に剥がすことができないため、面取りかんなで張り面の紗の剥がれカスやボンドを削り落とす。結構な体力と握力を使うのだが、定年退職後、シルバー派遣で雇われた桃井はひょうひょうとこなし、あまつさえ大好きな朋弥の出勤時間を今か今かと待ち構えていたのである。
「ももちゃん、おはようございます」
 今度は自転車が転がり落ちないようにブレーキを握りながら駐車場の坂を下りながら朋弥が答える。
「今日もいい天気や、昼一緒に屋上で食べようか」
「仕事の出来具合で上がりますね」
 昼食を配達の弁当で済ませる桃井は、朋弥の出勤日に毎回屋上に誘う。朋弥も特に迷惑とも思わず付き合いのだからどうしても桃井は勘違いしてしまうのである。
 駐車場の坂を下りたところにあるごみ捨て場の横に自転車を停め、桃井に手を振りながら声援を送るとトレース室への階段に向かった。
「おはようございます、はぁ」
 トレース室に入るなり挨拶とようやくゴールとばかりにため息を吐いた。トレース室の面々が挨拶を交わすと、
「はぁ、暑い暑い、もうすっかり夏ですねぇ」
 と自分の椅子に座るなり、デスクに置かれたうちわを持って大きく張った胸元のブラウスの隙間から風を送り込んだ。十時からの勤務の朋弥がトレース室に入ってきたのは四十五分、坂道での疲労回復時間を見越しての早目の入室だが、すでに九時から仕事を始めている篤郎たちには一瞬にして張り詰めた空気が溶けてしまう。それほどひっ迫する程の仕事量をこなしていたわけではないのだが。
「やすうらぁ~、早く電動自転車買えばいいのに。さすがにしんどいやろ?」
 栞里はペンの手を止めると、朋弥にブラウスからの露出を止めるように無言で手振りしてみせた。朋弥はどうもその辺が無頓着らしい。あっとばかりに団扇で仰ぐのを止めると、ハンカチを額の汗に押し当てた。
「電気自転車いいですよ。ここの坂道くらいだったら余裕で漕げますよ。十万円程しますけどね」
 篤郎は具体的な金額で補足を入れる。篤郎の家も丘の上に建っており、向かいの家族が電気自転車を買っているのを羨ましく思っていたのでついと口が出る。
「えーでもそんな大金、稼ぎに来てるか支払いに来てるか分からなくなるじゃないですか」
 十万円と金額に呆れて朋弥が声を上げる。
「たしかに。でも、いい仕事するために道具を買い揃えるって基本じゃないですか。それと一緒じゃないですか。ねぇ、豪さん?」
 場を和ませようと豪も会話に引き込もうと篤郎が振ると、
「え? あ、そうやな。安浦さんも毎回あの坂道を自転車押して上がってくるのも大変やねぇ」
 聞いていたのか聞いていないのか、いや、モニタはいつものインターネットのブラウズ画面。どれだけモニタに集中していたのだろうと篤郎は思うが、これが下ネタであればすぐさま食いつく豪をこれまでに何度も見てきたし、そのたびに苦笑いで場が凍り付くのの何度も見てきた。
 豪は聞きながら取捨選択し、興味のあるものには常に対応出来るよう心構えをし、興味の無いものには聞こえない振りではなく、本気で聞こえていないようだ。
「豪さん、道具の話ですよ。やっぱり仕事をきちっとするには道具も揃えないとですよね。インクジェット然り、大判プリンタ然り。あ、そういえば韓国のPTってパソコン何を使ってるんですかね?」
 急に思い出して篤郎が聞いた。
 ウインドウズパソコンとマッキントッシュパソコンではファイルの互換性に問題があったり、フォトショップのバージョンの違いでも開くファイルと開かないファイルもある。これまでに問題は発生しなかったのかと疑問に感じたが、どう対処していたのだろうか、と。
「たしか会社立ち上げた時はマックやったんで、今もマックやと思いますよ。うちも最初はマックやったんやけど、金が掛かるからって梅津がウインドウズに替えた時に一緒に替えたんですわ。」
「梅津……?」
「ああ、うちのお袋の親戚の会社ですわ。そこも同じ写真型の会社やってて、いろいろ教えてもらっとったんですわ」
「そうなんですか、梅津さんもそしたら今もフォトショップ5なんでしょうね」
「今はどうやろ、ちょっとその辺の詳しいことは僕わからへんわ……」
「まぁ他所はいいんですけど、PTが何使ってるかも知っとかないと図案ファイル送る際にも今後気を付ける必要がありますね」
 コピー品のルーツが分かったような気がした篤郎は、そのことには触れず性急の問題点を指摘した。
「今まで大丈夫やったのに、急にあかんなるよるか?」
 豪の口調は変動的で、通常時は篤郎に対して丁寧語だが、気持ちが昂り始めると普通語になる。さらに険のある物言いとなり、相手を傷つけるというよりは自分の身を守ろうと構えにはいる。
「今会社のパソコンはフォトショップのバージョンがすべてCS3になってます。大きく異なるのはレイヤーの扱いが大きく変わっているので図案によっては開かなくなりますよ」
「じゃあ元のバージョンに戻してくださいよ、前の方が使い勝手良かったですわ。パターンも使えなくなったし」
「え、今更ですか? その機能を捨てても有り余る利点が増えたって皆喜んでたじゃないですか。TIFファイルも読み込めるし、全体の速度も上がったし、なにより今後受注の図案データそのものが新しいバージョンで作られたもので渡されたらどうやって開くんですか? 実際デザイナーは新しいバージョンで作りますからその都度対応していかないとダメなんですよ」
「そんなん今まで見たことないわ」
「今までは、ね。今後の話をしてるんです。来てからでは遅いでしょ。これは僕らだけじゃなく、外注のトレーサさん皆に言える事なんですよ」
「とりあえず、今はわしのだけでいいから前のバージョンに戻して下さい。PTとやり取り出来なくなったら大変ですわ」
「……わかりました。ちょっと退いてもらえますか。すぐに戻します」
 もうこれ以上は言うだけ無駄だと判断し、一度痛い目に遭わせるのが早いと豪のデスクを陣取ると、慣れた手つきでソフトウエアのアンインストールと、再インストールをさらっと済ませた。
「はい、これで元通りです」
 篤郎が席を立つと、横で黙ってみていた豪は元の席に戻ると、ようやく失くした玩具を取り戻したように嬉々として設定を始めた。
 やるせない気持ちで仕事に戻った篤郎に、横の栞里が顔の前で手を振り「ほっとけ」とばかりに合図した。

 夕刻五時半に近づくと、朋弥は引継ぎを栞里に託して帰り仕立てを始めた。あともう半時間で終業時刻と言うのにその手前で帰るのは、夫の帰りに合わせて夕飯の準備をするギリギリの時間なのである。
「それではお先に失礼します。お疲れ様です」
 朋弥はぺこりと頭を下げてトレース室を出た。今日も急変する豪を見た。怒りにも悲しみにも似たあの表情を見るのは何度目だろう。いつもレジェンドに理詰めされては紅潮させていた豪、その捌け口となるのはいつも事務の松永豊美や外注のPTの朴社長など立場の弱い者たちだった。豪の父博隆も仕事の失敗には寛容が無く、辞めた優紀子の計算ミスによる大失敗に対して鬼の形相で怒鳴り散らし、横で聞いていた自分が涙したほどだった。
 一時は多くの仲間がいたスナック部屋も、気が付けば自分が最後になっていた。栞里は後から入ったパートでありながらも年上でしっかりしている。趣味を実業にと夢見て勤めた会社であったが、実際にペンを持っても絵を描くのではなく、他人が書いた白黒だけのトレース画が正確に描かれているか、掛け合わせと呼ばれる処理が出来ているかなどの検収の繰り返しだけだった。
 出張は多いが実入りの少ない夫に弁当を頼まれると一回五百円とまで言ってのける生活で、私みたいなのほほんとした性格で次の仕事が見つかるかしら? と自らの性格を踏まえて分析し、なんだかんだとここは水に合うと言い聞かせた。
 帰宅への道のりは、ほとんど漕がずに家まで到着できるほど快適だったので、朋弥のもやもやした気持ちはどこへやら、
「きゃー!」
 日暮れの冷たい風を額に受けながら、黄色い叫び声を上げるのだった。