2.



「いいかげん、兄にちょっかい出すのはやめてもらえませんか」


 私はアパートの玄関先に佇む、黒い影に向かって言い放った。

 途端に、それまでぞわぞわと渦を巻くように不定形を保っていた影は次第にその輪郭をはっきりさせていき――やがて人の姿と分かるまでになる。

 気づくとそこには、三十代後半くらいの楚々とした女性が立っていた。

 

「あら。ちょっかいだなんてそんな……」


 おっとりと言う彼女はこのアパートの管理人。

 園田そのたさん、と呼ばれる例の人物である。


 その右手にはやや長めの竹箒が握られている。

 いかにもいま掃除の最中であったと言わんばかりの風貌だった。



                  *



「何度でも言いますよ。それに人間側に干渉し過ぎるなと、権現様からもお達しがあったというじゃないですか」

六万坊ろくまんぼう権現様ですか? それは言われましたけども……」


 と言いながら、園田さんは視線を庭の松の木へと向ける。

 六万坊大権現はこの地域一帯の魔の元締めをしている大天狗おおてんぐであった。

 往昔は人々から広く信仰を誇り、今でも市内寺社や祠各所にその足跡を残す。



                  *



「ですけど、こうして祠をお祀りして、の下界でのお休み処としてのお役目、というのもこのアパートは果たしておりますし……」

「それでお目こぼしをもらっていると」

「ううん……、そう言われてしまうと心苦しいのですが……」


 私の追及に彼女は言葉を詰まらせる。

 もうひと押し。

 私がそう思ったとき――、


「――なんだね暮樫くれがしの小娘。そう責めるものでもないだろう」


 と、背後から声がかかる。



                  *



 振り返って見れば、少女が立っていた。


 上下を漆黒の衣に身を包んだその少女は、いわゆるゴスロリファッションと呼ばれる服装だ。

 そして過剰に巻き上げられた頭髪の隙間から覗くのはぴょこんとした――、


 


 少女は黒い日傘を差し、涼しげな顔でこちらを見据えている。


庵主あんしゅ様……おひとりで出てくるなんてめずらしいですね」

「なに、わしにだってそういう日もあるよ」


 彼女はお道化て答える。



                  *



 このゴスロリ少女、可愛らしい外見をしているが、そのじつ数百年の時を生きる化け猫である。ここのアパートの一室にいおりを構え、滅多に外へは出てこない。


 悠悠自適の暮らしを続ける趣味人であり、通称、

 元は普通の猫だったらしく、兄には化け猫になる前の、現実と地続きの姿が見えているということだが……。



                  *



「しかしな、或人あるとの坊はわしのことに微塵も気づかんもんなあ。妹のほうはこんなにも目ざといというのに……」

「目ざといとか言わないでください」

「……あざとい?」

「あざとくもないです」

「怪異にやたら目が利くのは確かであろ」

「それは……そういう体質なんです」

「メアリーの奴も怖がっておったぞ? そのうちお前にバラバラにされてしまうのではないか、と」

「……兄に余計なことをしなければ、私だって何もしませんよ」


 メアリー、というのはこのアパートの一階に住む西洋人形のことだ。

 現在、先代アヤコ人形の後継として呪いの依代よりしろの座に収まっている。



                  *



「というか、庵主様も兄のこと、かなり気にかけているみたいじゃないですか」

「わしは……そうだのう。或人の坊には何かこう、惹きつけられるところがある、と言えばそうかもしれんなあ」

「兄に何かあるのですか……?」

「……」

「庵主様?」

「にゃーん」

「にゃーんじゃないです」

「なんじゃい、ノリが悪いやっちゃの」


 庵主様はやれやれと肩をすくめる。


「あらあら、楽しそうですね」


 と、管理人の彼女までが加わってくる。

 何も楽しくはない。



                  *



「こうして話していると……、或人君がはじめてうちのアパートに来た日のことを思い出してしまいますね」


 園田さんがぽつりと呟く。


「私の姿が見えていないのにちゃんと挨拶してくれて……あんな子は今までいませんでしたよ」

「わしもあの日は久しぶりに外に出ようとして、うっかり坊の頭の上に乗ってしまったのだが……それを邪険にせずに扱ってくれてなあ」

「そうそう。ずっと乗っていましたよね、庵主様」

「変な小僧だよ、まったく」


 何か兄の話題で盛り上がっている人外二名。

 どうにも不愉快だった。



                  *



「でも枯樫かれがしさんからアパートの窓を全部閉めておいてくれって頼まれたときは何事かと思いましたけども……あれもあの人の術のうちだったのですねえ」


 園田さんはひどく感心した様子で言う。


「ありゃあやり過ぎだろうてとわしは言ったのだがな」

「あら、そうだったのですか?」

「ろくに力もない奴が小賢しい真似をしよることだよ」


 庵主様はそう言い捨て、くはあぁと欠伸をした。



                  *



 兄が不気味に感じたという暗がりの廊下。

 あれは枯樫の彼によるだったのだという。


 全ての窓を閉め切り、照明を落とし、兄が視えないと知っていながらわざと怪しい素振りをして見せる……。そうすることで〝妖怪屋敷〟をより際立たせることができる――そう考えたようだ。


 そこまでするか。


「あ、でも枯樫さんはすごいのですよ? あの或人君をして『なんか不穏な感じがする』とまで思わしめたのですから。ただ話術だけしか使っていないのに……なかなかできることではありません」

「……それ、褒めてるんですか」



                  *



 カタリヤ不動産社長、枯樫塙四郎はなしろう


 彼は垂樫たれがし厥樫それがし禍樫かがし……と並ぶ暮樫家分家筋のひとつ「枯樫家」の末裔に当たる。いわば暮樫一族の末端の末端に位置する者、それが彼である。


 そして末端ゆえに、暮樫本家の人間が持つような超越的な呪術能力に、彼はほとんど恵まれることがなかった。

 しかし枯樫家の本領は――卓越したその「語り」の術にこそある。



                  *



 枯樫家に受け継がれる特殊な話術。

 その術中に囚われた者はまるで本物の怪異に遭ったかのように錯覚し、ときに自我喪失にまで陥る。それは下手な呪術よりも危険であるのだと伝え聞く。


 ゆえに、〝かた〟の枯樫家。


 だが例によってその驚異的な語りの術をしても、我が兄の鈍感さの前にはさほどの効果を発揮し得なかったようだけれど。



                  *



「しかしお前さんらの叔父上も悪趣味なことをなさることよなぁー」


 ゴスロリ化け猫少女が間延びした声で言う。

 フリルレースの黒傘がくるくると回っていた。


「まあ、叔父が悪趣味なのは私も認めますけども」

「だろだろ? ありゃあ反感も持たれて当然だろうて」


 反論できない。



                  *



 兄がはじめてこのアパートを訪れたあの日。

 叔父はあえて兄一人を枯樫の彼のもとへと向かわせた。

 そうすることで本家側から分家を(と言うよりも今回は枯樫塙四郎個人を)牽制する――そういった意図を含んでいたそうだ。



                  *



 枯樫家は暮樫の山里から町に下って久しいという。

 今は本家との繋がりも薄く、他家に比べ直接顔を合わせることも稀である。


『或人君に世間を知ってもらう取っ掛かりとしては、枯樫の彼は適任だと思ったけどねえ――手っ取り早くて』


 そんなことを、叔父は言っていた。

 つねに黒幕を演じていないと気が済まないらしい。



                  *



「そんなことより――」


 私は管理人の彼女をきっと睨む。


「人間の目を欺いて、巧妙に業界に溶け込んで……いったい何者なんですか、あなたは」

「あら、私が何者かだなんて言われても……すでにお分かりいただいているかと思いましたけど」

?」

「そうでなければなんでしょう?」

「それは……」


 私は言い澱む。



                  *



 『遠野物語』に曰く。かの地ではひとの思いが漏れ出て凝集し、普通の人間と変わらないように出歩いて見えるものをオマク、と呼ぶ。死者が自身が死んだことに気づかず生者の生活に交じり、周囲もそれと分からない――そんな話は私もしばしば耳にしてきたし、実際に見てもきた。


 しかし、目の前にいるこのひとは――そんなにやさしいものではない。



                  *



「うーん……、自分で話すのもなんだかお恥ずかしいのですけれど……」

「……聞きますよ」

「ほら、アパートの中に皿屋敷さらやしきの井戸があるでしょう? あの井戸に身を投げたという江戸時代の若い女中さん、その怨念が思いを晴らせずにこの場所に居着いてしまった……それが私です。今ではかつての恨みも薄れて、こんなふうに学生さんのアパートの管理人なんてしてますけど……」

「そういうもっともらしい話はいいんです」

「あらまあ……」

「アパートに残る皿屋敷の井戸の逸話……あれ、後世の創作ですよね」


 私の指摘を聞いて、管理人の彼女からすっと笑みが失せた。



                  *



「地元の作家が大正時代に発表した短編小説『怪談 皿屋敷異聞』、それが初出のはずです。それ以前には、そんな歴史的事件も伝説もこの土地には存在しませんでした」


 武家屋敷跡地に井戸が残されていることを知ったある小説家が、そこから想像を膨らませて書き上げた架空の物語――それが現在当地に伝わる「皿屋敷」のおおもとである。

 その話がのちに郷土の観光向けの書籍に取り上げられ、あたかも口承の説話であるかのように一般に認識されて今に至る。井戸があったことだけは事実であるらしいが、それは皿屋敷の話とは本来全く関係はない。




                  *



「……よくご存じですね」

「答えてください。ある意味、正体が分からないあなたが、このアパートで一番たちが悪いんです。そんなものが管理している家に――」


 そんな得体の知れないもののところに兄を置いておくことを、私は許したくはない。不穏さの塊のようなここに、兄を住まわせておきたくない。


 しかし兄はそれに気づくことができない。

 何も知らない兄を、私が守らなければいけないのだ。

 それが、私の使命だ。



                  *



「困りましたねえ。今まで波風立たせずにやってきたつもりだったのですけど……」


 彼女は困ったふうに小首を傾げる。


 刹那――。

 どこからか黒い蝶の群れが湧き起こった。

 それはたちまち暗黒の渦となり、一瞬で彼女を覆い隠した。

 ざざざざざざっと耳障りな音を立て、再び彼女の輪郭が曖昧になる。


「あ、ちょっと――!」

「この話はまたの機会にしましょう、可愛い妹さん」


 そう言い残して影と化すと、そのまま霧散して彼女は消えた。


「まったく……」



                  *



「お前さんも難儀なことだのう」


 庵主様が憐れむように言う。


「あなたもその原因のひとりなんですけど」

「なんと」

「白々しいですよ」

「……にゃーん」

「にゃーんじゃないです」

「まあ、よかろうてよかろうて」


 にゃははははっと庵主様は笑う。

 疲れる。


 見上げると、庭の松の大きな枝が青空に架橋するように伸びている。

 五月の空は麗らかな日差しを含み、柔らかい。

 今日もいい天気だ。


 澄み渡る晴天の下で、私は大きくため息をついた。



                  *





                    〈「2.いないいない妖怪屋敷」、了〉



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る