4.
何が起こったか分からなかった。
ただ何か、生暖かいものが顔を覆っていた。
「うぐっ……」
混乱や驚愕の前に、まず息苦しさが先立った。
重い。
もがくようにして顔に手を伸ばす。
…………ぶに。
指先に触れたのは、毛深く、柔らかい感触。
手探りでようやくそれをつかみ持ち上げると、両手に抱えられていたのは――、
「猫……?」
それは大きな黒猫だった。
状況から判断するに、このでっぷりとした猫が僕の顔の上に降ってきたらしい。
猫は僕に両脇を抱えられても、とくだん慌てる様子もなく、頗る不機嫌そうな目で僕を睨みつけている。
「どうして猫が上から……」
あらためて見上げるも、アパートの歪んだひさしが見えるのみ。
そしてこの事態を予告した妹のメールも不可解だったが、妹が僕の窺い知れない行動をとるのはもはや日常茶飯事であるので、そこは深く考えることはしない。何かは分からないが、きっと僕を想ってのことには相違ないのだから。
*
「とっ、ああ、ちょっと……!」
僕がどうしたものかと状況を整理しようとしていたところ、黒猫は構わず僕の腕を伝って肩に這い上がろうとする。前触れなく出現し、人を恐れることをまったくしようとしない。なんなのか。
依然として何も分からないが、しかしこの何も分からない感じはなんだか少し「怪異」っぽいなと思った。
怪しげな古いアパート。
そこに襲いかかる謎の猫。
うん。なかなかに怪異的と言えるのではないだろうか。
僕は俄然期待感を覚える。
……しかし同時に、オカルトの真相などというのは、知ってしまえばどうということのない、至極つまらないものが大半なのだ――そんな冷めた情念が心のどこかで燻っているのも、また感じていた。こういうときこそ慎重かつ冷静にならなければ、怪異の深淵を探求することはできない。
*
そうして僕が手を出さないのをいいことに、猫はのっそりと僕の頭上へ覆いかぶさっていく。その重みに、僕がさすがに頸部の限界を感じ始めたあたりで、
「すみません坊っちゃん、お待たせいたしました」
と、不動産屋が戻ってきた。
*
「申し訳ありません。どうも管理人さん――
言いかけて、不動産屋は僕の頭の上に目を留めた。
「あ。これは、そのですね……」
僕がこの状況をどう説明すべきか逡巡していると、
「これはこれはアンシュサマ、お久しぶりです。ご機嫌いかがですか」
予想外にも不動産屋は頭上の猫に向かって穏やかに挨拶したのだった。
その口調は僕に対するものよりも、いくらか謙遜して聞こえた。
猫のほうも「ナアアォ」などと、ふてぶてしく返事をしている。
「あ、こちら申しておりました、
「ナアオ」
「いえいえそんな……。ああそうです。アンシュサマ、園田さん見ていませんか? 伺ったのですけれど、どうもお見かけできないのですが……」
「ナアォン」
「そうですか……。どこに行かれたのでしょうかね……」
当たり前のように交わされるやり取り。
僕の頭上で何が行われているのか。
*
察するに、〝アンシュサマ〟というのがこの黒猫の名前なのだろうということはとりあえず分かる。そしておそらくこの猫は住人の誰かの
思えば、実家の麓の町でも毎朝近所の猫と会話しているお婆さんがいた。何であったかテレビ番組にも街中の猫に話しかけながら散歩する趣向のものがあったはずだ。
きっとそういうノリなのではないだろうか。
仔細は分からないが、ここで部外者の僕が尋ねるのもなんだか空気が読めていないようで気が引けるし、概してそういうことだと、今は思うことにした。
*
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