2.天狗松
1.
今を遡ること一年とひと月と少し前――。
昨年の三月中旬。
高校入学を控えた、ある春の日のことであった。
ところは、駅前の雑居ビル。
その正面脇の、コンクリートの細い階段を下りた先。
地下一階にある小さな不動産屋。
通されたロビーで、僕はソファに腰かけていた。
蛍光灯に照らされた室内は薄暗く、壁の換気口以外に見るべき調度品もない。
*
「――ここだけのお話ですけどね、このアパート、うわさが絶えないんですよ」
小テーブルを挟んだ向こうで、不動産屋の男性は声を潜めて言った。
その口調はねっとりとして、独特の湿っぽさを感じさせる。
男性はやや小太りの中年で――一見して信楽焼の狸を絞ったような容貌という印象を持った――、小柄でありながらもその挙動には重々しい存在感があり、まとう空気は不動産業というよりも易者や占い師のそれに似ていた。
「〝うわさ〟――とは?」
僕もなるべく深刻そうに眉を寄せ、ついでにごくりと唾を飲み込む。
何かよく分からないが、こういうときは雰囲気が大事なのだろうと思った。
*
「それはうわさと言ったら……お化けですよ、お化け」
応じて、相手もいっそうトーンを落として囁く。
営業スマイルと、怖がらせようとしているのか厳めしくつくった目つきとがない交ぜになって、何とも形容しがたい表情が面前に迫った。
「お化け、幽霊、妖怪、そういったものがね……、まあ、〝出る〟と」
「お化け――ですか」
「そです。何かと陰気な話の多い物件でしてね……ああ、あくまで〝話〟に過ぎないことではあると前置きさせていただきますけれども……、それでなかなか普通の方の借り手がおらないのですなあ」
しみじみと呟く。
絡みつくようなその声色に、つい引き込まれる。
*
「いや、私とて誰にでもあらぬこと話すのではないのですよ。
「はあ」
「それに
彼はうやうやしく付け加えた。
「ですからまあ、これはここだけの話ですので、その点を……」
「いえ、それは僕も承知していますよ」
「ああいやはや、お察しいただきありがとうございます」
「それはいいのですけど……、でも、坊っちゃんはよしてくださいって」
「はは……、これは失敬をば」
さすがしっかりしていらっしゃる――そう言って、取り繕うように笑う。
*
叔父とつき合いがあると言うのなら、僕が「坊っちゃん」と呼ぶに相応しくない相手であることくらい把握していそうなものであるが……。
しかしこの男性が信用に足る人物かどうかなど、僕にはどうでもいいことであった。怪異な話を聞かせてくれるというのであれば、それに乗じさせてもらうまでだ。
換気口から響くファンの音だけが、ぶうぅんと鈍く耳に残った。
*
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