第百三十七話 約束

 静かな夜に、鈴の音だけが響き渡る。透き通った音を鳴らしているのは、もちろん綾姫だ。

 月明かりに照らされて神楽舞を踊る綾姫が、一段と美しく見える。まるで、天女のようだ。

 依頼で訪れた時も綾姫は舞を踊っていたが、あの時以上に神秘的だ。

 だが、どうしてだろう。綾姫の表情は、とても悲しく見える。やはり、死を恐れているからだろうか。

 綾姫の舞は、美しくも儚かった。



 舞を終えた綾姫は、一呼吸する。

 すると、綾姫は、柚月が目の前にいることにようやく気付いた。

 それほど、舞に集中していたのだ。


「柚月!」


 柚月に気付いた綾姫は、驚いた様子で急いで柚月の元へ駆け寄った。

 とても、軽やかに駆けだすその様は、嬉しそうに見える。

 赤い月の日まで、柚月には会えないと思っていたからだろう。


「どうしたの?」


「あ、いや……その……」


 綾姫は、柚月に尋ねる。

 柚月に会えたことは、うれしい。

 だが、ここに来たということは、何かあったのではないかと、同時に不安に駆られていた。

 と言っても、何かあったわけではない。九十九に背中を押されてきたとはとても言えない。かといって、ここに来た理由が思い浮かばない。

 なんといえば、いいのか言葉が見つからず、口ごもってしまう柚月であったが、躊躇している姿を見て、綾姫は思わず吹き出してしまう。

 緊急事態が起こったわけではなさそうだ。きっと会いに来てくれたんだ。

 そう思うと、綾姫は笑みをこぼさずにはいられなかった。


「離れで待ってて。祈りを捧げたら、終わるから」


「あ、ああ」


 綾姫は、再び、聖水の泉の元へと駆けだしていく。

 柚月は、離れで待つことにした。



 柚月は、綾姫が来るのを待ちながら、夜空を見上げていた。

 満天の星空と三日月が、柚月を照らす。星も月も、美しく見える。こんなに美しいと思った事は、初めてだ。

 だからこそ、余計に辛くなる。

 あんなに美しい月が、血のように真っ赤に染まってしまうのかと思うと。

 あの地獄がもうすぐやってくるのかと思うと。

 哀愁が漂う中、綾姫が急いで柚月の元へと戻ってきた。


「終わったわよ」


「お帰り」


 綾姫が柚月の隣に座る。

 こうして、二人で並んで座るのが久しぶりのように思える。

 少しの間、離れていただけのはずなのに。


「びっくりしたわ。柚月がここに来るなんて思わなかったから」


「そ、そうだな。どうしてるのかと思って……」


「そう……」


 柚月がようやく、ここに来た理由を話す。

 もちろん、綾姫の事が気になっていた。

 だが、それだけではない。綾姫の事が心配であったからだ。綾姫が死を恐れていると思うと、居ても立っても居られないほどに。

 だから、会いに来たのだ。

 と言っても、そう伝えられず、会話が途切れてしまった。何を話したらいいのか、わからない。

 どう声をかけたらいいのか、言葉が見つからなかった。

 それでも、柚月は、綾姫を支えたい一心で話題を探した。


「いつも、舞を踊っているのか?」


「そうよ。でも、それだけじゃないわ。朝に祈りを捧げて、祈祷してもらって、夜に神楽舞を踊って、また祈りを捧げる。この繰り返し」


「そうか」


 見つけた話題は、舞の事だ。 

 おそらく、儀式の一環として、行わなければならないのだろう。

 間接に説明した綾姫であったが、この儀式は厳しい。

 長時間の祈りや祈祷、禊や食事制限など、過酷なものばかりだ。

 それでも、綾姫は、見事にこなしている。

 聖印京の為に、何より、柚月を守るために。


「そうすることで、水の神様と心を通わせるようになるらしいの」


「神様と?」


「ええ」


「そういうことだったのか」


 ここで、柚月は、聖水の泉をどのように操るか理解した。

 水の神と心を通わせ、水の神の力で聖水の泉の雨を降らせようとしているのだろう。

 これは、柚月の予想であるが、聖水の泉の雨を降り注がせるためには、水の神に力を送るのだろう。

 それも、全ての力と聖印を。

 それは、命を削るようなものだ。九十九の九尾の炎のように。

 そう考えると、確かに、体に負担がかかる。命を落とすこともありうるだろう。

 そう思うと、柚月は、綾姫の事がますます心配になっていた。

 彼女が、どれだけ、恐怖におびえているのかと思うと。

 それでも、綾姫はそんなそぶりを見せない。

 柚月は、それが、余計に辛かった。


「今夜は、月がきれいね」


「ああ……」


 二人は、夜空を見上げる。今夜の月は、本当に美しい。見ていると穏やかな気持ちになる。


「ずっと、このままだったらいいのにな」


「ええ。赤い月なんか、なかったらよかったのに」


 この場にいるのが、柚月と綾姫だけだからだろうか。二人の口から、本音が漏れる。

 誰しもが思っていることだろう。

 赤い月が、出現しなければ、誰も傷つかず、誰も死ぬことはない。綾姫だって過酷な儀式をしなくても済む。

 だが、現実は、残酷だ。赤い月の日は、着々と迫ってきているのだから。

 綾姫は、悲しみに暮れそうになるが、あることを思いだした。


「そうだわ。今なら、すごくきれいかもしれない」


「え?」


 何か思いついたように、立ち上がる綾姫。

 柚月は、どうしたのだろうかと思い、綾姫を見上げた。


「月明かりに照らされた聖水の泉ってね、鏡みたいに見えるのよ。すごくきれいなんだから」


「そうなのか?」


「ええ。ねぇ、見に行ってみない?」


「俺が、行ってもいいのか?」


 柚月が尋ねると綾姫は、静かにうなずいた。


「立ち入り禁止じゃないから大丈夫よ。昨日は、夏乃と一緒に見たの」


「そうだったのか」


「さあ、行きましょう」


「あ、ああ」


 柚月は、うなずき、立ち上がる。

 そして、綾姫が自然に柚月の手をつなぎ、聖水の泉へと駆けだしていく。

 まるで、恋人同士のようだ。

 それも、周囲に内緒で、秘密の場所へと向かうように走っていった。

 二人は、聖水の泉へとたどり着く。

 月明かりに照らされた聖水の泉は、鏡のように周囲を映している。月も星も、柚月と綾姫も。


「本当だ。鏡のようだ。きれいだな」


「でしょ?」


 二人は、しゃがみ込み、聖水の泉を覗き込むように見る。

 その泉に映る月は、一段と美しく輝いて見える。とても、幻想的だ。まるで、別の場所にでもいるようだった。


「……ここから見る月は、本当に、綺麗なのよ。何もかも、忘れられるくらい……」


「綾姫……」


 ふと、綾姫は悲しげな表情を見せる。綾姫の本心なのだろう。

 綾姫を心配する柚月。

 だが、綾姫は、彼に心配かけまいと精一杯の笑顔を見せた。


「本当、二人で、見られてよかったわ」


 綾姫は、本当に嬉しそうだ。

 柚月と見れた事を喜んでいるのだろう。

 これも、綾姫にとって、思い出となったのであろうか。

 死ぬまでに残しておきたい日々なのであろうか。 

 そう思った瞬間、柚月は、あることを決意した。


「……また、二人で見よう。この戦いが終わったら」


「え?」


 綾姫は、あっけにとられたように、驚く。

 彼女は、覚悟しているのだろう。

 赤い月の日が終わると自分は死ぬ。

 彼女にとってその後などないのだと。


「赤い月の日が、終わったら、二人でここで見よう。約束だ」


 それでも、柚月は約束を交わそうとした。

 綾姫の為に。


「でも、見れるかどうか……」


 綾姫は、躊躇してしまう。

 自分には、もう時間がないと思っているのだろう。

 その気持ちは、柚月にもわかる。

 だが、それでもだ。

 それでも、柚月は、約束を交わしたかった。


「見れるさ。約束があれば、怖くないだろ?」


「え?」


 さらに綾姫は、驚いた様子を見せる。

 まるで、見透かされている気分になっているのだろう。

 今まで、自分の気持ちや感情を押し殺して生きてきたのだから。

 柚月が、自分が綾姫の本心に気付いた理由を語り始めた。


「九十九から、聞いたんだ。一緒に暮らそうって提案した理由」


「あの妖狐、しゃべったのね」


 綾姫は、口をとがらせて不機嫌になる。誰にも知られたくなかったからだ。特に柚月には。

 自分の本心を悟られないようにしてきたのに、水の泡だ。

 綾姫は、九十九を恨めしく思ったのだが、柚月は、なだめるように諭した。


「九十九も心配してたんだよ。お前の事……」


「わかってるわ。今なら、すごくわかる。でも、知られたくなかったの。けど……」


 死ぬのが怖い。死んでしまうのかと思うと、気が狂いそうになる。

 そう、言葉に出したくても、出せない。

 逃げ出してしまいそうになるからだ。

 だから、綾姫は言えない。やり遂げなければならない。たとえ、怖くても。

 綾姫の覚悟を感じ取っていた柚月は、綾姫を抱き寄せた。


「柚月?」


「俺が守る。聖印京も……綾も。絶対にだ」


 柚月は、綾と呼んだ。

 誰よりも綾姫を想っている事を伝えたかったのだろう。

 綾姫の中に入り込んでいる恐怖を消し去ってしまいたかった。

 その気持ちが伝わったのか、ついに綾姫は涙を流す。

 こらえていた感情を、本心を吐きだすかのように。


「本当は、怖かった。死ぬのが怖くて……」


「綾……」


「でも、約束がしてくれたから……。もう、怖くない。何も、怖くないの」


「絶対に生きよう。生きて、ここで、また見よう」


「ええ、約束よ」


 柚月と綾姫は、静かに口づけを交わした。

 ずっと、胸の内に秘めていた想いを確かめ合うように。

 ついに、二人は、結ばれたのだ。

 掟やしがらみに囚われ、想いを告げられなかった二人が。

 三日月が、二人を見守るように照らしていた。

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