第4話 元に
第三章
家に帰った。いつもとは違う時間に帰ってきたのだ。数か月前まで、塾から帰ってきたのが、確かこのくらいの時間だったろう。
閑散とした家。火の気も人の気配もない。電気をつけたら、玄関のオブジェはやはり黒っぽかった。
細い三日月が出ている。晶はじっと月を見つめた。その時、ふと和弘の匂いを思い出した。寄りかかった時のあのほのかな香り。胸がズキッと痛む。晶は鏡を見た。男の子にしか見えない。相変わらず暗い瞳。
「本当に制服着るのかよ。スカートだぜ」
一度鏡から目を離したが、また映った自分を見て、
「わたし」
と呟いてみる。
「似あわねえ。“オレ”の方が似合ってるぜ」晶はベッドにドカッと横になった。天井を見つめて和弘の言葉を思い出す。
―女に戻れよ。―
次の日からちゃんと晶は学校に行った。みんながジロジロ見ることは、前ほど嫌ではなかったが、スカートをはいている自分がものすごく恥ずかしかった。晶は元々不良ではないので、スカート丈も鞄も標準、きちんと教科書を持ってきてノートもとるし、体育もちゃんとやる。晶はこの数か月、女の子にモテていたので、その感覚がなんとなく抜けない。態度や目つきや声からして、クラスメートたちまでも晶の虜になってしまった。教室に初めに入ってきた時、クラスメートはもちろんびっくりして晶を見た。当然席が変わっているので友達を捕まえて聞いてみた。
「あ、ゴメン、私の席、どこ?」
「え?ああ、ここだよ…」
「ありがとう」
晶がその子の目を見て微笑んだので、その子は顔を赤くしてしまった。晶が前と同じように真面目に授業を受けているのでクラスメートは安心したらしく、休み時間には晶の周りに集まって来るようになった。晶はちょうどいいので休んでいた分の授業の内容を教えてもらった。多くの女生徒は、目をハートにしていた。晶は、学校に来れば前の自分に戻れるだろうと思っていたのに、この状態では戻るどころかますます男らしさが助長されてしまうと思った。
もう一つ、以前とかなり違ってしまったことがある。野村昭次の態度だ。彼は三年生になった今、この中学では中心的不良、古めかしい言葉で言えば番長である。その野村は、晶が自分の所属している暴走族の統領と懇意にしているということを知ってしまったのだ。晶がどんなつもりであれ、野村は晶に気を遣わざるをえない。野村が晶を崇めれば、当然学校全体の不良が晶に挨拶することになる。晶ははっきり言って迷惑であった。先生もすっかり警戒している。そして話しかけてくれない。受験のこともよく分からない。戻れる筈がなかった。やっぱり取り返しのつかないところまで来ていたのだろうか。
放課後、まっすぐ帰って来ると、家の前に和弘がいた。晶は思わず隠れた。何となく、この制服姿を見られたくなかったのだ。しかし、もうバレていた。
「おい晶、何隠れてんだ」
「だって…」
「おー、かわいい。お前、制服似合うな。そこら辺にいる中学生とはどこか違うよ。うん。やっぱり俺の目に狂いはなかった」
「そ、そんなことねえよ」
「こらこら、言葉遣いが悪いぞ。前からそんな言葉でしゃべってたわけじゃないだろ」「友達とは普通にしゃべってるけど、お前とはこういう風にしか話したことねえから、急に変えようと思ったってさ…。あ、今着替えるから」
「いや、もう帰るよ。そんで、しばらく会わない」
「え?」
「俺がいちゃ、いつまでたっても女の子らしくなれないだろ。しばらく離れてて、お前が女の子らしくすることが自然になったら、そしたら初対面として再び改めて会うことにしよう」
そう言って和弘はバイクに跨った。
「和弘!」
晶は思わず叫んだ。和弘は振り返ってニコッと笑った。
「一度、制服姿見られたから満足だよ。お前がいい女になるって確信したし。だからこういうことも強行するのさ」
「いつまで?いつまで会わないつもりなの?」
「お前が女らしくなるまで」
「バカヤロウ。会わないでどうやって分かるって言うんだよ」
「お前が女らしくなるためだ。俺はいつまでだって我慢するさ。なるべく早く女の子に戻ってね、じゃ」
「ちょっと」
和弘はそれ以上何も聞かずにバイクで走り去った。晶は涙が出てきた。
「誰のために女の子らしくしようとしてるか分かってんのかよ。何のために頑張るのか。バカヤロウ」
玄関のドアをバタンと閉めて寄りかかった。横にあるオブジェは涙で見えなかった。
学校に行っても、外を歩いていても、和弘ほどかっこいい男はいないということに、ようやく晶は気づいた。そして、会えなくなってはじめて、会いたいという気持ちに気づいた。自分はこんなにも和弘のことが好きなのだ。実のところ晶は、和弘の真意を測りかねていた。自分に女らしくなって欲しいから、会いたいのを我慢すると言っていた、その言葉通りの本心なのか。特別会いたいと思ってくれていないから平気であんなことを言ったのか。はたまたあれは口実で、本当は自分と縁を切りたかったのか。だとしたら、スカート姿の自分を見てがっかりしたのか。元々別れたかったのか。やっぱり面倒になったのか。考えると頭を抱えたくなる。闘争本能が刺激され、けんかっ早くなったら大変だ。晶は仕方なく、勉強に打ち込んだ。前のように褒めてもらいたいからではない。自分の夢のためでもない。ただ、何もほかのことを考えたくないからだった。
晶の髪もだいぶ伸びてきた。学校でも口数が減って、必要最少限のことしか友達と口を利かなくなった。以前のように無理に笑ったり、気を遣って周りと話を合わせようとしたりするのはばかばかしい。そのばかばかしいことが、強くなってようやく不必要になったのだった。
いつの間にか成績がトップになった晶は、やっと先生を安心させた。受験のことも、周りの子と同じように事が進んでいった。そして二月。いつも冷めた目で答案用紙を埋める晶。夢も目標も無く。だから入学試験も、緊張して震えたり、顔を紅潮させたりせず、相変わらず冷めた目でテストを受けた。二月末日。欠席日数が多いため、私立受験は難しいと言われ、公立高校をただ一つだけ受けた晶の、最初で最後の高校入試だった。外の子たちは試験が終わってはしゃいでいる。気の抜けたような顔の人もいる。みんな一つの区切りをつけたみたいだ。
「いつも人と違うところで区切りをつけてるな」
晶はそう呟いた。もうすぐ桜が咲く。
家に帰ってきて、後約一週間の間、自分の将来が決まっていない状態が続くのが少々気の重い様子で、晶は一つ溜息をついた。
「そうだ、掃除をしよう」
ずっとかまけていた、と言っても家にいなかったのでほとんど乱れていない部屋の大掃除をしようと思い立ち、晶は着替えてエプロンと三角巾を身につけた。はたきをかけ、掃除機をかけていると、玄関の隅に手紙が落ちているのを見つけた。新聞にでも挟まっていたものを、気づかずに落したのだろう。そしてそれを拾い、差出人の名前を見て晶は手に持っていた掃除機の管を床に落した。
その手紙は母親からのものだった。もう四ヶ月も前に来たものだった。立ったまま封を切った。晶は読んでるうちに涙で前が見えなくなり、エプロンで涙を拭きながら読んだ。別にどうということはない。あまり意味のない文面である。母親は晶が勉強で忙しいものと信じ込んでいる。いつ電話してもいないのは、塾に行っているせいだと思っている。そして、母はかなり後悔しているようだった。掃除なんかいいから、食べるものはちゃんと食べなさいと書いてあった。晶は何となく、胸の奥が熱く感じた。そして、早く帰ってきて欲しいと思った。声を上げて泣きたいのに、それも上手く出来ないようなもどかしい感じがした。
そこへ、ピンポーン、とすぐ前の玄関でチャイムが鳴った。涙を拭ってドアを開けると、宅配便の人だった。そして、かなり大きい段ボールの箱が晶宛に届いた。
それは父親からだった。箱の中には服やらアクセサリーやら傘、帽子など、アメリカ製のみならず、イタリア製やらフランス製やらの高級品がたくさん入っていた。そして短いメッセージが入っていた。
『そろそろ入試が終わった頃だろう。お父さんはもう一、二年こっちにいなくちゃならない。今まで受験の邪魔だと思って送ってなかったから今まとめてプレゼントを贈ります。』掃除どころではなくなって、晶はその箱の中に入っていた服などを着てみたりし始めた。ちょっと幸せな気分になった。
父親からのプレゼントが散らかったままで、夜になったので眠った。明日は父と母それぞれに手紙を書こう、そんなことを思って眠った。
次の日学校に行き、大したこともせずに、午前中一杯で家に帰って来ると、何だか良い匂いがした。おや、と思って急いで台所に行ってみると、なんと、母親がそこにいた。晶は幻覚かと思ってその場に立ち尽くしていた。「あら、おかえり。今ね、フランス風のシチュー作ってるのよ、おいしいのよー」
「お母さん?おいしいのよー、じゃないでしょ、いつ帰ってきたの?」
「さっき」
「…」
晶は開いた口が塞がらなかった。でも、母は本当に帰ってきていた。晶は涙が出てきた。「お母さん―」
晶は母親の背中に抱きついた。久しぶりに子どもみたいに泣いた。母親も涙を流した。
「晶、ごめんね、ごめんね」
母親は、仕事に区切りがついたところで帰国を希望したのだった。意地で来てしまったけれど、やっぱり晶を置いてきていることが気が気ではなかった。
「お母さん、荷物は?」
「送ったのよ、もうすぐ届くわ」
ピンポーン
「ほら、来た。はーい」
母親は玄関に行き、大きな段ボールの箱を抱えてリビングに入ってきた。箱は二つあり、一つずつ必死に運んでいた。
「ほら、これ全部お土産よ」
そう言って母は、大きな段ボール箱の一つを開けて中を見せた。中には服やら帽子やら傘やら鞄やらがたくさん入っていた。
三月六日。高校の合格発表の日だ。母はかなり緊張した様子で玄関まで晶を送り出した。晶はずっと頽廃的な気分になっていて、高校に行かれなければ働こうと考えていたが、父や母の期待を裏切るかもしれない事が突然とても怖いことのように感じ、かなり緊張気味だった。高校の門をくぐり、遠くに掲示板と人だかりが見える。
「おっと、緊張してるからって目つきを悪くしちゃダメだね」
晶は自分の番号を探した。
―あった。
テストに自信があったとはいえ、とても嬉しかった。晶は、合格通知書をもらい、晴れ晴れとした気持ちで帰ってきた。しかし、これで一安心と思ったら、忘れようとして無理に忘れていたことを思い出した。
―和弘―
会いたい。会いたくなった。すごく。喜んでもらいたい。この際、家に行ってしまおうか、でももし嫌われていたら、ほかに女がいたら…。晶は合格書類の入った封筒を握りしめてうつむいた。
すると、何となく異様な感じがする。何となく目立つものが前にあるような気がした。よく見ると…和弘だ。校門の所に和弘が立っていたのだ。晶は目を疑った。和弘はニコニコしている。晶が合格書類を持っているから喜んでいるのだ。
「おめでとう、すげーところに合格したもんだな。お前がこんなに頭がいいとは、いやー、驚いたぜ」
「か、和弘?なんで、どうして」
「人から聞いたのさ。と言っても、いつも遠くから見てたんだぜ。いつ女の子らしくなるかなあと思って」
「うそー、ひどい。ひどいよー」
晶は泣けてきた。
「あ、あの、ごめん。でも、お前ずっと暗い顔しててさ、放っとくのは却って良くないのかって随分悩んだんだよ」
「けど、よかった」
晶は泣くのを止めてにっこり笑った。
「何が?」
晶はそれには答えず、辺りを見回して言った。「こんな所にいると目立つよ、派手なんだから。みんなが怖がるでしょ」
「そうか?あ、俺ね、就職決まったんだぜ」
「へえ。よく雇ってもらえたわね。どこが良かったんでしょう」
「ばか言え、俺ほど才色兼備な男はいない、と先生が言ってたぜ」
「それ、女の先生でしょ」
「うん。それに、俺、リーダーシップがあるだろ」
「…確かに。ぷっ」
アハハハハ
二人は笑った。晶は久しぶりに大声で笑った。この一年間の自分を全て笑い飛ばすかのように。
二人は手をつないで走った。初めて会った日、手錠でつながれていた時みたいに。
氷の破片(かけら) 夏目碧央 @Akiko-Katsuura
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