第2話 運命の日

 飲み会での無理矢理の約束から一か月。

オープン戦を終えてとうとうリーグ開幕を迎えた。

勝負の一年…そんな思いも虚しく開幕一軍スタートにはならなかった。

どうせそんなもんだったんだと自棄になりそうになる度に、監督が期待をしてくれているという噂だけを頼りに二軍での結果を積み重ねた。

まだ始まったばかりだと自分を叱咤して…最後の年だと思う事で自分の中では思い出作りの気持ちも手伝ってやれることは何でもやった。

苦手意識が強く、チャレンジしても無理だと思って居たスチールを多数の先輩に教えて貰った。

自分に合う方法をチームメイトも一緒に考えてくれた事には感謝しかない。

成功した時には、嬉しさにベンチにいたチームメイトと一緒に叫んでガッツポーズまで決めた。

そんな充実したある日に、俺にとっての運命の日がやって来た。





「辰巳。ちょっとこい」

「…はい?俺なんかしました?」

「まぁ、したと言えばしたのかもな?」

 二軍監督に呼ばれて、トレーニングルームから連れ出される。

最近の調子は上々である筈で、呼び出されてまで駄目だしをされるような事があったかと記憶をさらいながら後に続くと、連れてこられたのはクラブハウス。

扉を開けるとそこに待っていたのは…稲葉監督。

一瞬にして体の水分が干上がるのを感じる。

ドクン…と痛いほどに脈打った心臓が急激に体中に血液を送り出す。

「お?来たねー。辰巳、お疲れ」

「ぉ…疲れ様です!」

「どうしたよ。声上擦ってんぞ?」

 ニヤニヤと横で笑う二軍監督の視線に上手い返しも出来ずに緊張で引き攣った笑みを返すのが精一杯の俺の態度に、背中を一度強めに叩いて一歩前に押し出された。

踏鞴を踏むようにして近付いた先で稲葉監督が、座っていた椅子の正面に目伏せしたのを見て一礼してそっと腰掛ける。

今までこれほどまでに姿勢よくクラブハウスの椅子に座った事があったかと言うほど、背筋はぴっしりと伸びていた。

これは、もしかすると…もしかするかもしれない。

「先ずはお疲れ。…それでまぁ、その顔を見れば察しはついてると思うが…。次のホーム戦、お前を一軍に上げるつもりでいる。まだ内示だし現状でスタメンはまぁ、予想してると思うが…入れてやれる隙はねぇが…代打で使いたいと思ってる。…やれるか?」

「やれます!やります!やらせてください!!」

 やっとつかんだこのチャンス。野球人生としても、今後の俺の人生としても…きっとこれが最初で最後の分岐点になる。

負けられないし、負けるつもりもない。

震えそうになる膝に勢いよく頭を下げると同時に拳を打ち込んで気合を入れなおしてから上げた顔は、自分では見れていないがそれでもきっと勝負師のソレの様にいい顔はしていたと思う。






 運命の日付は、くしくも彼女の誕生日になった。これほどまでに整った舞台もないのだろう。

数か月前に金本さんが俺に告げた劇的な告白劇は、一軍昇格の試合に彼女を招待して試合終わりに告白と職業の暴露をすると言うもの。

このプランに問題なのは、一軍のスタメンでもない俺がその試合で必ず起用されるという保証が無いという事。それに異を唱えた俺に駄目なら駄目で言っちまえばいいと何とも詰めの甘い提案がされたのは記憶に新しい。

チケットの手配は金本さんの選手シートのチケットを譲ってもらった物を郵送で彼女へと送った。

ただ一言、「大事な話があるから来て欲しい」とだけ書いた一筆箋の文字は、柄にもなく緊張で震えて何度も書き直した。

チケットが届いたであろう彼女からの着信には応えずに、メールで待ってると一言告げるだけに留めた。

ホーム神奈川での試合、対戦相手は因縁の球団と名高い福島クレーン。

相手にとっても不足は無い。

もう、携帯で連絡を取れない時間…彼女が球場に足を運んでくれたことを信じてやりきるしかない。


 進んでいく試合。投手戦になると予想されていた通りに0が並ぶ得点ボード。とうとう9回裏の攻撃も抑えられて突入した延長戦も最終回の十二回裏…。

相手投手は俺と同い年で、既に注目も活躍もしている坂本。

直接対決をしたことは無いが、何度もニュースで名前を聞く程度には覚えがある。

制球も良く、長身でトップから振り下ろす様に突き刺さるストレートが売りだと新井がぼやいていたのをベンチで耳にする。

「辰巳!次代打で行け。駄目でも引き分けだ…気楽にとは言わないが気負わなくていい。お前の一番いいスイングで振りぬいて来い。…行けると思った球に全部フルスイングだ。一軍の試合の空気に慣れるための打席だと思え」

「はい!」

 とうとう来た。本当であれば、次の打席は新井の筈で。

目を向けた先にはニヤニヤと笑うチームメイト達。きっと新井と金本さんが口添えした結果だろう。

監督でさえも面白そうに笑っている。

「辰巳、俺の選手シート、全部埋まってるそうだ。いいとこ見せろよ?」

「っ…はい!」

 震えそうになる足を踏ん張って、ベンチからバッターサークルへとゆっくりと歩き出す。

新井ではない事に気付いたファンが騒めく中、その騒めきも聞こえない程に緊張した。

膝が笑うというのは、こういう事かと他人事の様に考える頭に、痛いほどに血液を体中に流し込む心臓の音だけが反響する。

前の打席の選手が三振に取られ、それと同時に球場内に代打起用のアナウンスが響いた。


『神奈川ラクーン。選手の交代を申し上げます。7番、ファースト新井に変わりまして代打、辰巳。バッター、辰巳。背番号86』


 ざわめきが大きくなる球場。新井は一発も十分ある選手で、その代わりに代打として出て来たのが今年育成から上がって来たばかりの俺。

きっと、誰しもが期待はしていない。ベンチで監督に言われたように引き分け試合で一軍の空気を感じさせるつもりなんだろうと考えている筈で。

それでもきっと、何も知らずに球場に来てくれている彼女だけは驚きに目を見開いているかもしれない。

そんな彼女の驚いた顔を思い浮かべた事でガチガチに固まっていた肩の力が少し抜けた。

ゆっくりと歩いてたどり着いた左のバッターボックス。

主審に小さく一礼してから目を向けたマウンドから送られる視線に身震いした。

誰も期待していないこの状況。それでもピッチャーだけは俺を三振に取る事だけに集中しているのが解る。

大きく息を吐き出して負けるもんかと睨みつける様にその瞬間を待った。


 一球目。

高い位置から振り下ろされた速いストレートにピクリと体が反応しただけで振りぬく事が出来ずに見逃した。

予想よりも大分早い…。冷や汗が米神から流れる感触が気持ち悪い。

飲まれそうになる雰囲気を払拭するように、一度バットを大きく回してフォームを整える。


 二球目。

ストライクゾーンに来たと振りぬいたバットは空を切り、外に逃げるスライダーに手を出してしまった事に険しい顔になる。

泣いても笑っても、次が最後の一球になるだろう。

心臓が痛いほどに動き出す。少しは落ち着けと右手で拳をつくりドンと一回…目を瞑って胸を叩いた。

球場の歓声もなにも聞こえない程に集中して静寂の中でその時を待った。


 三球目。

自信があるのだろう、一球目と同じ高い位置から振り下ろされる速いストレート。ピクリと反応した体は殆ど無意識に今まで積んできた練習や試合でのスイングを体現した。

バットにガツンと当たった感触に、小さく掌が痺れて眉を顰めながら辿った打球は大きなアーチを描いてセンターラインに沿って真っ直ぐ飛んでいく。

打ち取られてしまったかと諦めたが、それでもボールが取られてしまうまでは精一杯に一塁に向かって走ろうとバットを放り投げた。


――その瞬間、一瞬静まり返った球場に割れんばかりの歓声が上がった。

神の悪戯か、強く吹いた風が後押しした打球は吸い込まれるようにフェンスの向こうへ落ちて行った。

夢でも見ているみたいで止まりそうになる足を進めさせたのは、金本さんからの満面の笑みでの「早く来い」というホームベース近くでの大声だった。

何が起こったか分からない頭は、一塁ベースを踏んだ感触で現実だと頭が理解した。

二塁ベースを踏みながら見つめた観客席ではファンの歓声が響いて口々に俺の名前が叫ばれていた。

三塁ベースではコーチャーが手を叩きながら何度も「よくやった!」と声援を送ってくれた。

最後、ホームベースを目前に控えて上げた顔の先では、チームメイトが一列に並んで俺の帰りを待っていてくれた。

ここに来てやっと事態の全貌を理解した体が、ガクガクと震えだした。

やっとの思いで飛びつくように両足を揃えてホームベースに着地した俺を迎えたのは、半泣きの新井からのタックルだった。

それからはお祭り騒ぎでもみくちゃにされて、溢れた涙でぼやけた眼差しの先にみえたライトスタンドへと彼女に対して見ていてくれたかと気持ちを込めて高々と腕を突き上げて、吠えた。

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