第5話 バブルOLと能天気なサラリーマン

「え? 何ですって?」

 電話の向こうのニヤニヤとした顔が、見えるようだった。

 母からの無心の電話。意味の無い「うふふ」笑いが、気に障る。

『アキヤマさんとかちーちゃんとか』

「誰?」

『私が行ってるスポーツクラブの友だちよ!』

(知らないわよ……)

 時計を見ると、朝六時半。寝たのは午前四時。さすがに眠い。電話を片手に、テレビをつける。仏頂面したキャスターが、昨日の国会での予算委員会について報じていた。

『で、みんなで箱根に行くことになったのよ。お父さんともよく行ったあのホテル』

 それも憶えていない。香奈枝は連れて行ってもらったことが無い。

 香奈枝が小学生高学年の頃、香奈枝と義明を隣県の祖父母に預け、両親はよく旅行に行っていた。ちょうどバブル最盛期。父の会社は羽振りが良かった。その分、バブル崩壊後は大変だったようだが。

「……それで、お金が足りないって?」

『ハッキリ言わないでよ~』

「毎月十万渡しているでしょ? あれは母さんの小遣い込みなのよ」

『でも、美沙さんにほとんど取られているもの。大河もよく食べるし、来年は中学生でしょ。お金がかかるのよ。義明は毎日残業で帰ってくるのが遅いし』

 香奈枝はひとつ大きなため息をついた。少しくらい聞こえたって、罰は当たるまい。

「わかった。十万でいいの?」

『あら~~いいの? 助かるわぁ』

(“いいの?”って)

 出せないと言ったら、拗ねるクセに。

 近日中に持っていくことを約束して、受話器を置いた。そしてまたため息。

(いつまでバブル期の有閑マダムを気取っているのかしらね)

 テレビから、小学生がひき逃げに遭って死亡したというニュースが流れていた。それで不意にレイのことを思い出した。

(あの子もいつか、こうなるんじゃないかしら……)

 そして自分が珍しく空腹であることに気がついた。

 昨夜はろくに食べていないし、コンビニエンスストアで買った夜食はすべてレイに渡してしまった。

(焼きタラコのおにぎり……)

 出勤前にコンビニエンスストアに寄ろうと思い立ったが、同時に「どうせまた売り切れでしょ」という思いも湧いて来て、香奈枝はどうでもよくなった。

 結局、冷蔵庫にあったトマトジュースを飲み干し、慌てて支度をして家を出た。

 駅に行く途中、夜中にレイと過ごしたバス停の辺りを通る。

 路面に描いた自分とレイの人型は、ほとんど消えていた。明け方にここを道路清掃車が通ることを思い出した。

 バス停では数人がバスを待っている。その誰も、車道に人型があったことなど知らないまま。

 昨夜、確かにそこに、自分は横たわっていた。

 レイしか居なかった。他は誰も、自分のことなど見ていない。

 今やったら、開放感は段違いかもしれない。けれど奇異な目で見られるだろうな――そんなことを考えながら、香奈枝は駅に急いだ。


 *

 

「『カグラ』なんかで飲んでたの?」

 思わずそんな言い方になってしまった。

 香奈枝に田代を非難するつもりはなかったが、彼女の方はそうは取れなかったらしい。少しムッとした顔つきになった。

「“なんか”って……来生さんはお好きじゃないかもしれませんけど、安くてそこそこ美味しくて、わいわい騒げるし、いいお店なんですよ?」

「そうだけど」

 香奈枝はそういった安いチェーン店の居酒屋が好きではない。大学生か、社会人でもせいぜい一~二年目くらいの新人が行くような店だと思っている。

 今勤めている会社は大手都市銀行が親会社で、また上にバブル経済を経験している者が多いせいか、こういったことに結構な金を出す。会社の飲み会となると、たいてい都内高級ホテルの中のレストラン、もしくは座敷のある店。香奈枝も上司に飲みに連れて行ってもらう時は、たいてい高価な焼き肉店などになる。

 転職前は、そういったチェーン店にも行っていた。そこにしか行けなかった。

 しかし努力して転職して、今の会社に入社後もがんばった。その結果、今の収入があるわけで、連れて行ってもらえる店も格段にレベルアップした。

(何で今さら、そんな安い居酒屋に行かなきゃならないの)

 目の前の後輩である田代も、三十を少し過ぎた辺りの年齢。独身でそれなりに収入がある彼女が、飲み代をケチる意味が香奈枝にはわからない。

「事務方さんたちやコールセンターのひとたちも一緒だったし、大人数だったので」

「あ、そうだったの」

 その人数だったら、安い店なのもわかる。それに事務方やコールセンターのメンバーは、正社員ではなく派遣社員やパートがほとんど。収入は自分たちよりも劣る。

(それでも、沢村がいたわよね……)

 しがない平サラリーマン。妻子を養っているのなら、安い居酒屋の方がいいだろう。

(そもそも何で沢村がいたのかしら……)

 最初“女子会”と聞いていた。それなのに。

「それじゃ、日報よろしくお願いします」

 田代はそう言ってファイルを香奈枝の机の上に置いて、自分の席に戻ってしまった。

(まあ、いいか)

 沢村は外回りに行っている。香奈枝は日報ファイルを手にとって、仕事を進めた。


 *


「あ、私がお誘いしたんですよ。皆さんを」

「そうなの?」

 外回りから帰ってきた沢村は、カバンの中から大きな水筒を出して、その中味を湯のみにあけてグビリと飲んだ。茶色だったから、ほうじ茶か麦茶かと思われた。

「思ったよりも大人数になってしまって、お給料日前だからそんなに高くないところって田代さんたちが悩んでらしたので。時折課長と行くんですよー」

 部長は羽振りがいいが、課長はいまひとつ金払いが悪い。納得した。

「それじゃ、支払いが大変だったんじゃないの?」

「いいえ。まあ私は五千円ほど出しましたが、皆さんはひとり二千円で……」

「え? おごらなかったの?」

 驚いた。中には沢村よりも下の者もいるわけで、なのに払わせるとは。

「いやー、十五人でしたからね~、皆さんに甘えてしまいました」

 恥ずかしそうに、しかし悪びれずに言う沢村に、香奈枝は呆れた。

(ありえない……)

 これが隆だったら、カードでキャッシングしてでも払ってくれるはずなのに。

(どうせ嫁に財布を握られているんでしょうけど)

 夫にみっともないことをさせる嫁なんて、と心の中で悪態をついた。沢村の妻の顔を知らないせいか、何故か隆の妻の顔が出て来た。

「領収書をもらってきたら? 福利厚生費でおちるはずだから」

「あ、できればうれしいですけど、その分キックオフとか忘年会とかを豪華にできればうれしいんで」

「そうね」

 他社よりは多いかもしれないが、年間で使える福利厚生費には限度がある。だから沢村の言うことは至極もっともだが、(生意気ね)と香奈枝は思った。

「沢村さん、おかえりなさい」

 後ろを通りかかった、事務方の派遣社員が話しかけてきた。ふだんはあまり口を開かない女性で、これには香奈枝は驚いた。

「ただいまです!」

「昨日はお疲れさまでした。楽しかったです」

「そうですねー」

「また誘ってください」

「はいっ!」

(……何なの)

 香奈枝は知っている。沢村が入社してきた時、女子社員みんながガッカリしたこと。妻子持ちな上に、見た目があまりにも残念であったこと。香奈枝もまさか彼が自分と同い年だなんて、夢にも思わなかった。後輩たちとランチしながら、沢村についての悪口大会にも参加していた。

(なのに、なんでこんなにフレンドリーなの?)

 職場のスタッフ全員でひとりの悪口と言うよりは、ずっとマシな状態だろう。だが、香奈枝の中に裏切られたような感覚があった。

「えっと、何時に出ます?」

「えっ?」

 沢村に訊かれたと同時に思い出した。この日は午後から代理店に向かう予定だったが、すっかり忘れていた。時計を見ると、あまり楽観できない時間になっていた。

「あ、すみません。すぐに支度します」

「はい」

 香奈枝は化粧ポーチを掴んで、化粧室へと走った。

(やだっ、私としたことがボーっとしちゃって)

 慌てて化粧を整えた香奈枝は、ついでにとトイレの個室へ入った。そのタイミングで、数人の女性が入ってきた。

「さっきの聞いたー?」

(ん?)

 どこかで聞いた声がした。

「聞こえたわ。何か……ねぇ」

「もうちょっと言い方があるよね」

(田代さん……?)

 いつもとトーンが異なるが、若干北関東なまりのある声は、確かに後輩の田代の声だった。それとおそらく一緒にいるのは、田代と同期の女性社員だろう。

「来生さんって、いっつも高いお店ばっかり選ぶよね。正直付き合いきれないわ」

(何を言ってるの?)

 香奈枝は後輩に払わせたことなど無い。会社の経費か、自分の小遣いから払っているのに。

「堅苦しくてね」

「ね。みんなでワイワイ話せないしさ」

「先月の飲み会なんて、いいワインとか置いているとか、産地直送野菜だとか言ってたけどさ。私、ビールがいいよ。生ビール」

「それと焼き鳥でいいわ。部長といいさ、来生さんといい、バブル経験した人って感じだよねぇ」

(――は?)

 個室から飛び出して「どういう意味?」と問い詰めたくなったが、堪えた。

 香奈枝は個室の中の音消しのスイッチを入れた。水が流れる音に、誰かがいたことに初めて気づいたらしい。入ってきたふたりはバタバタと化粧室を出て行った。

(バブルなんて経験したこと無いわよ)

 バブル景気。確かに香奈枝には記憶があるが、当時は小学生だった。

 ちょうどこの日の朝、母と話していて思い出していた時代。両親の羽振りは良く、食生活や衣服、住居環境などは、香奈枝も恩恵にあずかっていたのだろう。

 しかし、バブルを堪能した記憶など無い。

 中学生になったあたりで崩壊し、その途端に生活が質素になった。

 父が、母に責められているのを、度々見かけた。その度に(自分も働けばいいのに)と思ったが、口に出さないでいた。言った後のことを考えると、面倒だったから。

 父ががんで若くして死んだ理由は、あの母から与えられたストレスだと、香奈枝は思っている。

(私のこと、いくつだと思っているのかしら?)

 またさっきのふたりのところに行って、その勘違いを訂正したくなった。

(何なのよ……)

 慕われるまではなくとも、信頼されていると思っていた。まさか裏であんなことを言われていたとは、想像もしていなかった。


 *


 最後の代理店を出ると、すでに午後六時を回っていた。

「だいぶ日没が遅くなりましたねー」

 隣で汗を拭きながら、沢村がつぶやいた。別に返事は必要ないだろう。香奈枝は聞いていなかったフリをした。

 代理店の最寄り駅から、一旦会社に戻らなければならない。個人情報を預かったから。社内規定で、紛失・盗難等を防ぐために、自宅への持ち帰るのは禁止されている。

「それにしても暑いですね」

(いい加減黙ってくれないかしら……)

 返事をしないのに、それでも話しかけてくる沢村のことが、ひどく鬱陶しかった。

 しかしそれを表情に出すわけにもいかない。

「喉、渇きませんか?」

「はい?」

 まさか、と身構える。この男とふたりで飲むなんて、ごめんだと思う。

「あ、でも私、昨日ので金欠ですね……社に戻った後、我が家にいらっしゃいませんか?」

「はあ?」

 大きな声が出てしまった。もう繕えない。何故突然そんな話になるのか。

「社に戻ったら、カミサンに連絡入れますんで。帰りに駅ビルのスーパーで何か買っていければ」

「ちょっと待って、沢村さん!」

「はい?」

「それはさすがに奥さまに迷惑でしょう?」

 沢村は意外そうな顔をした。

「どうしてですか?」

「どうしてって……ほら、あなたのお宅、小さなお子さんいたでしょう?」

「来生さん、子どもはお嫌いですか?」

「嫌いって……」

 はっきりそう言うのには抵抗がある。正直やかましいだけの存在は好きではないが、そう言ってしまうと人間性を疑われるような気がする。

「うちのカミサン、客が来るのが好きなんですよ」

「でも」

「わりとしょっちゅう連れて行ってるんで、大丈夫ですよ」

(ダメだ、このバカ)と舌打ちしそうになるのを、堪えた。

「そういうことじゃなくて……あのね、私、この後用事があるの」

「あ、そうなんですね」

 沢村は残念そうに言った。嘘も方便。最初からこう言えばよかった。

「とにかく早く帰りましょう」

「はい。今日は仕方ないですけど、次の機会にはぜひ我が家にいらしてくださいね。花……あ、うちのカミサン、花って名前なんですけど、料理だけはうまいんですよ」

「はあ」

「この間、田代さんと村上さんも来てくれて、私よりカミサンと盛り上がってましたね」

(え?)

 村上も後輩社員で、独身男性。その村上と田代とで、沢村の自宅に行ったという話が、香奈枝には信じられなかった。

「早く戻りましょう!」

 話をそらせたくて、少し強い言い方になってしまった。しかし沢村はそれで怯むことなく、「そうですね。それでふたりとも、うちのカミサンの肉ジャガがおいしいなんて言ってくれて……」と続けた。

(ノロケ?)

 香奈枝は途中から取り繕うことを諦めた。何を言われても、沢村の言うことが聞こえないフリをした。


 *


『おかけになった電話番号は、現在電波が入っていないか……』

 留守番電話にもならない。香奈枝は小さくフッとため息をついて、スマートフォンの通話アプリを落とした。

 最近、孝と連絡が取れない。

 これまでも実験だの論文だので、連絡が取れなくなることはあった。

 最初は逃げられたかと心配になったが、若い男に逃げられたくらいで大騒ぎはできない年齢だとも思う。

 じっと耐える。

 孝との関係は、誰にも話していない。

 以前は、一週間過ぎたあたりで何事もなかったかのようにメールが来た。「だって、忙しかったんだもん」と悪びれない。

 目安はその時の“一週間”だが、それを数日前に過ぎた。


「家に行ってみればいいじゃん」

 香奈枝の周りにチョークを走らせながら、レイが言う。

 至極ごもっとも。だが。

「だって迷惑になるもの」

 彼は成人男性だし、ふたりとも既婚者ではない。

 けれど堂々とできない。十五歳の年の差は、いろいろと面倒くさい。

 香奈枝はわかっている。こんな風にして突然終わる関係もあると。

 諦めてしまえばラク。しかし諦めようと決心すると、「やあ」と連絡が来る。

「ヘンなの。友だちなのに、迷惑だなんて」

「子どもにはわからないわよ」

「ふーんだ」

 そう言いながらも、レイの声が笑っている。

 ここしばらくは雨の日が続いていたが、この夜は久しぶりの晴天の夜。東京でも結構な量の星が瞬いている。

 香奈枝は車道に大の字になって、横たわっている。その周囲に、レイはチョークで線を引いている。

 雨の日は、車道に絵を描くことができない。レイもきっと、外には出してもらってはいないだろう、と思う。確認していないから、香奈枝にはわからないが。

 彼女は眠れない夜に、雨音を聞きながら、誰かとメールのやり取りをするのが好きだ。

 だが、最近ではその相手もいなくなった。

 妻子持ちである隆には、できない。

 友だちも皆結婚してしまい、「こんな時間にメールなんて、迷惑!」と叱られてしまった。

 今では、夜中にメールできるのは孝しかいない。

 それなのに、返信が来なくなった。

 そのことをつい、レイに愚痴をこぼしてしまった。

 彼氏や恋人などの刺激的な表現はせずに、“仲のよい友だち”と言い換えたが。


「できた!」

 うれしそうにレイが声をあげた。

 香奈枝はゆっくりと起き上がって、レイの横に立った。路面に、自分の人型が描かれていた。今回は右手を上げた状態で、横たわった。

(本当に死体みたい)

 直立不動の形よりも、事故現場のように見えた。

 ふと思う。こんなふうに自分が死んだ時、誰が泣いてくれるだろう?

 母は悲しんでくれるだろう。なんと言っても親だから。

 あと弟の義明と、甥の大河。義明は実の弟だし、大河はいつも慕ってくれる。

 職場の部下たちは……あの日以来、田代の態度がよそよそしい。けれど香奈枝に世話になったのだから、少しくらい泣いたっていいだろう。

 友だちは最近疎遠だけれど、やはり友だちだから、泣くくらいはするかもしれない。

 隆はきっと泣いてくれる。

(奥さんに隠れてね……)

 そして孝は――。

 彼が「おれ、香奈枝さんが他の男と付き合うの、ヤダ」だなんて言って、抱きすくめてくれたことを、まだ憶えている。

 ふと、心の中に空洞を感じた。

「なんかさ、アワぶくみたいだね」

 能天気なレイの声が、香奈枝の思考を止めた。

「あわ……?」

「アワ!」

 そう言ってレイは、路面に指をさした。

 レイの指先には、路面に横たわる自分の跡。実際の香奈枝よりも、少しふっくらと描けている。

(ああ、泡か)

 言われてみれば、そう見えないこともない。

「アワ人間だ!」

「何よ、それ」

 おかしくなって笑い出した。

 同じものを見て、自分は自分が死んだ時のことを連想し、レイは何か別の生き物を想像している。

(なんて能天気なの)

 たのしい――が、“泡”から“バブル”を連想した。陰口を叩かれていたときのことを思い出して、少し嫌な気分になってしまった。

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