第4話 キレイなお姉さんとかわいい少年

「大きなあくびですね!」

 沢村にそう呼びかけられて、香奈枝は慌てた。誰も見ていないと思っていたし、思いのほか大きなあくびになっていたことに自分で驚いた。

「なっ、あっ、ちょっ」

「夜中まで勉強してらしたんでしょう? 保険業法、ややこしくなりましたからね」

 オフィスのコピー機の横に、シュレッダーも置いてある。香奈枝がコピーをとっていたところ、いつの間にか横に沢村が来ていて、シュレッダーに不要書類を入れていた。

(イヤミ?)

 それでも「夕べはカレシとお楽しみ?」と言ったセクハラ的発言は無い。

(言われたら、速攻でコンプライアンス違反を申し立ててやるのに)


 ここのところ毎晩、香奈枝はレイに会いに行っていた。

 彼は最初こそ言葉少なげだったが、やがて香奈枝に慣れてきたのか、今ではすっかり饒舌になっている。

 レイはつかえながら話すため、なかなか聞きづらい。頭の中で考えていることを言葉にして発することに慣れていないように感じる。それでもひどく楽しそうに話すものだから、途中で止めずにそのままにしている。

(日本語ネイティブのようだけど……言葉が遅い子なのかしら?)

 レイのもとに通うようになってからまもなく一週間が経とうとしていたが、彼がどこに住んでいる子どもなのか、香奈枝は未だに知らないでいる。訊いてみたものの、「練馬」と、ひどく漠然とした答えしか帰ってこなかった。そもそもその地域も練馬区の中にある。漠然としている。

 まだ子どもなのだから、真夜中に外出しているのは問題だろう。親が捜しているだろうと香奈枝は思った。しかし。

「四時まで帰ってくるなって」

 レイは無表情でそう言った。(なんて親だろう!)と香奈枝は憤ったが、だからといって自分に何ができるか考えても、何にも思い至らない。児童相談所……とも思ったものの、連絡するには勇気がいる。

 一度警察に通報しようかと思ったが、「交番行こうか?」と言った途端に泣き出した。「やだやだやだ!」とだけ繰り返し、なかなか泣き止まずに焦った。下手をすると自分が通報かもしれない。

(警察によほど嫌な思い出があるのかしら……)

 それではせめて彼が安全に夜を過ごせるようにと、香奈枝は様子を見に行くことにした。

 もちろん誰にも頼まれていない。レイ本人からも。

(でも、あのおかしなことを手伝えるのって、私くらいじゃない?)

 レイが路上に描いている人型のこと。

 何故彼がそこに人型を描いているのか?

「オレの居た跡」と、初めて会った夜に聞いた。

 香奈枝には意味がわからない。

 レイが描いた彼の居た跡は、深夜を暴走する車輌や道路清掃車、雨などで消されていく。それでも彼は繰り返し描き続ける。

(あの子、なんでそこまでして描くんだろう?)

 しかしその理由を知ることよりも、今は真夜中にレイと過ごす時間の方が、香奈枝にとっては大事なことになってきていた。

 ワケあり美少年との、深夜の逢瀬。この背徳感は、少々手放し難いほどには魅力的だった。

 もちろん恋愛対象ではない。未成年どころか、ローティーンと思しき少年と体の関係を結ぼうなどとは思わない。

 成人するまで、香奈枝は夜間の外出ができなかった。親がそれを許さなかったから。ただ一度だけ、理科で星座を観察するために、子どもたちだけでの夜間の外出をしたことがあった。遊ぶために出て来たわけではないのに、ひどくワクワクした。

 それにとてもよく似ていた。


 *


「すみませぇん!」

 突然、オフィスに声があがった。

「どなたか英語ができる方、いらっしゃいますか?」

 派遣で来ている事務員だった。受話器を両手で握り締め、若干青ざめた顔をしていた。

(やれやれ)

 自分の出番だと香奈枝が思うと同時に、沢村が手を上げた。

「あ、私が!」

(えっ?)

 思わず驚いて沢村を見た。

(いや、話せないわけないじゃない)

 彼には長くアメリカで働いていた経歴があるのだから、話せてもおかしくはない。

 沢村は助けを求めていた事務員の下へ小走りで向かい、受話器を受け取った。

「ヘロウ?」

(え?)

 その時、フロアにいた全員の視線が沢村に集まった。

「アイムサワムラスピーキン。ハウキャナイヘウプユー?」

(やだっ……!)

 周りの目が無ければ、噴き出してしまうところだった。

 沢村は完全にカタカナで話している。発音など関係ない。変わってもらった事務員も、驚いた顔から笑いを堪えている顔になった。

「アー、カンダ? ソーリー、シーズアウトナウ。ウジューライクトゥーリブメッセージ?」

 あまりに堂々としたカタカナ英語に、一部の社員がついに笑い出した。しかしそれには構わず電話は続く。

「ザッツオーライト! サンキューフォーコリング」

 やがて会話が終わり、沢村は受話器を置いた。そして電話をしながら書いたメモを、事務員に渡した。

「このメモの内容を、神田さんにメールして教えてあげてください」

「は、はいっ……」

 事務員は笑っていたくせに、メモを受け取ると呆然としていた。あれでちゃんと通じていたということに、驚いている様子だった。

「私の発音、ヘンでしょう?」

 周囲の反応がわかっていたらしい。沢村ははにかみながらそう聞いた。

「で、でも通じるなんてすごいです! ありがとうございました!」

 事務員は自分が助けられたのだということを思い出したらしい。発音がヘンだということは否定しなかった。

(あらら、うれしそうだこと)

 褒められて照れている沢村を、香奈枝は冷ややかに見ていた。


 *


『なんだ。怒るなよ』

「怒ってなんていないわ」

 電話の相手は隆。

 この夜、終業後に会う予定だった。先日キャンセルになったスカイツリーデートをこの日に延ばしていたが、この夜もキャンセルになった。嫁が熱を出して寝込んだからという理由だった。

『かわいくないな』

 電話の向こうで、呆れたように笑う。“かわいくない”が、“そこがいい”。そんなニュアンスを含んでいる。

「かわいくなくて結構よ。もうアラフォーだもの」

 香奈枝もわざと拗ねる。

『嘘だよ。かわいいよ』

 目の前にいなくても、そう言われるとうれしい。

 オフィスの給湯室。こんなところで不倫相手と電話なんて、夜中だからできること。午後十時半、オフィスには誰もいない。

 この日は職場の後輩たちに呑みに誘われていた。隆との約束があるから断ったのだが、空いてしまった。

 そのまま真っ直ぐ帰るのが嫌で、そのまま残業を決めた。

「奥さま、大丈夫なの?」

 余裕をもって、そう聞いてみる。

『ああ、単なる疲労から来る発熱だって』

「そう」

『だから息子の塾の送り迎えがあってさ』

「大変ね」

 見られているわけでもないのに、笑顔を作って彼の家族の話を聞く。

 いつの間にか慣れてしまっている。傷ついたりはしない。それがこの種の恋のルール。いちいち傷ついていたら、身がもたない。

『ごめんな』

「ううん。仕方ないじゃない」

『お前を抱きたかったよ』

 彼の声が小さくなった。家族に聞かれないように。それでもその言葉は、体の芯が震えるほどうれしい。

「バカなこと言って」

 香奈枝はわざと声を作って、呆れたように言う。またそう返って来ることをわかっていたような笑い声が返ってくる。

『お前らしいな。じゃあな。また連絡する』

「またね」

 電話は潔く切れる。名残惜しさのかけらも無い。

 傷つかないが少しだけ心が苦しい。

 このくらいの痛みが、大人の恋という感じがする。

 その余韻に浸っているところに、持っていたスマートフォンが鳴りだした。

 画面を見て、ため息をついた。沢村泰造だった。

「もしもし」

『あ、来生さんですか?』

(当たり前じゃない)

 香奈枝のスマートフォンに電話しているのに、香奈枝以外の誰が出ると言うのか。沢村は毎回訊いてくるし、香奈枝も毎回心の中で突っ込む。

「そうですけど。こんな時間にどうしました?」

 あくまでも冷静を装うが、イライラまで抑え切れているかは自信が無い。

『お疲れさまです。あ、いえ、今日は残業だって仰ってたので、そろそろ終わりかなと思いまして!』

「そうね。そろそろ引き上げるわ」

『まだオフィスにいらっしゃるんですよね!』

 声が大きい。香奈枝は思わずスマートフォンを耳から話した。それでも聞こえてくる。

(どこからかけてんのよ)

 沢村の声の方が大きいが、背後がざわざわしている。

「そうだけど?」

『駅前の“カグラ”でみんなと飲んでるんですよ。この後、よかったらお寄りになりませんか?』

(“みんな”?)

 思考を巡らす。果たして沢村に“みんな”と呼べるひとがいるのだろうか。しかし沢村の背後で起きている笑い声は、どこかで聞き覚えがある。

『沢村さーん! 誰と話してるんすか!』

 若い女の声が割って入ってきた。どうやらスマートフォンで話している沢村に、話しかけてきたらしい。

(え、今の……)

『あ、来生さんを誘おうと思って』

『えー? やだー!』

(は?)

 沢村は後輩たちと飲みに行っているらしい。それも意外だったが、自分を誘おうとしている沢村に対して、後輩のひとりの反応が予想外だった。

(やだって何よ? やだって)

 電話の向こうで何やらゴソゴソしており、それきり後輩の声は聞こえなくなった。

『いやー、田代さん、すごく酔っ払っちゃったみたいで』

 笑いながら沢村が戻ってきた。

「沢村さん、明日もあるんだから、あまりみんなを飲ませないで」

『す、すみません!』

「私もう帰るので、皆さんにはよろしく伝えてください。お疲れさまでした」

 淡々と。淡々と。

『はい。そろそろお開きにします。来生さんもお疲れさまでした!』

 ブツリと電話が切れた。

 途端に香奈枝は静寂の中に取り残された。

(田代さん……?)

 後輩のひとりで、飲み会はたいてい彼女から話がくる。

 ここ最近、飲み会の話は急に来ることが多かった。この日も「今日突然行くことになったんですけど、来生さんもいかがですかー?」と、昼下がりに言われた。

(そもそも田代さんには、今日デートだって言ってあったのに)

 数日前、ランチを一緒にとった時に、デートで東京スカイツリーに行くことは話していた。もちろん相手が既婚者ということは伏せて。

「まあね……今さら若い世代に混ざって飲もうなんて思わないけど」

 帰り支度をしながらひとり言をつぶやいた。もう若いコたちのペースには付き合えないのも事実。

 こういう時に、一緒に飲みに行く同世代の女友だちがいない。

 三十台の前半まではいた。けれどみんな結婚してしまい、そのほとんどが現在子育てに奮闘中。たまには夫か誰かに子どもを預けてくればいいのに……と言ったら、「子どものいない香奈枝にはわからないだろうけれど」と言われた。事実、香奈枝にはわからないし、そう言われるともう何も言えない。

 その後少し揉めて以来、その友だちとは連絡をとっていない。

(会ったところで、ダンナや姑のグチばっかりだしね)

 香奈枝は知っている。当時の友人たちが、自分のことを下に見ていることを。

 夫に浮気された友だちがいたが、勧めても離婚をしようとしなかった。子どもがいるし、自分だけでは生活レベルが下がるからだと言っていた。

「プライドは無いの?」

 そう聞いたら、返って来る答えはやはり

「結婚も出産もしていない香奈枝にはわからないよ」

 その時の彼女は、心なしか誇らしげに見えた。

 高校時代からの友だちだった。彼女が好きになった男の子は、たいてい香奈枝のことの方が好きだった。成績も香奈枝の方が上だったし、進学した大学のレベルも、香奈枝の方が数段上だった。

 就職した会社も香奈枝の方が上。ふたりとも一旦会社を辞めたが、香奈枝は転職に成功し、友だちは派遣社員を細かく勤めるだけで、当然収入も差が開いた。

 その彼女が、香奈枝を下に見ていた。口角を醜く引き上げ、うれしそうに。

(――嫌なこと思い出したわ)

 香奈枝は帰り支度を済ませ、パソコンの電源を落として席を立った。。

 オフィスの電気を消すと、窓の外の景色がよく見えた。それはまるで宝石箱のようで、こういうオフィスで働いている自分を香奈枝は誇らしく感じていた。


 *

 

 午前一時。香奈枝はレジ袋をぶら下げて、スウェット姿でいつもの場所に向かう。

 この夜は、おみやげをもうひと包み持って。


 レジ袋には仕事帰りにコンビニエンスストアで買った品物が入っている。

 この夜も焼きタラコのおにぎりは買えなかった。

 それどころかおにぎりの棚は空っぽで、香奈枝は仕方なく残っていた惣菜パンをいくつかと、オレンジジュースを買った。

「あざーっした」

 いつもの心の篭っていない挨拶を背中に受けて、香奈枝は店を出た。

(……あれ?)

 自分の気持ちの変化に、気がついた。

(ちょっとワクワクしてる……)

 日付が変わる前の時間帯は、レイとはまだ会えない。

 だから香奈枝は一回自宅へ帰り、シャワーを浴びて着替えて、しばらくは寛いでいる。そして午前一時を過ぎる頃にレジ袋を提げて自宅を出て、レイに会いに行く。

 いない時もある。少しガッカリはするが、約束などはしていないし、そもそも子どもがそんな時間にいること自体がおかしいのだから、仕方ない。

 期待はしない。そうやって生きてきた。

 それでも足が速くなる。誰もいない住宅街を、スニーカーで音無く歩く。

(あ、そうだ!)

 ふと思いついた。

 このマンションは、一本の廊下の南側に数軒の部屋が並んでいる形になっている。両端には小窓がある。端の部屋の目の前ではあるが、そこからバス停のある道が見えるかもしれない。ここは五階。

 そこから見てみて、レイがまだ居なければ出掛けなくてもいい。

 足音を控えて、レイがいる方向の東側の窓へ向かう。窓はガラスなどで仕切られてはおらず、装飾的なデザインの面格子になっている。隙間から見下ろせるはずだ。

(あ! いた!)

 レイが道路の真ん中に寝転がって、懸命に自分の周囲に線を描いていた。すでに数個描いていたようで、人型が彼の周囲に踊っていた。

 香奈枝は急ぎ足で、マンションから外へ出て、レイの居る道へ向かった。香奈枝の足音に一瞬彼は警戒した顔になったが、香奈枝を見つけてすぐに破顔した。

「お姉ちゃん!」

 手をブンブン振る。少し声が大きい。香奈枝は人差し指を口に当てて、「シーッ」とジェスチャーした。レイもそれを真似て、「シーッ」とする。嬉しそうな仕草に、香奈枝もつい笑ってしまう。

「また描いてたのね」

「うん!」

 褒めたわけでもないのに、誇らしげに微笑む。

 レイが描くのをやめて立ち上がったから、ふたりでバス停のベンチに座った。

「はい」とレジ袋ごと渡した。

「わあ! お姉ちゃん、ありがとう!」

(お姉ちゃん、だって)

 ひどく気恥ずかしかったが、嬉しさもあった。

 レイが初めて香奈枝を呼んだ時も、“おばさん”ではなく“お姉さん”と言った。顔には出さなかったが(私もまだまだ若く見えるのね!)と嬉しくなった。

 お姉さん呼ばわりは若い男からはされるが、子どもから言われるのとはわけが違う。子どもは正直、かつ残酷だ。目に見えたことを、そのまま言葉にする。

「いただきます!」

「どうぞ」

 レイは焼きそばパンを取り出して、大きな口を開けて食べ始めた。チラリと見える歯は味噌っ歯だらけで、かなり欠けている。それでもがっつく様子から考えると、痛くは無さそうだ。

 着ているものはふだんとあまり変わらない。お風呂は毎日入っているのかどうか、まだ汗臭くなる時期ではないためわからなかった。

 シャツから伸びる首、腕は、相変わらず細い。

 レイは焼きそばパン、コロッケパン、たまごサンドをあっという間に平らげてしまった。急ぎすぎて時々むせるから、香奈枝はその都度ジュースを勧めた。

「さーて!」

 食べ終わると、レイは再び道路に人型を描くために立ち上がった。

「あっ、そうだ」

「?」

 香奈枝は自分が持ってきたものを思い出した。レジ袋の他にもうひと袋。ひょんなことで知って、インターネット通販で買ったもの。

「これで描いてごらん?」

「え……」

 袋から出したのは、これまで使っていたものの倍以上の太さがあるチョークだった。

「太字チョークっていうんですって」

 普通のチョークの九倍から十倍の体積で、太い分折れづらく長持ちするらしい。しかも太い線をアスファルトでもハッキリ書けるとあった。

 その説明の間に、レイは早くもそれで自分の足元に線を描いた。確かに太い。

「ひゃあ! すげえ!」

「これならすぐは消えないわよね」

 チョークをどうやって調達しているのかと思ったら、近所の幼稚園の庭に落ちていたのを拾ってきていたと言う。レイが持っているのは二、三本、しかもすべて短くなっていたから訊ねたら、そう返ってきた。不法侵入だ。

「ねえねえ! お姉ちゃん、描いて!」

「へっ?」

 驚いている間に、レイは香奈枝の手に太字チョークを持たせて、自分は道路に横になった。

「仕方ないなー」 

 そしてその後、ふたりは車道で“レイの居場所”を描き始める。

 だいたい一時間ほどそうやって過ごす。

 眠気が出て来た頃、香奈枝は自室へと帰る。

 レイはそのまま。だが、笑顔で手を振って見送ってくれる。

(このままじゃいられないとは思うけれど……)

 香奈枝は、時折周囲をキョロキョロ見回す。

 住宅街である近辺は誰もが眠っているようで、静寂を保っている。普通にしゃべっているふたりの声が必要以上に響く。幸い、それでも人の気配――ふたりを気にしているような視線を感じたことは、今のところ無い。

 通報されると困ったことになる。

 未成年なのにレイが深夜に締め出され、街を徘徊している。通報されてしまえばおしまい。そしておそらく、通報もせずにそばにいる自分も無傷ではいられない。誘拐・拉致をしているわけではないけれど、未成年だと知っていながら何の対処もしていないのだから、非難されても仕方ない。

 けれどこの時間がたのしい。

 レイは挨拶を覚え、使えるようになった。

 無表情はやがて和らぎ、香奈枝に笑顔を向けるようになった。絶対の信頼を受けているのがわかる。それがうれしい。

 太字チョークはおもしろいほど太く、しっかりした線が引ける。香奈枝も立ち上がる。最近では香奈枝がレイの人型を、最初から最後まで描く。より細かいところも描けて、本当にレイがそこに横たわっているように見える。

 しゃがんだ状態で描くため若干の腰痛を感じながらも、香奈枝は描いてゆく。描かれている間の、夜空を見ているレイの顔がうれしそうにほころんでいるのを見るのがまたうれしい。「よいしょ、よいしょ」とどうしても声が漏れてしまうのは、自分でもババアだと思う。

「さ、描けたよ」

 そう言って立ち上がると、レイもピョコンと起き上がった。キレイに描けている。

「やれやれ」と言いながら香奈枝がベンチに戻ろうとしたら、突然手首を掴まれた。

「へ?」

「お姉ちゃんの、オレ、描く!」

「あたし?」

 つまりは車道に寝転がり、レイに人型を描かれろという話。いい歳をして何をしろと……と憤慨する気持ちも少しはあったが、ここで香奈枝の中で興味が生まれた。

 どうせ誰も見ていない。

 レイの人型と重ならないように、しかしレイの人型のすぐ隣、より歩道に近いところに、香奈枝は立った。そしてゆっくりとしゃがむ。そこから先に抵抗を感じる。

 車道に直に座るなんてことは、これまで経験があっただろうか。

「早く早く!」

 レイの言葉は耳に入るが、車道に尻をつけるまでに時間がかかった。

 しかし。

(うわあ……)

 何となく体育座りになって、空を見上げた。目線が一メートルほど低くなっただけで、頭の上の空間が無限に拡がったように感じられた。東京の空だから、星はさほど多くはない。けれど少ないながらも星は、ポカンと口が開くほどの美しさがあった。

「早く寝なよ!」

 ワクワクを隠せない声でレイが急かす。「え……でも」などと言いながら、ゆっくりと体を横たえる香奈枝は、内心ときめいていた。車道に後頭部や背中を付けることに抵抗はあったが、そんなものは洗えばどうにでもなる。レイが楽しそうにしていることに水を差すのも嫌だったし、何よりも自分が楽しくなってきてしまった。

 香奈枝は車道に横たわった。

 瞬時、死を思った。車にはねられるなどしない限り、こんな機会は無いだろう。

 同時に解き放たれたような感覚もあった。様々なしがらみからすべて切り、自分は今、ただの肉の塊になった。

 大の字になって、大きく息を吸った。生ぬるい春の夜の空気が、体に入ってくる。

 すぐそばにレイはしゃがみ、手にしたチョークで自分の周りを縁取っていく。時折笑みがこぼれるらしく、「うひっ」「うふふ」だの、笑い声が息と共に漏れる。

(これは、クセになるかも……)

 男と寝た時にだって、これほどまでの開放感を得たことは無かった。

 やがて描き終わり、レイは上体を起こして立ち上がった。もう少し寝ていたいように思ったが、描かれた自分の人型を見るために香奈枝も起き上がった。途端に視野がふだんに戻り、高揚していた気持ちも落ち着いた。

 傍らにふたりで立ち、自分たちの人型を見た。

「へえ……」

 ふたりで同時に、同じ声が出た。

 思わず顔を見合わせて、そして笑った。

 路面にはギザギザの線で大の字に立つ香奈枝と、その香奈枝の隣で嬉しそうに踊っているレイがいた。

 ただそれだけなのにおもしろい。楽しい。

 そうしてふたり並んで、いつまでもニヤニヤと笑っていた。

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