第3話 イイ女とステキな恋人たち

 香奈枝の恋人その二である水嶋孝は、東京都下の緑の多い街に住んでいる。そこは若者に人気のある街で、彼はマンションでひとり暮らしを楽しんでいる。

「生意気だよねー」

 憎憎しげに、けれど楽しそうに香奈枝は言った。

「なんでー?」

「だって私の部屋よりも広いんだもの」

 香奈枝の住んでいるマンションもワンルームと言えど広いが、孝の部屋には負ける。その上香奈枝の部屋は賃貸だが、孝のは分譲だった。

「まあ、親のものだしね」

「フフッ」

 香奈枝はダブルベッドから出て、そばに脱ぎ捨てていた服を手繰り寄せた。孝はすでにベッドから出て、キッチンで水を飲んでいる。

「香奈枝さんも飲む?」

「ううん、いいわ」

 そこへスマートフォンにメールが届いた。バッグを手繰り寄せて確認すると、もうひとりの恋人、隆からだった。

「誰?」

 ベッドに戻ってきた孝に訊かれた。

「さあてね」

「別の男でしょ」

「そりゃそうでしょ。いつキミに捨てられるかわからないからね。キープしておかなきゃ」

 これは香奈枝の本心。孝はまだ二十三歳。しかも彼は医大生で、地元に帰れば大病院のお坊ちゃま。十五歳も年上の自分との未来など有り得ない。

「キャッ」

 後ろから突然抱きしめられた。香奈枝は少しだけときめきを感じながらも、嫌味にならない程度の大きさのため息をついた。

「なあに?」

「おれ、香奈枝さんが他の男と付き合うの、ヤダ」

 うれしいことを言ってくれる。

 彼は身長があまり高くなく、痩せ型。メガネをかけていて、いかにも秀才といった風貌をしている。もてるタイプではないが、医大生且つ金持ちの息子ということで言い寄ってくる女性が多いのだという。

 だが香奈枝は孝が医大生であろうが金持ちの息子であろうが、そこに興味があるわけではなかった。確かにそれらはステイタスとして無いよりはあった方がよいが、重要なのはそこではない。

 自分を慕ってくれる若い男。

 これが、香奈枝の自尊心を満たす。

 香奈枝は自分の左乳房の上に置かれた孝の右手を、キュッと握った。それからそれを手放して、「何言ってんの、こんなおばちゃんに」と明るく笑う。

「香奈枝さんはおばちゃんなんかじゃないよ」

 ここで「それじゃ、私は何?」等、意地悪な質問はしない。

「ありがと」

 そう小さく言って、うれしそうにフフフッと笑う。

「香奈枝さん、今夜も泊まっていけないの?」

 ストッキングを履く指先が一瞬止まる。が、何事もなかったかのように、またスルスルと履く。そして「ばかね」とだけ言う。

 翌日も仕事だし、正直「冗談じゃない」とも思う。

 一度、ママ――孝の母が突然訪ねて来たことがあった。ドラマや映画でよくある、妻が間男を連れ込んでよろしくやっているところに、夫が突然帰ってくるというシーンに似ていた。

「マ……おふくろが来たから、香奈枝さん隠れて!」

 あの時の間男的配役を押し付けられた屈辱は、なかなか忘れられない。結局着替えと靴と共にクローゼットに隠れ、隙を見て部屋から出た。

 その一件から、香奈枝は孝の部屋に泊まるのをやめた。

「仕方ないか。明日も平日だもんね」

 香奈枝が考えていることなど、微塵も思い至らないらしい。それが若さだと香奈枝は思う。それがかわいいとさえも。


 *


 メールは隆から。デートのキャンセルだった。

 その翌日、ふたりで東京スカイツリーに行く予定にしていた。

 出張が入ったとの理由と、謝罪が書いてあった。

『仕方ないなー。その代わり今度はごちそうしてね。お仕事がんばって』

 それだけ書いて返信した。

「スカイツリー? 地方の修学旅行じゃないんだから」

 はじめはそう言って笑った香奈枝だったが、実は楽しみにしていたことを、自分の落胆で知った。

 しかしここで駄々をこねることができるようなカワイイ女ではないことを、自分でよく知っている。それが香奈枝の演出している“イイ女”。

(なあんだ)

 スマートフォンで時刻を確認する。午前零時を過ぎていた。

 翌日も仕事だったが、すんなり帰宅したくはなかった。しかし駅から自宅マンションへの道程に、コンビニエンスストア以外は無い。少し先まで行けば、ファミリーレストランはあるが……。

(そうだ)

 ふと、焼きタラコのおにぎりのことを思い出した。ずっと食べそびれている。

 こんな夜中に食べることに躊躇いはあるものの。

(義明の家でから揚げ食べなかったし、いいよね)

 三十代になってから、スポーツジムに通い出した。

 仕事で関わりのある保険の外交員は女性がほとんどで、香奈枝よりも年上が多い。痩せ型よりもぽっちゃり体型の女性が多いように思う。

 香奈枝は抜群にスタイルがよいとは言えないが、服装を考え、せめて太らないように気をつけている。

 いつものコンビニエンスストアに立ち寄る。

 三百六十五日、この建物の佇まいは変わらない。

 客も毎回同じように感じる。

「いらっさいませー」

 色が浅黒い外国人男性のアルバイトに挨拶をされたが、特に会釈もしない。向こうも気にしていないだろう。長髪の若い男性バイトは、ちょうど奥のトイレから出て来たところ。

 店内には自分の他に三人の客。だらしない雰囲気のカップルと、作業服の中年男性。どこかで見たような組み合わせ。

(みんなヒマねー)

 自分は違う。こんな時間にコンビニに来てはいるが、暇だからではない。

 仕事はうまくいっているし、恋愛も充実している。英語教室に通い、エステやスポーツジムにもまめに行っている。趣味は映画。時間を見つけては、渋谷や銀座へちょっと地味めの洋画を観に行く。こんな夜中にコンビニでボケッとしている時間は無い。

(あ……)

 おにぎりの棚。焼きタラコのおにぎりは、またも売り切れだった。

「なんで?」

 思わず声が出た。

 おかか、昆布、牛肉しぐれ、茎わかめ、鮭、五目チャーハン……他は数点並んでいるのに、焼きタラコのところだけが空席だった。

「!」

 雑誌のコーナーにいた中年男性が、買い物かごを持って背後を通り過ぎた。彼はそのままレジにかごをドスンと置いた。

「いらっさいませー」

 男性バイトがレジを打ち始めた。

(……あ!)

 焼きタラコ。中年男性の買い物かごの中に、焼きタラコのおにぎりがあった。

(うっそ! 最後の一個、取られちゃったんだ!)

 その男性客にしてみれば、商品棚に並んでいた焼きタラコを買っただけのことで、“奪った”などと考えてはいないだろう。

(もー……)

 仕方ない。香奈枝はとりあえず五目チャーハンのおにぎりと、昆布のおにぎり、それからペットボトルの日本茶を買った。

「あざっしたー」

 感謝の気持ちなどこれっぽっちもこもっていない言葉。

 店を出て大通りを歩く。自転車や通行人はおらず、車は大型車の方が多く走っている。そばのマンションの灯りは半数以上が消えている。午前一時半。

(前にあの子と会ったのは、もうちょっと遅い時間帯だったけど)

 歩いて数分、自分のマンションのわき道を入るとレイがいた。

 レイはまた道路に横たわり、自分の周りにチョークで線を引いていた。

 香奈枝が小走りで近づくと、レイはギョッとした顔で上体を起こした。

「レイくん!」

「あ……」

 挨拶は出ないが、ホッとしたような笑みを浮かべていた。その顔がきれいで、挨拶の言葉が無かったことなど香奈枝の中ではどうでもよくなった。仕事なら説教しているところだが。

「また描いていたの?」

 レイは黙ったまま頷いた。見るとふたつめの人型だった。自分で描いたせいか、線がガタガタしている。

「また手伝ってあげようか」

「え……」

 レイが躊躇うような表情になったが、それとほぼ同時に腹の虫が鳴った。レイの腹の虫。

「お腹すいた?」

 彼はまた黙ったまま頷いた。視線は香奈枝の持っているレジ袋に向いている。

「食べる?」

 視線を袋から香奈枝の顔に向ける。「いいの?」と目が語っている。香奈枝もそれに応えて頷く。

 ふたりは最初の夜にそうしたように、バス停のベンチに座った。

 レイはやはり「いただきます」も「ありがとう」も言わないが、香奈枝から五目チャーハンのおにぎりを受け取ると、目を輝かせた。

「さ、どうぞ」

 香奈枝がそう言うや否や、レイはおにぎりに喰らいついた。まさに“喰らいつく”という表現が合っている。

(この子……ちゃんと食べているのかな?)

 腕や首が細い。ぶかぶかのTシャツを着ているからわからないが、肋骨が浮き出ていそうな気がする。

「ほら、よく噛んで」

 思わずそう口を挟みたくなるくらいの、がっつきようだった。

(親にちゃんと食べさせてもらっていないのかも)

 こんな時間に子どもが家に居なくても探しもしない親だから、そういったことも考えられる。

(虐待……とか?)

 けれど顔や腕はキレイだ。殴られた跡などは見えない。

「ブホッ!」

 突然レイがむせた。

「ほら! そんなにがっつくから!」

 バッグの中からウエットティッシュを出して、困惑しているレイの口周りを拭いた。ペットボトルの蓋を開けて渡すと。レイはそれをすごい勢いで飲んだ。それを見ながら香奈枝はふと思った。

(子どもがいたら、こんな感じかしらね……)

 三十八歳。子どものいる生活など、すでに空想の世界となってしまった。

 レイはあっという間にふたつめのおにぎりを手に取り、それも平らげた。物足りなさそうだったが、もう何も無い。まだ物欲しげな顔で香奈枝の顔を見上げる。

「“ごちそうさま”は?」

 香奈枝はそんなレイの顔に少しだけ苛立ちを覚え、そう言ってしまった。ごちそうさまも言えないヤツに、これ以上奢るものですか。子ども相手ではあったがそんな気持ちがあった。

 だが予想外の反応が返ってきた。

「ご……ごち?」

 香奈枝が何を言っているのか、レイは理解できていない様子だった。

「ごちそうさま、でしょ」

「ごちそ……?」

(あれ。この子、日本人じゃないのかな?)

 すぐにそう思った。これまでレイとはあまり話していないから、気づかなかった。

「Are you Japanese?」

「ええっ?」

 英語を使ってみたが、レイは怯えただけだった。英語圏の人間ではないらしい。

(アジア系なのかな)

 一見したところ日本人なのだから、そうなのかもしれない。他の言語はよく知らないから、それ以上は探れない。香奈枝は聞くのをやめた。

(親が出てきて、外国人だからって差別だ!とか言われても困るし)

 仕事で時折そういったトラブルがある。

「あのね、日本では、食べる前に“ い た だ き ま す ”、食べ終わったら“ ご ち そ う さ ま ”と言う習慣があるのよ」

 香奈枝はわざとゆっくり話した。特に“いただきます”と“ごちそうさま”は、一文字一文字の間を大きく開けて。

 レイは目を大きく見開きながら、香奈枝の顔を見ていた。

「それで、誰かに何かもらったり、してもらったりしたら、“ あ り が と う ”って言うの」

「……」

 返事は無い。しかし小さな唇が、わずかに動いている。

「“いただきます”、ハイ」

「?」

「私に続けて言ってみて。“いただきます”」

「い、いた、た、き、ます」

「“ごちそうさま”、ハイ」

「ごち、そ、さま」

「“ありがとう”、ハイ」

「あ、がと……」

 そこで、ふと(私何やってんの?)と香奈枝は思った。

 真夜中、見知らぬ子どもに日本人の基本の挨拶を教えている。

 考えてみればレイと同世代である甥っ子の大河も、“いただきます”“ごちそうさま”は言わない。最近では給食でもそう言わせるのはおかしいと、保護者が学校に苦情を入れるらしい。保険のおばちゃんのひとりからそんなことを聞いた。

「……ごちそ、さま」

「ん?」

 レイが香奈枝の顔を見上げていた。キレイな瞳でまっすぐに香奈枝を見つめていた。

「ごちそさま。あんがと」

 そう言ってニッコリ微笑んだ。その途端、香奈枝の気持ちに甘酸っぱく暖かいものが拡がった。

(この子、かわいい!)

 その時、大通りから大型車が入ってきた。この時間はトラックなどの大きな車輌が、この道を通る。

 通り過ぎた後の路上を見ると、レイが描いた人型が消えかかっている。それをレイは無表情で見ている。

 彼が「オレ、ぐっちゃぐちゃになっちゃった」――そう言っていたことを思い出した。表情からだと、それが悲しいのか気にしていないのかがわからない。

「それじゃ、私が描いてあげよっか。この前みたいに」

「!」

 レイの頬に赤みがさしたように見えた。

 実際は真夜中の街灯の下。本当に赤みがさしたかどうかはわからなかったが、あったかくなるような笑顔だった。

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