第2話 優秀なOLと冴えない平社員

「先週の好成績代理店一位は、ニコニコ保険サービス社さんでした!」

 部長のその言葉に、課の全員が拍手をする。

 そこは来生香奈枝が担当している会社。彼女は誇らしげに上体を折り、拍手への礼をした。何回も経験してきたことだが、やはりうれしい。

 だが隣で恐縮して頭を垂れている人間が、今週から異なる。

「来生くんは相変わらず好調だね。沢村くんもいいパートナーについたな」

 常務が満面に笑みを浮かべながら、そう言う。うれしいが、隣にいる男のことを考えると頭が痛い。

 香奈枝の会社では、一箇所の代理店に対してふたりの営業がつく。一緒に出向くこともあれば、交代で向かうこともある。

 香奈枝にもパートナーがいたわけだが、その女性社員が先月突然会社を辞めてしまった。

(なにが “授かり婚”よ。避妊失敗しただけじゃない)

 笑顔で送り出しながら、心で悪態をついた。実際に口に出してしまったら、パワハラやらコンプライアンスやらで面倒臭くなるから気をつけている。

 その代わりに配置されたのが横に居る男、沢村泰造だった。

 沢村は昨年度に商社から転職してきたばかりの男で、その前は外資系の生命保険会社に勤めていたらしい。

 年齢は香奈枝と同じ。小太りで、腹が目立ち始めている。ノーブランドの背広がパツパツになっている。何よりもショックなのは、

(髪よねぇ……)

 チラリと横を見る。脳天に地肌が見える。同い年でそれは、香奈枝にとってはショックでしかない。恋人の隆は年上でも黒髪がフサフサしているというのに。

 そしてそれがわかる身長差。香奈枝は百七十には満たないはずだが、それでも自分の長身を思い出させられる。

 月曜日の朝礼が終わった。それぞれがパソコンに向かったり、電話を掛け始めたりしている。沢村が笑みを浮かべて香奈枝に声をかけてきた。

「来生さん、そろそろ出ますか?」

「一件連絡したいところがあるので、十時に出ましょう」

「はいっ!」

 この日はふたりで一緒に回る予定になっている。

 会社での後輩だから、沢村は香奈枝に対して敬語を使う。年齢は同じだが見た目が年上にしか思えないため、香奈枝もつい敬語で接してしまう。

(なんか調子狂うな)

 沢村は机の上の書類をバタバタまとめながら、カバンに突っ込んで準備している。

(こう……もうちょっとスマートに振舞えないもんかしらね)

 とにかく落ち着きが無い。書類を片付けたり、パソコンで何かを打っていたり、紙コップに淹れたお茶をガブッと飲んでみたり、額ににじむ汗をタオルで拭いてみたり。

 呆れて眺めていたら、土日に温泉に行ったという社員から配られた饅頭を、沢村はひと口でバクッと食べた。

(いい食べっぷりだこと)

 もちろん褒めていない。誰にも聞かせるつもりのない皮肉。

 同時に思い出す。

(そういえば、あの子もいい食べっぷりだったわね)


 あれは、金曜日の夜のことだった。

 車が来ない路面に、自分の人型を描いていた少年、レイと出会った。

(そういえば、あのチョークで描く人型のこと、なんていうのかを調べるの忘れちゃった)

 それよりもあの笑顔が脳裏から離れないでいる。

「オレ、ぐっちゃぐちゃになっちゃった」

 そう言いながら見せた笑顔は、ひどく魅力的だった。

(別にどうこうしたいとか、ヘンな意味じゃなくてね)

 誰に対してでもない言い訳を、頭の中でする。

 劣情からではなく、あの笑顔に惹かれた。

(なんていうんだろ。あの遣る瀬無い感じの笑い方……諦めたような……)

 がんばって描いたところで、どうせ走る車に消されてしまう。道路清掃車が通れば、すぐに消える。わかっているのに、また描く。わけがわからない。わからないけれど、惹かれる。

 翌日……昨日も彼は車道で描いていたのだろうか。昨夜は孝を自室に呼んでいたから、外に出ていない。


「来生さん、そろそろ行きませんか?」

「はっ、はい!」

 沢村の声に我に返った。そうだ、外回りに出向かなければならない。

(やだ、ボーっとしちゃった)

 仕事中に考えごとをしていたこともくやしいが、それを沢村に指摘されたのがくやしい。

(何、この人。すごいやる気じゃないの。薄いクセに)

 言ってやりたい。が、喉もとで飲み込んで、笑顔を作る。

「すみません。それじゃ、出掛けましょうか」

 

 *


「ちょうどいいところに来た! タイゾーさあん!」

(タイゾー?)

 代理店でも一番大きな会社、ニコニコ保険サービス社の社内に入った途端、そう言って保険の外交員―― “セールレディ”よりは“保険のオバチャン”という表現の方が似合う――のひとりが走り寄って来た。

 この会社でも一番の売り上げを誇る敏腕外交員が、沢村を頼る。そんなシーンを目の当たりにして、香奈枝は戸惑った。

「お疲れさまです! 吉野さん、どうされました?」

「この間、謝絶で戻ってきちゃった契約のことなんだけど。あの練馬のおじいちゃんの!」

 沢村は香奈枝に軽く会釈したあと、吉野に連れて行かれてしまった。

(な……何? いつの間にあんなに仲良くなったの?)

「あ、来生さん、いらっしゃい」

 事務の女性が声をかけてきた。

「こ、こんにちは。先月の売り上げ代理店一位の賞品をお持ちしました」

「そうですか。ありがとうございます」

 香奈枝の勤める生命保険会社には直接顧客と接する部署もあるが、実際は保険代理店が保険契約の仲介をすることが多い。このニコニコ保険サービス社は乗り合い代理店で、香奈枝の会社以外にも数社の保険会社と代理店契約をしている。

 ここには常時三十名前後の外交員、いわゆる“保険のオバチャン”が常駐している。

 その彼女たちの意欲を高めるために、売り上げ順位をつけて、上位入賞者にボーナスを出している。今回は数ある保険代理店の中でもこの会社の売り上げが一番だったため、ボーナスとして高額の商品券を持ってきた。

「最近、吉野さんったら、沢村さんに頼りっきりで」

「そ、そうですか」

「わりと頻繁に来てくれているからじゃないですかね」

 オフィス内を見やると、沢村が吉野にガンガンに叱られているように見えた。が、聞こえてくる吉野の大きな声は笑っている。

(吉野さん、沢村のこと“キモイオッサン”って言ってたのに……)

 自分だってオバサンじゃん、と、その時はそう思いながら聞いていた。

(調子いいひとね)

 香奈枝の偏見だろうが、営業にはそういった気質の者が多いと感じている。利用できるものは利用する。いかに自分の売り上げを上げるか、それだけを考える。それが自分の給与に反映し、会社と自分の雇用契約にも響くから必死。悪いことではない。

「やあ、来生さん」

 立ち尽くしていると、この部署の部長がやってきた。おっとりとしている風に見える中年男性。

「お世話になっております。本日は懸賞品をお持ちしました」

「ありがとう。なんだか久しぶりだよね」

「そ、そうですか?」

 それでも週に一回は顔を出している。

「ほら、あのキミの部下の沢村くん? 彼がわりとしょっちゅう来てるでしょ。だからそう思うのかもな」

(えー……)

 当たり前じゃない、と香奈枝は心の中だけで憤慨した。香奈枝が抱えているのは、この会社だけではない。だから沢村と分担して動いている。

(沢村が来ている時に、たまたま会うことが多いんでしょうよ)

 確かに香奈枝が訪れた時は、会議だ外出だと、部長と顔を合わすことが少ない。

「彼は気が利かないところもあるけれど、助かってるよ」

「おそれいります」

 心の中にもやっとしたものがあったが、笑顔で返した。


「そんなに来てましたかね?」

“わりとしょっちゅう来てる”という部長の言葉の確認をすると、沢村は不思議そうな顔をして考え込んだ。

 ニコニコ保険サービス社を出て、もう一社、代理店に寄った。そこでは沢村は、適当にあしらわれていた。

「来生さん、もっと来てくださいよー。あのオジサンだと相談しづらくて~」

 と、そこの事務員からこっそり耳打ちされた。“オジサン”だなんて、遠慮が無い。今どきの若い子は……と思うが、納得する。

(やっぱり女には女か、若い男の方がいいのよ)

 部下が辞める時、代わりの人員は同じく女性か、若い男性を入れてほしいと申請していたのに、来たのは自分と同じ歳のオッサンだった。

(まあ、誰が来ても、結局私が頑張るしかないのよね)

 ブツブツ考えていても仕方ない。隣で「そんなに行ってたかなー?」と不思議そうにしている沢村を見ながら、ため息を呑みこんだ。

「そろそろお昼ですね。どこかに入りましょうか?」

 本心では、こんなオジサンと一緒にランチなんてしたくない、と思っている。が、誘わないわけにはいかない。午後はもう一社、一緒に回らなければならない代理店がある。

 しかし沢村は困ったような笑顔になり、周囲をキョロキョロ見回した。都心のオフィス街。こじゃれたカフェがあり、ランチをやっている。香奈枝は行ったことがある。サラダとパスタのプレート、パンとデザート、コーヒーがついて、ちょうど千円。この辺りではお値打ちだと思う。ところが。

「あ、すみません。私、持ってきているんで……」

「え?」

「あの、弁当……カミさんが持たせてくれていて」

「は?」

 言われてみれば、沢村のカバンが少し膨らんでいた。

 そういえば沢村は弁当派だった。

 しかし終日外回りの日だとわかっているのに、持って来るなんて……と香奈枝が唖然としていると、沢村は笑顔で、

「あそこに公園があるようなんで、私、そこで食べてきます。幸いいい天気ですし」

 そう言って、その公園らしき緑の多い広場を指差した。確かに数人のOLがベンチに座って食事をしているのが見えた。

「だから来生さんはどこかお店で食べてきてください。一時にここで待ち合わせして……それとも、来生さんもコンビニかどこかで買ってきて、一緒に……」

「やっ!」

 思わずイヤだという本音が声に出たが、堪えた。

「……や~……私はちょっと連絡もあるので、ちょっとそこに入って来るわ」

「はい、では一時にこちらで」

 イヤだという本音に気づかれたか否か。沢村はニッコリ微笑んで、香奈枝に会釈をして公園へ向かって行った。

(まさかお弁当持参で営業に回ってるとは……)

 香奈枝は逃げるようにして、すぐそばのカフェに入った。二階の店内はまだ混んではおらず、香奈枝は外が見える席へ通された。「本日のパスタランチ」を頼む。

 ふと落ち着いて、水を飲んでから外を見ると、ちょうど公園が真向かいにあった。するとさっき別れた場所からさほど遠くない場所のベンチに、沢村が座っているのが見えた。

(わー)

 見たくはない。しかし席を移ろうにも、香奈枝が入店した直後に近所のOLが数組入店しており、席がほぼ埋まりつつあった。

 諦めた。

 どうしても目に入ってしまうから、見てしまう。沢村はニコニコしながら、カバンから包みを取り出していた。包みの他には、おそらく茶が入っているであろう携帯マグも。

(カバンが膨れるはずだわ……)

 包みを解くと、アルミホイルで包まれた塊が、三個出て来た。遠くからでもわかるほど大きい。沢村はそれをうれしそうに剥きだす。

(あれ、まさか……)

 出て来たのは案の定、おにぎり。

(遠足かっての)

 ため息が出た。

 香奈枝にとって、外回りの楽しみのひとつがランチ。落ち着く店、おいしい店、たまには贅沢ができる店など、色々ピックアップしてある。

(大野ちゃんとのランチは楽しかったのになぁ)

“授かり婚”をして辞めていった後輩。こうして外回りがランチタイムに差し掛かった時は、ちょっといいお店に誘っていた。たまにしか無いことだし、香奈枝としてはいい店を教えたつもりだった。

 また彼女は、香奈枝の話をよく聞いていた。かわいい後輩だった。

 そういえば沢村とランチタイムが重なる外回りが一緒になったのは、この日が初めてだった。

(もっとイイ人が来ると思っていたのにねー)

 運ばれてきた前菜のサラダを突きながら、香奈枝は思い出していた。

 前職は商社だが、その前まではずっと外資系の生保会社に勤務していたという人物を採用したという話に、職場は盛り上がっていた。

 生保知識がバッチリなのは当然として、永く米国本社に駐在していたという話。もちろん英語はペラペラ。年若い妻がいるという。

 前職場を辞めたのは、欧州への異動を命じられたからだと聞いた。妊娠初期の妻に切迫流産の診断が出て、海外へ行くのを拒否したのだという。

 その話を上司から聞かされただけで、仕事もできる上に、何よりも家庭を大事にする男性だと想像した。きっと背の高いイケメンだろうという、勝手な妄想まで膨らむ。

 だから本人と初めて会った時の落胆はひどかった。表には出さなかったが。

「自家製ベーコンとキャベツのカルボナーラでございます」

 メインが目の前に運ばれてきた。香奈枝はそれを早速食べようと、フォークを取り出したが、公園の沢村も二個めのおにぎりにかぶりついているところだった。

(奥さんの手作りかしらね)

 あのような包み方をしてあるということは、買ったものではなくて、そういうことなのだろう。

「うえっ」とえずきたくなる。

 香奈枝は手作りのものが苦手だ。実母が作ったおにぎりを食べて食あたりを起こしたことがあり、その時以来。あの時の苦しさは未だに忘れられない。

 母は指輪をしたまま、ろくに手も洗わずにおにぎりを作っていた。しかも真夏だったから、運も悪かったとは思う。

 きちんと消毒して作っているひともいるのだろうが、所詮素人は素人。完全清潔状態を保っている工場で作られたおにぎりには敵わない。味もどうせそう変わらない。

(焼きタラコのおにぎり……)

 ふと、思い出してしまった。あの夜食べそびれて、それ以来忘れていた。

(食べたくなってきちゃった)

 テーブルで湯気を立てているカルボナーラは、確かにおいしそう。だが、口がタラコを求めている。

(タラコのパスタに変えてもらおうかしら……)

 そうは思ったが、すでに提供されたものを取り替えさせるのはあまりに非常識だし、出てくるのは生タラコのパスタで、求めているものと違う。欲しいのは“焼きタラコ”。しかも白米に包まれている、焼きタラコ。

 仕方なく、香奈枝はカルボナーラにフォークを突っ込んだ。

 おいしい。けれど。

(焼きタラコのおにぎり……)

 再度外を見やると、沢村がおにぎりの最後のひとつを頬張っているところだった。

 

 *


「遅いわね。とっくに食べちゃったわよ」


 確かに遅くなった。七時には立ち寄ると言っておいたが、時計は八時。これでも香奈枝にとっては早い方だ。

「メールしたじゃない」

「知らないわよ」

 知らないわけがない。確かにこの母にメールを出した。スマートフォンに履歴も残っている。しかし「機械に弱いから~」と逃げる実母には何を言ってもムダであることは、香奈枝はよく知っている。

 ドアを開けてくれたのは母だが、「お邪魔します」と言って室内に入った。

 ここは香奈枝にとっては“よその家”だから。

 母親はさっさとリビングのソファにドカッと座り込んで、テレビの続きを見始めた。

「おねえさん、いらっしゃい」

「あ、お邪魔します」

 弟の嫁である美沙が、キッチンから声を掛けてきた。

 愛想よく聞こえる声ではあるが、もう永いこと香奈枝とは視線を合わせていない。

「美沙さーん、香奈枝にお味噌汁温めてやってくれるー?」

 母は視線をテレビに向けたまま、美沙に命令した。慣れているのか、美沙は何も返事をしなかったが、ガスコンロを点ける音が聞こえてきた。

「いいわよ、いらない」

「何言ってんの。アンタのためにから揚げにしたのに」

(私の“ため”って、恩着せがましい。自分で揚げたわけでも無いのに)

 美沙が作ったに決まっている。母は料理が好きではない。

 カバンとスーツの上着を、母の座っている横に置いた。すると、

「はい」

 と、やはり視線をテレビに向けたまま、母は香奈枝に向かって右手の平を差し出した。

「あー、はいはい」

「はいは一回だけッ!」

「もーっ」

 子どもの頃からこの説教は変わらない。香奈枝は置いたカバンを開けて、その中から銀行の封筒を出した。中には一万円札が十枚。

「ハイ、どうも」

 母は受け取った封筒の厚さを確かめ、少しだけニヤッとしながら履いていたズボンのポケットに入れた。

「ちゃんと美沙さんに渡してよ」

「はいはい」

 前にここで「はいは一回だけ」と言い返したら、ひどく罵られた。ため息をつこうか悩んだところで、美沙から声が掛かった。

「おねえさん、ご飯準備出来ましたよ」

「あ、ありがとう」

 この家では、食事はダイニングで済ますことになっている。香奈枝がダイニングに入ると、テーブルにひとり分の食事の準備がされていた。鶏のから揚げは視認できただけで三個。少ない。

「すみません。大河が食べちゃって……義明さんもまだ帰って来てないし」

 美沙はよそった味噌汁をテーブルに置いて、またシンクに向かって洗い物の続きをした。

「いいわよ、別に」

 そう言いながら香奈枝がテーブルにつくと、ドタドタと階段を降りてくる音がした。

「おばさん、来た?」

(“おばさん”……)

 別に“おねえさん”と呼ばれたいわけじゃない。今自分は三十八歳。世間的にもおばさんだし、この甥っ子にとってみれば確かに“伯母”だし。

「大河……アンタ、また大きくなってない?」

 そこには十二歳の割には身長の大きな少年が立っていた。

「んなことねーよ。まだ百七十センチだぜ。それよりさ、今度のオレの誕生日にさー……」

「なあに? またゲーム買えって?」

「いいだろー?」

 息子が伯母に無心をしているというのに、その母親は黙って洗い物を続けている。まるで無関心のよう。

「おばあちゃんに頼みなさいよ」

「だってばーちゃん、そのゲームのこと知らないんだもん」

「私だって知らないわよ……」

 前に頼まれた時は、現金を渡した。しかし「それはやめてくれ」と、弟にたしなめられた。

 だからその次は、職場の後輩に買ってきてもらえるように頼んだ。先日辞めた大野はゲームに詳しかったから助かった。香奈枝ではゲームのことはわからない。

 大河は駄々っ子のように食事を始める香奈枝におねだりをしているが、すでに香奈枝と変わらないほどの身長だから、香奈枝にはおかしく見えた。

(あの子、大河と変わらない年かしら)

 レイを思い出した。

 しかし大河が大柄だから比較にならない。レイは小柄で、“華奢”という言葉がよく似合う。大河は身長もあるが横にも大きい。

 これは同居している母が甘やかしているため。何度か注意したものの、その度に「アタシの孫はこの子しかいないのよ! アンタが結婚しないから!」と激昂されるから、いつしか言わなくなっていた。

「ねえねえおばさーん……おねえちゃあん、お願いぃ~」

 大柄な小学生男子がクネクネしているのは、おかしいを通り越して気持ち悪い。わざわざ「おねえちゃん」と言い直されたのもおもしろくない。

「一学期の通知表の結果がよかったらね」

「ちえーっ!」

 唇を尖らせて、大河は香奈枝の皿からから揚げをひとつ取って、そこから自室へと逃げて行ってしまった。から揚げは残り二個。

 皿を見て、香奈枝はため息をついた。そして残ったから揚げには手を出さずに、急いでテーブルに出ていた佃煮や漬物で白米を平らげて、美沙の背中に向けて言った。

「ごちそうさま。から揚げは義明にあげて」


 父が死んだのはもうずいぶん前になる。

 香奈枝が社会人になったあたり。風邪がなかなか治らない、肩こりがひどい、咳が続く……と病院に行ったら、末期の肺がんだと診断された。

 手術をできる段階ではすでになく、放射線治療も効かなかった。しばらく自宅療養をしていたが、病気発覚から三か月経つか経たないかのあたりで呆気なく他界した。

 この時いくつか入っていた生命保険から、思った通りの保険金が下りなかった。

 ずいぶん前に加入した保険で、内容がその頃のがん治療にそぐわないものや、約款が変わったものがあったためだった。もちろん変更があった時は連絡があったろうし、新しい保険が発売される度に説明を受けているはずだが、母は「聞いていない」と言い張っている。

 香奈枝が生命保険会社である現職場に転職したのは、その時のことが大きく影響している。

 自分が今の会社に転職した頃、当時就職したばかりの弟が結婚。やがて美沙が妊娠し、母と同居することになった。

(だから美沙さんに感謝はしてるんだけどねー)

 あの歯に衣を着せぬ物言いの母との同居は、さぞしんどいだろうと思う。だから月十万円を母の生活費として、それを渡すために立ち寄っている。

 その時に食事をしなければならないのが、どうにも居心地が悪い。美沙はともかく、母や甥が待っているから仕方なく行っている。弟がいればまだマシだが、この時間に自宅にいることの方が珍しい。

(何のために寄っているのやら) 

 駅に着いたとほぼ同時に、スマートフォンがメールを受信した。

 見ると液晶画面に“水嶋孝”と出ていた。若い恋人。

『今日これから会えない? さみしいんだ』

「ウッフッフ」

 思わず顔がほころぶ。「いいわよ」とわざと素っ気無い文面の返事をして、香奈枝は改札に吸い込まれて行った。

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