ピーポー・イン・ザ・バボー
ハットリミキ
第1話 おにぎりを食べたい女と人型を描く少年
来生香奈枝は、深夜の路上で立ち尽くしていた。
(あれは、何をやってるの?)
誰もいないと思っていた。
(だって、今、二時十五分よ? 昼間じゃなくて、深夜の)
深夜の二時十五分。真夜中。それなのに突然、おにぎりが食べたくなった。
具は焼きタラコ。絶対に焼きタラコ。
仕事帰りに恋人と飲んで、遊んで、帰宅した。駅からの途中にあるコンビニエンスストアにでも寄ってくればよかったが、その時は食べたくなるなんて思ってもいなかったからタクシーでまっすぐ帰った。
何がきっかけなのかはわからない。ただシャワーを浴びていたら、ふいに食べたくなった。
三十八歳、OLのひとり暮らし。基本的に自宅では食事をしない。米など買っていないから炊けない。そもそも炊飯器が無い。当然冷蔵庫にはタラコも無い。
(ガマンできない……)
よって、買いに行くしかなかった。
スウェットの上下――格安量販店で買ったものではなく、ブランド物――で身を包んだが、化粧は省略した。サングラスとマスクで誤魔化せる。三十八歳ではあるが、誤魔化せるはず。
やはりブランドもののスニーカーを履いて、外に出た。
季節は春。桜が散ったばかり。
マンションの出入り口がある北側には、片側一車線の道がある。この時間はすでにバスは終わっており、通る車もまばらになっている。時折タクシーや、マンション南側の大通りと間違えたトラックが通るくらいで、通行人はほとんど無い。
そこから東にある駅に向かって、マンション敷地に沿って歩く。
その途中で、香奈枝が住んでいるマンションと隣のマンション敷地の間にある一車線を通って南下する。
その一車線の途中にバス停がある。
このバス停は比較的小型である循環バスのためのもので、マンション南北の大通りにあるバス停よりは、発着が少ない。いつから置かれているのかわからないが、古ぼけた色合いのベンチが置いてある。
その通りを抜けると、マンション南側の大通りに出る。こちらは片側二車線の幹線道路で、交通量も多い。駅に向かってしばらく歩いたところにコンビニエンスストアがあり、逆方向へ行くとファミリーレストランや大手スーパーが並んでいる。
もっとも日中にこの街にいることが少ない香奈枝は、ここではコンビニエンスストアくらいしか使わない。ファミリーレストランは騒々しくて苦手。
コンビニエンスストアはもう一軒あり、マンション間の一車線を通らずに行けるが、そちらの店の前にはいつも柄の悪い若者のグループがたむろしている。だから香奈枝は、前者の方をよく使う。
この一車線はバスが運行しない時間だと、ひどく静かな道になる。
深夜にコンビニエンスストアに行く時は、好都合の道程。朝の通勤時にも使うが、深夜に限って言えば、これまでそこでは誰とも会ったことは無かった。
なのに、この夜は誰かいた。
車道のど真ん中。そこでしゃがんでいる者がいた。
(具合でも悪いのかな……まさか死体とか?)
ひき逃げにでも遭ったのかもしれない――と思ったが、たいていの死体は横たわっているものであり、しゃがんではいない。それにそれは動いていた。
おかしなひとだ、と判断した。
北の通りに戻ってもう一方のコンビニエンスストアに行くことにした。ところがそちらまで行ったはいいが、店の前付近にはいつもより多くの若者が集まって大騒ぎしていた。
(よく通報されないわね……)
苦々しく思いながら、自分が通報しようとまでは思い至らない。面倒だから。香奈枝は諦めて引き返した。
途中のバス停のある一車線を見ると、向きは変わっていたが、やはり何者かがしゃがんでいた。大人ではないようだった。
(男の子かな?)
こんな時間だから女の子だとは思えない。
関わるまいと引き返そうとした時、何故この時間に出て来たのかを思い出してしまった。
(焼きタラコのおにぎり!)
このまま帰って眠ってしまえばいい。コンビニエンスストアには、明朝に行けばいい。
しかし食べたいのは、今。
(絡まれないといいけど)
決めた。
早歩きで通り過ぎてしまえばいい。何か声を掛けられても、聞こえなかったふりをして。そこまでしてでも、焼きタラコのおにぎりを食べたい。
香奈枝はバス停のある一車線に入って行った。
その何者かは道の真ん中よりも、バス停のベンチ寄りに居た。香奈枝は反対側である右手を、足早……どちらかと言うと小走りで、進んだ。
(見ちゃだめ、見ちゃだめ)
目が合うと暴れるタイプの変質者かもしれない。心臓の動きが早くなった。
しかし何事もなく通り過ぎることができた。
少しだけ、ほんの少しだけ横目で見たら、まだ幼そうに見えた。
ボサボサの茶色い髪は、後ろひとつに束ねられていた。黒い長袖Tシャツ、それに迷彩柄のカーゴパンツを履いている。足元はビーチサンダル。長袖Tシャツが大きめらしく、それから伸びる首や手首は白く細かった。
彼は香奈枝には無関心で、香奈枝を見ることはなかった。
(いくつくらいかな?)
完全に離れて南の公道に出てから、そんなことを考えた。小学生の高学年にも見えるし、あんな中学生もいるだろう。
(孝くんと同じくらい……ってことは無いか)
恋人のことを思い出した。年下の恋人。医師になるべく勉強中。童顔で身長もあまり高くは無いせいで、中学生に見られることがあるらしい。
ちなみに、さっきまでデートしていた相手は違う恋人。そちらは外資系商社のサラリーマンで、四十歳。大学時代のサークルの先輩で妻子持ち。
(隆さんのお子さんよりは大きいかな)
孝と隆で、ふたりの恋人は名前の読み方が同じ。ただの偶然だが、香奈枝には都合がよかった。ベッドで名前を呼ぶ時に間違えずにすむから。
隆に子どもの写真を見せてもらったことがある。十歳だと言っていた。地域のサッカーチームに入っていて、泥だらけのユニフォーム姿で写っていた。顔は思っていたよりも隆に似ていなかった。
いろいろと思考を巡らせている間に、コンビニエンスストアに着いた。
店の中には店員が二名と、客が三人。男女のカップルと、作業服の中年男性。三人とも雑誌コーナーにいて、中年男性は肌色の本を熟読中だった。
この店には、何度も足を運んでいる。だから何がどこにあるのかも、だいたいはわかっている。香奈枝はおにぎりのコーナーへまっすぐ向かった。
(あれ?)
無い。
おにぎりコーナーが品薄になっていた。そして欲しかった焼きタラコおにぎりの値札の付いた棚は空っぽ。
(そんな)
そういう時間帯なのか、残っているおにぎりは牛肉しぐれが二個と、鮭が三個。あとは銀シャリが二個のみだった。
生鮮コーナーを見るとタラコがあった。レンジで温めれば食べられる白米も売っている。海苔だって塩だってある。
(でもそういうことじゃないのよ!)
香奈枝は誰かが握ったおにぎりが苦手で、それは自分が作ったものも含まれる。
仕方なく、牛肉しぐれと鮭のおにぎりを一個ずつカゴに入れた。そしてペットボトルの日本茶を持ち、レジに向かった。
レジには長髪を後ろに縛った、若い男性アルバイトがいた。「うっす」「あざっす」くらいしか言わないのは知っている。
おにぎりが何時ごろに来るのかを知りたかったが、まともな会話が出来るかどうかわからなかったから、あきらめた。
「あざーっした」と言われながら、店を出た。目の前の公道をトラックが数台過ぎて行った。
(さっきの子、まだいるかしら?)
もう居なくなっていればいいなと思った。こんな時間にあんなところで何をやっているのかは知らないが。
(どうせまともな子じゃないわよ)
香奈枝は、生命保険会社で働いている。
顧客のところに直接出向いて保険商品を売る、いわゆる“セールスレディ”ではなく、代理店に所属する“セールスレディ”……保険のおばちゃんたちのもとへ行き、営業支援をする。営業に使うためのマスコットなどの商材を手配したり、新しい保険が出れば誰よりも早く勉強してセールスレディたち相手に研修をしたり。彼女たちが取ってきた契約を本社で手続きをするのも、大事な仕事のひとつ。
香奈枝は特に評価されており、同期女性陣の中でただひとり、課長代理の肩書きを持つ。香奈枝もまた会社に貢献していると自負している。
彼女だけで個人客宅に行くことは稀だが、時折セールスレディに付き添って出向くこともある。
先日行ったある家の子どもと、路上の少年が似ているような気がした。
中学生。いじめに遭ったとかで自宅に引きこもっている。そんな不安を抱えた中、一家の大黒柱である世帯主にがんが見つかった。
がん保険には入っていたがそれが数年前の古い商品であり、同じがんでも症状やステージによって保険金が出るか出ないかの差があった。今回は運が悪かったパターンで、保険金が下りないケースだった。それで「説明が無かった!」とご立腹の客先へ、担当のセールスレディと共に出向いたのだった。
客を宥めながらなんとか説明をしていたが、突然部屋から出てこないはずの息子が何故か出てきて、
「とっとと金出せばいいんだよ!」
と、ナイフ片手に怒鳴ってきた時は、かなり驚いた。
そのおかげで色々うやむやになって、クレーム自体は落ち着いた。
(どうせこんな時間にうろついてるなら、学校も行ってないようなニート君でしょ)
マンションが近づいてきた。
(え……)
香奈枝は息を呑んで、立ち止まった。
少年は、まだいた。そして道路に仰向けに横たわっていた。
(やだ……今度こそ車に轢かれちゃった?)
香奈枝のいる方向に、少年の脚が二本、伸びていた。両腕はバンザイをしている。いわゆる“大の字”に近い形。
(あれ?)
その少年の右手が動いているのがわかった。よく見れば胸部が動いていたし、街灯が反射したのか目が光って見えた。生きている。
彼が何をしているのか。まったく見当がつかない。
絡まれたら嫌だから、遠回りになるが別の通りから帰ろうかと思った。が。
(何でそこまで私が気を遣わなきゃいけないのよ?)
突然腹が立ってきた。
何かあれば逃げればいい。走るのはどちらかと言えば早い。ケータイも持っている。その時こそ堂々と通報すればいい。そう思って香奈枝は、再び自分のマンションへ向かって歩き出した。
堂々と……しかし彼からより遠く、道路の端っこ、マンション寄りを早歩きで。
開き直ったものの、心臓が高鳴っているのが自分でわかった。早く通り過ぎたいが好奇心がひょっこり顔を出す。
(えっと……何をしているの?)
見ないようにしているつもりが、ついつい見てしまう。
少年の右手が動いている。自分の頭のあたりで何やらゴソゴソしている。
(あ、いや、見ちゃダメよ)
香奈枝はそこには誰もいないものとして、彼の横を足早に通り過ぎようとした。横とは言っても、二メートルほどは離れている。彼は道路のど真ん中で横たわっている。
「あっ」
不意に声が聞こえ、そちらの方を向いてしまった。
小さな声と共にコロコロと何かが転がってくる気配がした。
チョークが香奈枝に向かって転がってきていた。それはおそらくは少年が持っていたもの。それが手からこぼれ落ちたのだろう。
(ちょ、チョーク?)
ずいぶん懐かしいものがと思った。学生時代に見て以来。もう何年前になるのやら。
「あ」
また声が聞こえた。チョークからその声の主に視線をやると、少年がこちらを見ていた。大きな目がキラキラと潤んでいる。
(キレイな目)
そう思った。
同時に(普通じゃない)とも思った。何が普通で、何がそうでないのかは説明できないが。そもそもこの時間にそこで横たわっているだけでも、香奈枝にとっての“普通”ではない。
「あの」
「!」
少年は香奈枝を凝視して、その姿勢のまま声を出した。
「チョ……」
「えっ?」
「チョーク……」
「チョーク? あ、これ?」
チョークは転がって、車道の端に到達し、すでに香奈枝の方が近かった。つまりは拾えということなのだろう。
(何よ。「拾ってください」でしょうに!)
憤慨はしたが、やはり普通ではない相手に、少しだけ恐怖を感じていた。香奈枝はとっととそれを投げて渡して、すぐさま走って逃げようと思った。
「え……」
足が止まった。
少年が何を書いていたかが、わかってしまったからだった。
(これって……)
香奈枝はテレビドラマの中でしか観たことが無い。刑事ドラマなどでよく観るもの。
(死体を囲っているあの……)
それ自体の正式名称を知らない。死体を運び出した後もそこにあったことがわかるように、チョークなどで描く人型。それが少年の周囲に描かれていた。
「な、何やってんの?」
思わず声が出た。気味が悪いと思うと同時に、その理由を知りたくなったから。
「何って?」
「……だ、だから……何やってんのよ?」
「線を描いてる」
「線?」
確かにその通り。けれど香奈枝の訊きたいことはそこではない。
「見りゃわかるわよ。そうじゃなくて、なんでそんな……」
そこにエンジン音が聞こえ始め、その方向を見ると眩しい光に目が痛くなった。車が来た。
少年はガバッと立ち上がり、香奈枝の隣に駆け寄った。香奈枝は驚いたが、逃げ出さずに済んだ。
車……タクシーは特に減速もせずに走り去った。その通り過ぎるタクシーを見やる少年を、香奈枝は横目で見ていた。風がふわりと彼の髪を揺らす。
路面を見ると、そこには彼の形だけが残っていた。寝ながら自分で描いたためか、彼の体型にフィットしてはおらず、風船のような不恰好な形になっていた。
(何なの?)
香奈枝が口に出さずに思ったことを感じ取ったのか、少年は香奈枝を見上げて言った。
「これ、オレ」
「えっ?」
「オレの居た跡」
「はあ?」
意味はわからないが、その自信たっぷりの表情に何も言えなかった。しかしそこで、“グウ”という低い音がした。少年の腹の音らしい。「えっ、あっ」と彼は慌て出した。
「……あんた、お腹すいてんの?」
彼は黙ったまま、コクンと頷いた。
その様子が子どものままでかわいらしい。しかもよく見ると、少年は整ったきれいな顔をしていた。
香奈枝は自分がレジ袋を持っていたことを思い出した。自分の空腹はどこかへ行ってしまっている。
「ねえ」と声を掛けると、彼は不思議そうな顔で香奈枝を見た。
「これ、食べる?」
「えっ」
すぐそばのバス停に、三人掛けのベンチがある。
香奈枝はそちら側へ歩き、その端っこに座った。そして少年に向かって手招きした。
彼は驚いた顔をしていたが、ゆっくり香奈枝の座っているベンチまで来て、ひとり分空けて、反対側の端に座った。
香奈枝はレジ袋の中から適当におにぎりをひとつ出して、彼に向かって差し出した。
「ほら」
少年は香奈枝を少し警戒しながらも、恐る恐るおにぎりに手を伸ばした。そして香奈枝の手から奪うように取ると、袋をバリバリと開けて食べ始めた。
獣のようだと思った。
(「いただきます」も言えないの?)
腹立たしくはあったが、そこで注意してウザイとか言われて、隠し持っていたナイフで刺されてはたまらない。持っているかはわからないが、持っていないとは限らない。しかし名前くらいは聞いてもいいだろう。
「あんた、名前は?」
「むが?」
喉につかえたらしい。慌ててレジ袋からお茶を出した。
「レ……レイ」
「レイ?」
少年はおにぎりにがっつきながら、そう答えた。
「レイ。どんな字を書くの?」
そう聞くと、彼は眉間に皺を寄せてしばらく考えていた。が、途中で諦めたようだった。
「知らない」
「知らないって……自分の名前なのに」
「いいじゃん、そんなこと」
たしかに。香奈枝にとってはどうでもいいことだ。
夜中に焼きタラコのおにぎりが食べたくなってコンビニエンスストアに出掛け、その途中で彼を見かけた。車通りの少ない車道に寝そべり、自分の周りにチョークで線を引いていた。殺人事件などで警察が遺体のあった場所を記しておく、あの現場保存のための。
空腹な様子だったから、買ってきた牛肉しぐれと鮭のおにぎりを一個ずつ、そしてペットボトルの日本茶をすべて与えてしまった。食べたいと思っていた焼きタラコが無かった以上、何もかもがどうでもよかった。
ただそれだけのこと。
目の前をトラックが通り過ぎた。
「あーあ」
レイが車道を見て、がっかりしたように言う。レイの視線を追うと、路面に描かれた人型が薄くなっていた。
(だからあれは何なのよ?)
どうでもいいことだがそう思うし、何度か訊いたが返事は要領を得ない。
「オレが消えちゃった」
香奈枝に聞かせているのか、ひとり言なのか。判断しかねる大きさで彼はつぶやいた。
(あれが自分だなんて……気味が悪い)
チョークで描かれた人型など、“死体のあった場所”としか考えられない。
(え。まさかこの子、幽霊なわけじゃ……)
ここで交通事故があって、車に轢かれて死んだ子では……しかし見ると、ちゃんと足はあった。カーゴパンツから、細い足が出ている。それは見かけた時にすでに認識していたはず。
(うん、まさかね)
バカなことを考えた。
レイはいきなりピョコンと立ち上がった。
(!)
香奈枝の驚きなど気にしていない様子で、彼は再度車道に出た。そして中央に寝転がり、その状態でポーズをとった。
走っている姿のように見えた。右側を下にして左足を前、右足を後ろに交差させ、右腕を頭側に置く。そして自由な左手をポケットにやり、チョークを取り出した。そうして自分の周りに線を引きはじめた。
(またはじめちゃったよ……)
線を引くレイの顔が真剣そのものだったから、帰るタイミングを失ったように感じた。
だがやがてまたすぐに描きづらそうな体勢になった。足元の線は、寝転がったままでは描けない。なんとか上体を起こして描いて、再度横になる。今度は頭よりも高いところに位置した右手のあたりが描きづらそうだ。
「んっ、んっ」
苦しそうな声が漏れた。その声が何とも切なかったものだから、香奈枝はつい声をかけてしまった。
「あ、あのさ」
レイは横たわったまま、その丸い瞳で香奈枝を見た。無表情。
「あたしが描いてあげようか……?」
何故このようなことを言い出したのか、香奈枝は自分でもわからなかった。
レイも呆気にとられた顔になっている。
「ほ、ほら、横になったまま描くってのは、やっぱ無理じゃない? あたしが代わりに描いてみようか?」
何故言い訳をしているのか。頭と口が繋がっていない。自分でも不思議な感覚だった。
一方レイは上体を起こし、黙ったまま香奈枝を見上げていた。何か考えている顔のようにも見えるし、考えていないようにも見えた。
「ほら」
チョークを受け取るために、香奈枝はしゃがんで手を差し出した。レイはビクッとその手を避ける様子を見せたが、少しだけ考えてすぐに、持っていたチョークをおそるおそる香奈枝の手のひらに載せた。
「さ、描くから寝ていなさい」
受け取った香奈枝は、レイの体を包み込むように線を描き始めた。レイはそこで身動きひとつしないままでいたが、瞳はキュッと香奈枝に向けている。
(見られてる……)
緊張した。
香奈枝はレイの体にそって、ジリジリとゆっくり線を引いていった。引いている間に、緊張が徐々に落ち着いてきた。
レイの身長は百五十ほどだろうか。それでも手足が伸びていたから、結構な長さの線を書いた。
「……できた」
ホッとした息と一緒につぶやいた。それを聞いたレイはピョコンと立ち上がり、香奈枝とは別の方向から地面を見下ろした。
「これ……オレ?」
「でしょうよ。アンタをなぞって描いたんだから」
懐疑的な言葉に香奈枝は思わず言い返した。が、彼女の言葉の棘など届いていない。
「すげえ! そっか。これがオレのカタチなんだ!」
うれしそうに、レイは路面に描かれた自分を見ていた。
(こんなのがうれしいの? ヘンな子)
そうは思ったものの、自分が手伝ったことを喜んでもらえるとうれしい。仕事と同じ。自分が携わった仕事を喜んでもらえると、うれしい。
「あ」
そうこうしているうちに、遠くからエンジン音が聞こえてきた。その方向を見ると、大通りからこの道に入ってくる車のヘッドライトが眩しい。
ふたりで再度バス停に逃げた。大きなトラックが通り過ぎた。しかも二台。そして通り過ぎてしまうと、やはり路面に描かれたレイの人型は崩れかけていた。
「あーあ。オレ、ぐっちゃぐちゃになっちゃった」
彼はそう言って、香奈枝に笑って見せた。
考えてみればおにぎりのお礼も、「いただきます」「ごちそうさま」、そして代わりにチョークを持ったことについてのお礼も無い。失礼極まりない。汚い言葉で言うとするなら、“クソガキ”。
けれどその笑顔が、香奈枝にひどく魅力的に見えていた。
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