不適合と異常の薔薇の木

@kiku0713

手記

 あの窓に映る景色より美しいものを、かつての私は見たことがありませんでした。切り立った崖に背を預けたこの家の近くには、民家どころか、木もガス灯もありませんでしたから、宙と海を隔てる水平線と、穏やかな海、その上を流れる雲だけがこの窓に映っていました。海面はきらきらとこちらに笑いかけ、耳を澄ますと遠くの波音が鴎と一緒にやってきます。狭く空っぽな家で、それらと食事をし、本を読み、床に就き、その最中に海のことや、先の見えない未来のことを考えるのが好きでした。そんな代わり映えのない日々をずっと送っていました。

 しかし、もう私はこの海を見たくありません。なぜならば、海はもう、私に笑いかけてくれなくなってしまったからです。あの日を境にこの窓に映る海は、いつ私を飲み込むかわからない、「灰色の何か」に代わってしまったのです。

 私から、「日常」は奪われました。

 これを書き終えたら、私はその「灰色」の中に吸い込まれに行こうと思います。それでは、さようなら。


                *****


 初めて青年が家を訪れたときは、それは驚きました。ささくれだっていて、色の地味なドアを開けた先に、私と同い年くらいでありましょうか、そして深雪のように透き通る肌をしていて、袖の短い服から長く伸びる腕と、高い鼻筋の上にある瑠璃色の瞳。それを覆うかのようにしてシンメトリーに生える白銀の長い睫。一言で言えば、とても顔立ちのよい、知らない青年が立っていました。優しく頬をかすめる青臭い風が、いつもは潮風を届けてくるのに、今日は少ししょっぱさの多い、でも爽やかな汗のにおいも加えて吹いてきました。

 青年は、底知れない深みというか、落ち着きのある鉛色の少し長めの髪を左手で耳にかけ、窓から見える海のように、いいえ、それ以上にきらきらと笑いかけました。ドアの外と内で、世界が分断されたかのような錯覚に陥ったのを覚えています。一方はみずみずしく透明で清らかなのに対し、一方はこの世の闇をかき集められるだけかき集めて、さらに煮詰めたようなのです。とても双方が同じ空気を吸って生きてきたのか問いただしくなるくらい青年は美しく、妖艶でいたのです。

 私が間の抜けた顔で青年の滑らかな肌をじっと見ていると、青年は私が自分を怪しんでいるのかとでも勘違いしたのか、何やら慌てて口を動かす姿ではっとさせられました。どうやら青年は、私の数少ない「ご近所さん」だそうなのです。といってもこんな場所にある家ですから、一般的に言うそれとは距離感が可笑しいものでしたが・・・。そして青年も私と劣らず変わり者とでも言うべきか、奇妙な場所に住んでいるようでした。この家の建っている崖に続く坂に沿って下り、左手に続く蚤の食道くらいに細い小道の先にある丘を二つ超えて、最後に腐りかけの橋が架かった川を渡った先の原っぱで、羊飼いをしていると言うではありませんか。(私は羊飼いというとどことなく垢抜けないイメージを持っていたのですが、それをまるっきり覆されたと思いました。)

 青年は以前からまちへ行くときに、坂道まで出たところで、崖の上のこの家が気になっていたそうです。だから、今日勇気を出してどんな人が住んでいるのか確かめに来てみたと私に言いました。

 私は、青年のその純粋な興味と、それに従った行動が嬉しかったです。実家を出て、この地へ引っ越してきて一年以上経ちますが、新しい地であることに加え、まちまで離れており、更に職も持たずに生活してきたため、人間関係が希薄と言うそれ以前に全くありませんでした。どれくらいかというと、買い物の際でしか声を発しないくらいで、この前白パンを買おうとしたとき、「一つください」という一言さえ、声帯が衰えて言えなかったのです。それ以来、私はどこか心の中で話し相手がほしいと思っていました。

 そんな哀れな回想を青年はきっと知らないでしょう。陽の当たらない土の中で過ごす幼虫の気持ちを彼は味わったことがないでしょうから。加えて私の場合、地上への出方も忘れるし、蛹になってもきっとその瞬間からどろどろの体内を徐々に、徐々に腐らせていくのです。全てが腐りきったとき、それは思うでしょう。「自分の人生は何だったのか。」と。でも、そんなことをしても無駄なのです。誰も自分の場所を知らないし、誰も自分を必要としませんから。

 事実、職にも就かずに、日々を親の脛をかじることで成立させる異常な自分を、社会は必要としませんでした。

 青年は、私にとってさながら防腐剤というような存在でしょうか。いえ、私はもう腐りきってしまっているでしょうし土の中の、私を分解してくれる微生物でしょうか? 私には十分な語彙力と文才がありませんから、そんなわかりにくい上につまらない例えしか思い浮かばないのが、なんだかとても惜しいです。

 すると青年が、ぱっと右手を差し出しました。少し骨張った手には、ちょうどリンゴやオレンジがお腹いっぱい食べられそうな量が入ってもまだ少し余裕がありそうな小麦色のバスケットが握られています。青年は照れくさそうにはにかむと、

「お近づきの印に・・・」

とどこか安心するような暖かみを持った低い声でそう言って渡してくれました。

 越してきてから、何かを分けてもらえたことは初めてでした。ついでに言うのであれば、私の家を訪れたのも彼が初めてでした。受け取ったときのその重みが、良くも悪くも今も頭に残っています。きっとあのバスケットを用意して、適当に物を入れ込めば、ぴったりあの時の重さにすることができる自信があります。

 私はすぐその中身を見たかったのですが、もらった手前でしたから我慢しました。実際、受け取ってから視線をちら、と移してみたのですが、中身は梱包されていて、知る術がなかったというのが正しいところです。すると、青年は私の気持ちを察したのでしょうか、

「中身は羊肉なんですよ。ああ、でもさばきたてのものですし、氷も入れてありますから、傷んでいないと思います」

と、柔らかい物腰で少しのイヤミもカンジさせずにそう言いました。

 それから私は、図々しいことだと承知はしていましたが青年ともう少し話がしたいと思ったので、中へ上がるように進めました。青年は初め、戸惑っていましたが私がもう一度勧めると、申し訳なさそうに上がりました。そんな顔を見てしまうと、私の方が申し訳ない気持ちにもなりましたが、その瞬間は、中と外の世界が融合された時なのです。

 それから私は、初めて一人でしか使うことのなかった、器の中に花畑が咲き誇る絢爛なティーカップを二人分出しました。それに、まちで買ったばかりの紅茶の茶葉の入った缶を開けて、熱い紅茶を注いでから出しました。紅茶を蒸らしていくとき、青年が腰かけるイスから見える窓の外を眺めているときに、まだ少しだけ重みのあり、さらさらと愉快な音を鳴らす、虫が食ったように茶色く錆びかけた茶葉の缶をほとんど使わずにしまい込まれた調味料を入れた引き出しの中へ忍ばせたのが、今となっては馬鹿らしく思えます。


 細脚の円形テーブルの上に、花畑が向かい合って二つも咲き誇るのがとても新鮮でした。お茶を嗜みながら、様々なことをお話ししました。確か、一番はじめに話したのは紅茶の話です。とにかく、あまり当たり障りのない話を、久しく対人関係で使われることのなかった頭を回して回して、三半規管がいかれるくらい回して選びました。確か、私はアールグレイ、青年はダージリンが好きという話だったように思います。今となっては頭に残っている、

「そういえば、この国では茶の木を育てられないのに、まちで国産の紅茶が売っていたんです。」

「ふふ、あの茶葉は買わない方が良いですよ。飲めたものじゃありませんから。それにしても我が国は、紅茶の偽物を作るよりもやることがあると思うんですけれどね」

私がどこかで小耳に挟んだ話をすると、青年は若干意味深長なことを言いました。少し気になってどういう意味ですか、と尋ねると、

「どうやら最近まちで誘拐事件が起きているらしくて・・・・・・。決まって若くて美しい女性らしいのですが」

「そうなんですか、生憎世間話などする相手もいませんでしたから今し方初めて知りました」

 冗談交じりに、私も彼の真似をしてふふ、と口元を緩ませました。彼はそれに気付いたらしくさっきよりも大きく笑いました。狭く小さい空間に笑い声が混じることは、きっとこの家も嬉しいことでしたでしょう。

それからと彼は幾らか話をしました。今思い起こすとあまり覚えていないものですから、多分どちらもお互いの生活や性格に深入りするような質問や話題は提示しなかったのだと思います。

 気がつけばティーカップに何度も白い湯気が立ち込め、机上の紅茶用に別に取っておいてあったミルクやら砂糖が底を突きかけ、双方のカップの底にうっすらと茶葉のかすが積もっていました。ティーポットは空になりましたが、私の欲は満たされ(寧ろ溢れていたと思います)ました。その頃にはすっかり日が傾き、部屋は橙のインクを倒した紙みたいに染められていました。青年の肌も、瞳も、バスケットも・・・。

 青年はアッと声を漏らしてイスから立ち上がりました。何か合ったのか尋ねてみると、

「羊にえさをやる時間になってしまいました」

と答えたのを覚えています。


 玄関で、青年に今度に私が何かを作ってお裾分けしに行きたいので、今度家へ伺った柄も構いませんか、と言うと、私の勘違いでありましょうか。一瞬だけ、何と形容すべきか・・・率直に言うと嘲笑している風に見えたのです。

 本能が、目を逸らせと言っていました。

気がつけば視界に彼の姿はありませんでした。いえ、そのいい方は間違っていますね。私はいつの間にか目を反らしていたのです。いつの間にか、橙に染まった、見慣れた部屋が広がっていました。ドアノブを開ける金属音が、あれほど鼓膜に張り付いたことはありませんでした。その一瞬ないだの音がしなくなっても、耳にその音がいやに張り付いて、できることなら鼓膜を取り出してはがしてやってしまいたかったです。

「ああ、そうだ」

 次に鼓膜に張り付いたのは青年の穏やかな口調で忌まれたその言葉でした。恐る恐る、でも、私の中で膨らんでいく恐怖心を青年に悟られないように、ゆがんだ笑顔を貼りつけて、ゆっくりと視線を本来あるべき場所に向けました。

 青年の顔には、何ら陰りもありませんでした。それから、青年は、自分の家へは何があっても来てはいけないと言いました。私は青年がそれを言い終えるまでの間、ただ虚心で青年の瞳を見ていましたが、先程の薄気味悪い顔には一瞬たりとももどっていませんでした。

 しかし、様々な疑問が残ったのは事実です。なぜ家に行ってはいけないのだろうか(そこまで家に行きたかったわけではなかったのですが、頑なに拒否されたため)とか、なぜさっきあんな形相をしていたのか、とか。疑問は止めどなく湧き溢れたのですが、どうせこの家へ来るのも最初で最後であろうし、そうすれば青年のことも薄れていくでしょうから、そこまで問いただす気は起きませんでした。最も、聞いたところでまたあの気味の悪い笑顔が向けられるという恐怖心が大きかったのが一番の理由でしょうが。ですから私は、話に付き合ってくれたこと、それから羊肉の例を伝えると、以を反して

「いいえ、また」

と短い答えがとともに、ドアを閉める音が聞こえました。

 「また」と言う言葉が嬉しかったのは事実です。しかし、それ以上に自信に対する嫌気の方が大きかったのを覚えています。青年の指に、指輪がはめられていないことに、目の前の何かが取っ払われたような安堵感を抱いている自分がありましたから。


 その日の夜、早速いただいた肉を焼いて、火歩く塩と胡椒で味付けして食べました。私はそれまで羊肉を食べたことがなかったので、なるほどめずらしい味だと思い、全部食べてしまいました。元々そこまで大きいと言える大きさのバスケットとは言えず、更にタオルでくるんだ容器の中に氷を入れ、その中に入っている容器の中にはいっていたものでしたから、量は決して多いと言えないものでした。かといって少ないわけでもなく、一人暮らしのみとしては、余らず、ちょうど腹を満たす良い量だったと言えるでしょう。

 豚でもなく、牛でもなく、鶏でもないその味は、とても刺激的でした。ですから、もう一度食べてみたいと思っていた節は、どこかであったのかもしれません。まあ、全てを知り、全てを終えようとする今であれば、そんな気は毛頭起きないのですが。


                *****


 それから、一月ばかりがすぎた頃でしょうか。しばらく雨の降らなかった日が続き、その日はたまたま、雨が降っていたはずです。夕べごろに湿ったドアを叩く、少しこもったように響くノックの音を鮮明に覚えていますから。重たい腰をベッドから起こして、億劫そうにドアを開けた先に青年がいたことには、とても驚きました。

 青年は、相変わらずまっさらなキャンパスのようでした。強いて言うのであれば、前髪が、瑠璃色を少し隠すくらいに伸びていたことでしょう。私はその時自分が彼の前で失態を冒したことよりも、ああ、人形のような彼はちゃんと生きているのか、と思っていました。加えて雨の中訪ねてきたものですから、傘を差していても少しばかり服に細やかな雨粒がついていました。

 青年は屈託のない笑みを浮かべて、無言で、私の方へバスケットを突き出しました。動作とワンテンポ遅れて

「どうぞ、食べてください」

と聞こえてきたので、ありがとうございます、と少しどもりながら礼を言いました。私は、動作と発言があるほんの数コンマの間でも青年は私のことを嘲笑うのだろうかという不安に駆りたてられました。それでもその差し出されたバスケットを受け取ってしまうのは、私がよっぽど出来損ないの人間だからでしょうか。

 どうしようもない私は、青年を家へ上がらないか提案しました。もういちど、二人で話を、花畑を二つそろえたい、と思ったのです。しかし青年の答えは私の期待を裏切るもので、いえ、今日はやめておきますと、控えめに拒否されました。私は負けじとタオルをお貸しします。体が濡れてしまっているでしょう、と加えたものの、青年の答えは変わらないものでしたから、私は前回、それか今の短時間のうちに青年を不愉快にさせてしまったのだろうかと思いました。すると青年はそれを悟ったようにして、

「今日は本当に、時間がなくて」

と幼さの残る八重歯を覗かせて言いました。時間がないのなら、なぜわざわざ雨の中に届けてくれたのだろうと、何かを隠す或はごまかしているのだろうと思いました。しかし、私がそれを追求せず、バスケットを受け取ったのには理由がありました。恐怖心という物も一理あったのでしょう。あの獅子に睨まれるような感覚は、思い出しただけでも全身の毛穴が開くような思いでいます。残りは、優越感を自身の手で壊したくなかったからです。わざわざ雨の中、林道を通って私のために羊肉を届けてくれるなんて、もしかしたらと思ってしまったのです。例えそれが私の自意識過剰であっても、それに出来るかぎり長く陶酔していたかった…。ですからしつこく追求もせず、何もいわずに見送ることにしたのです。

 彼が踵を返したあと、私はやや生暖かく、この前よりももう二個リンゴが入るくらいのバスケットの持ち手を指でなぞりながら、深く息を吸いました。

 仄かに香る、香水のようなにおい・・・・・・。

 もしかするとこのにおいは、と想像を働かせもしましたが、結局それを認めたくなく、現実から目を反らすようにしてバスケットの中身を確認しました。中には今にもはち切れそうなくらいぱんぱんに肉の詰まったソーセージと、この前より少し量の増えた肉塊でした。

 私はその晩、肉塊の方を薄切りにしてまちで買った野菜と炒めて食べました。晩になっても雨は降り続けていたのですが、海の見える方の大きな窓を少しだけ開けていたはずです。遠くからかすかに香る潮と、それを覆うようにして広がる雨の混じり合った独特なにおい。目の前の料理の温かいにおいに、部屋の隅の方から香る鼻に残る甘いにおい…。全てが混じり合って私の鼻腔をくすぐらせたものでしたから、頭は天変地異が起きたときくらいにぐらぐらしていました。

 私はその感覚に浸りながら、そういえばここへ来る前には少しばかりいた友人たちは、いつもアヘンをやっていたと思い出しました。勿論私はやったことはありませんが、彼らはいつも目が何も捉えず、うつろでいて、言動も奇妙なときがありましたから、気が違っていると思っていました。今の彼らが、私を見たらどうでしょう。アヘンも使わずに、たったバスケットのにおいごときで気を可笑しくさせる私を、彼らはどう思うのでしょうか。

 きっと、私も気が違っているのでしょうか。

 私はその思いを封じ込めるように、もらったソーセージは明日の昼にでもポトフーにしようと考えながら夕飯をかきこみました。


               *****


 爽やかな秋晴れの日に、三度目に彼が来ても、二回目よりは驚きませんでした。元々寂れた扉を叩く物好きな人は郵便配達員くらいでしたし、最近では配達員さえ来ない日々が続いていましたし、青年はどちらも月の初めに来ていたことも思い出して、もしかしたら、と思う節があったのです。粗相は見事的中しまして、ドアを開けると青年の姿がありました。青年の肌配変わらず白く、丁度町に出回り始めたマッシュルームみたいな感じでした。丁度笠の部分みたいに凹凸がなく、とても滑らかそうでした。髪は一月前よりやはり伸びており、後ろでちょこんと結んでいるのが分りました。まだ結にして花笠が短いようで、束ねた先がほうきみたいにピンと張っていたのを覚えています。

 ふと、私のやや頭上から(内容は忘れてしまいましたが)話す彼を、見上げてみました。すると彼の目に私が映っているではありませんか。至極あたりまえのことに胸を躍らせました。胸にあるポンプには規定以上の、生気を宿した生暖かい血液が流れ込みます。どくり、どくりと低い轟音が、ずっと私の中で響いていました。

 自分の鼓動がうるさくて、耳をふさいでしまいたいほどでした。彼の話はすっかり耳に入って来ず、不意に目の前にバスケットを差し出されたときには心臓が口から飛び出そうになるくらい驚きました。

 差し出された瞬間かき回されたその場の空気は、やはり甘いものでした。最近まちでよく漂う、流行っているであろう香水の香り…。前回のバスケットに染みついていたにおいとは別のものだとすぐ悟りました。

 その時、どんな肉をもらったのかよく覚えていません。肉塊をもらったのか、調理済みのものをもらったのかさえ。底が抜けた様にして、それを調理したであろう器具や盛りつけたであろう皿を見ても全く思い出せなかったです。ただ、バスケットのことは鮮明に覚えています。何なら、目をつぶっていてもあの形、色、におい…全てを思い出すことができます。

 あの時の私は、こんな今の気持ちを知らないでしょう。ただ彼の視界にほんの少しでも長く私が映ってさえいればいいと思っていましたから。ついでに前から思っていた疑問も思い出したので、彼にそれを自然に聞きました。それはもう、リンゴが木から落ちるくらい自然に。

「そういえば、バスケットはお返ししなくて良いのでしょうか。この前お裾分けしてくださった際に返せば良かったんですが、気が回っていなくて…」

 私は、彼の中で普通の人間として認識されたかったのです。社会から隔絶され、親にも期待なんてしてもらえない自分を、どうか見捨てないでほしかったのです。そしてあわよくば、友人とも恋人とも形容できない「隣人」と言う関係をどうか続けてほしかったのです。

 私はそんな荒んだ感情を抱きながら、彼の左手の薬指を捉えて言いました。すると彼は、少し私から目を離して、私の部屋の方へ少し自然を移したかと思うと、窓の方でしょうか、そちらをぼうっと見つめて、

「ああ、好きにしてもらって構わないよ。使わないものだから」

 と言いました。彼の右手は首元で、耳朶を触っていました。こちらの質問に、答えるのがうっとうしいと言っているような態度でした。彼にとってはどうでも良かったり、もしかすると気分を害するものだったのかもしれません(今思うとただ言い訳を考えるのが面倒だったのではないかと考えています)。しかし、私にとってはどうも疑問が残る物に代わりはありません。この間薄く埃の積もったバスケットを持ってみると、大概がどれも最近造られたもののようなのです。たまに持ち手と籠の部分の境目に、まちではやっている色のリボンがついていたこともしばしばありました。新品なのだろうかとも思いきや、少し傷やささくれが目立つものもありましたから、きっとそうではないのだろうと思います。何故そんな新品ではないが、捨てるにはほど遠いバスケットを返さなくても良い何て言ってぽいぽいとやることができるのか、どうも腑に落ちない部分がありました。

 「何故ですか?」と問うことは用意だったのかもしれません。しかし私はその言葉が出ずにいました。彼に嫌われたり、しつこい奴だと思われたくなかったのかもしれませんが、今となっては、本能的にそんな行動を取っていたのかもしれません。実際、彼の目がどこか、あの時の嘲笑っている風にも見えましたし、いつの間にかバスケットについての「何故」は浮かび上がってきませんでした。

「ああ、そうなんですね」

と物わかりの良い風に、短く返事をして、その日は私もあがりますか、とは聞かずに、私の方からドアを閉めました。


        *****


 海がねっとりとした黒と、どこまでも汚れきった白でできた灰色に見えるようになったのは、あれからバスケットが十ばかり増えた頃でしょうか。あの日を境にして、私の何もかもが可笑しくなってしまいました。映る景色は色を持った灰色になりました。最近は時たま幻覚やら幻聴やらも交じり始めましたし、何よりも食事はほとんどと言って良いほど喉を通らなくなりました。おかげで私の体重は元々重い方ではないのに、二十ポンド以上減ってしまいました。ですから最近は体を起こすのも以前以上にだるく、生きた心地が全くしないのです。

ああ、時を戻すことができるのであれば…。私は一体いつからやり直せば良かいでしょうか。でも、そんな疑問ももうすぐ愚問と成り代わります。早く、これを書き終えてしまおう。


    ******


 勿論、あの日のことは鮮明に覚えています。その日は前日まで太陽が隠れることなく、かんかん照りが続いていたのですが、その日はバケツをひっくり返したような雨が夜中から降りました。特別気温も高かったので、息苦しさと雨音で私は目を覚ましました。ぽつん、からん、と、不規則に窓ガラスに打ち付けられるしずくの音がなんだか愉快で、私はもう一度枕に頭を預けることはせずに、いつしかしまい込んだ開封済みの紅茶の茶葉が入った缶を出してきて、朝が来るまで一人で茶を嗜むことにしました。朝が来たところでこの自堕落な生活は変わりませんし、別に昼夜が逆転するくらい、どうでも良いことでした。

 結局、朝が来ても空の上のバケツの水は尽きることはありませんでした。ざあざあと体となじむような音は、明け方から少し勢いを弱めたくらいでした。

からん、とひときわ高い音が鳴ったと同時に、私のお腹も鳴りました。その音こそ轟音だったでしょう。重たくなり始めた瞼をやっとのように持ち上げて、じっとりと戸棚へ目を移しましたが、小麦もオート麦も、果物も野菜も何一つありませんでした。あったのは、アールグレイとダージリンくらいです。全く、可笑しいですね、彼も私も、何もかも全てが。

 これ以上水で腹を満たす気も起こらなかったので、町に買い物へ

行こうと思い、私は身支度を始めました。


 いつもの通りに向かう途中、ちゃぱちゃぱと水が跳ねる足下と、ぽろぽろと傘にはじかれる雨音、たぷたぷと歩く度に揺れる胃の愉快な三重奏が聞こえたので、めずらしく上機嫌になりました。もしかしたら、左手に彼からもらったバスケットをぶら下げていることも関係しているのかもしれません。

 いつもなら実家からくすねてきた布製のバックを守っていくのですが、生憎持ち手部分が破れて使い物にならなくなってしまっていたので、彼が置いていったバスケットの中から適当な大きさのものを選んで、中に財布を入れて家を出ました。

 選んだ瞬間から、それが三つ目のバスケットだと言うことは分っていました。あの、香りの一番強い張るケットです…。それに、持ち手と籠の境にドライフラワーの薔薇が赤々と燃えているものでした。何故そのバスケットを選んだのか、自分でも良く分りませんでした。捨てることができず、十幾つばかり溜まったバスケットの中で、最も嫌悪感を示している野を選んだのは、ただの自己満足なのかもしれません。それを身にまとわせることで、彼の何もかもを知ったかのようなうぬぼれを味わいたかったのでしょう。そんなうぬぼれは、一言、

「彼があなたの家にいた時間は一体どれくらい?」

と問われれば崩れ去ってしまうでしょう。普段どんな仕草をするだとか、どんな歌が好きだとか、あの時間の中ではそんな簡単なことも見つけられていませんから。


 町へ着いてから、私はまず白パンを買いに行きました。あのパン屋の焼くパンは外れがないのですが、私はいつも決まって白パンだけ買っていました。別にそれが人気名商品だというわけでもないのですが、あの白い記事を見ていると、青年のことも思い出すからでしょうか。(私が白パンを買い始めたのは青年と会うより以前からでしたが、その頃は白パンを見ては青年を連想していました。)

その日は、寝不足と雨音から来る妙な高揚感からか、鎚財布の紐を緩ませてしまい、いつもより二個多く買ってしまいました。店を出たあと、それを熱い紅茶にたっぷりの砂糖を入れて、早く流し込みたいとばかり考えていました。パンと紅茶と砂糖だけでも体に毒だと思い、野菜も買いに行こうと、ここからだとどこの店が一番近いか考えていました。すると、どうでしょう。どこからか、じいっと見られているような気がしました。私は気のせいだろうと自分に言い聞かせましたが、ちくちくと視線が刺さるような感覚がありました。でもそれも無視して、どこも振り向くことなく、歩みを進めました。

 私の勘違いに違いないと願っていたのですが、それは裏切られました。なぜなら、パン屋を出たあと野菜、肉、衣類も買いに行ったのですが、その先々でちくりちくりと視線を感じましたから。私も馬鹿ではありません。移動中や、商品を見ているとき、少しばかりあたりを探ってみました。すると、後をつけ、私のことをじっと見ているのは女の人だと言うことに気がつきました。

 遠目から、しかも私の視線の先を読まれないようにして見たものですから、はっきりとした要旨は分りませんでしたが、女性と言うこと、更におおよそ四十代くらいの方ではないかと推測していました。

 私は店を移りながら、できるだけ人通りの多い道の方へ行くようにしていました。女性が、何故私の後をつけているのが分らなかったので、もし何かが起きたときに人が多い方が当然目撃者もいるでしょうし、止めに入ってくれる人もいるだろうと思ったからです。


 私がこの店で買い物を終えてもまだ後をつけてくるようだったら、直接私の方から話を聞きに行こうと思いました。もう財布も底を突きかけていましたし、模試このまま真っ直ぐ帰ってしまったら家がばれてしまうのを恐れてからでもありました。

すると、突然、

「あのう、その…バスケット…どこで見つけたんでしょうか…」

か細い声が隣から聞こえてきました。突然のできごとに手にしていたトマトが私の手をするりと滑り抜け、地面に落ちました。私がトマトを拾おうとかがんだときも、女性はじっと私を、いえ、バスケットを見ていたのです。白髪だらけのやや乱れた髪で、目は確かにバスケットを見ているのですがうつろでいて、まるで瞳の奥に拭いきれない何かを忍ばせているようでしたから、私はその光景が、何者かに操られている風に見えました。

 食い入るようにまだバスケットを見つける彼女に、もしかしてという考えがよぎりました。このバスケットは彼女の物なのではないだろうか? 特徴的なドライフラワーがあるから、見分けるのも容易かもしれない。そしてある仮説が浮かび上がりました。一つ目はバスケットが女性の物で、何者かに盗まれて紛失していたのを見つけた場合。二つ目は彼女と関係のある人物にプレゼントしたものを、その人物以外が持っているのを見つけた場合。どちらも考えられそうな話ではありますが、そうすると必然的にあることが決定的に裏付けられます。

 青年が、中間に関与している、ということ。

 どういうことなのか瞬時に理解することは不可能で、女性の無言の圧力にもやられ、思わず怯んでしまいました。でも、私はどちらの仮説にせよ青年が何かをしたことに代わりがないことには確信が持てましたから、何が何だか分らなくなって、足下が飲まれていくような感覚に飲まれていって、その場にいるのが怖くなって、落としたトマトのことなんて考えずにもう逃げ出してしまいたかったです。でも、次の女性の言葉が、そうさせるのをやめさせました。

「あなた、娘を知っているの?」

 短く、そう、問われました。気付けばいつの間にか細い腕が方に置かれていましたし、触れられた部分の私の体温は、どんどん奪われていって、血液が逆流しているような不快感と圧迫感がありました。女性の指先から衣服を通してもかすかに感じられる鼓動が、体格に見合わずかなり早かったため、相当興奮していることが分りました。同時に、「娘」と言う言葉が、先程の仮説を崩す代わりに、その主語が「彼女の娘」に代わりました。

「何で…どうしてあなたが娘のバスケットを持っているの? ええ、間違いない、このドライフラワーは私があげたものだもの。紐も、籠の傷の位置だって・・・」

 ブツブツと呟く女性に、思わず半歩下がり、肩の手をどかしました。すると、それがスイッチになってしまったのか、突然耳を劈かんばかりの甲高い悲鳴を上げました。

 道行く人が、ちらちらと女性と私の方を見たり、少し私たちの周りで人が滞っていることに気付きました。私は、もう何が何だか分りませんでした。この状況も、たくさんの光る他人の目も…。仮に、一つ目の仮説や二つ目の仮説が現実だったにせよ、女性のその様子を見ると、どれも不十分な気がしました。最も、人間の物事のとらえ方はその人自身にしか分りませんし、「常識」で言いくるめてしまうには些か不条理すぎます。とりあえず、私がこのバスケットを持っているという状況は、不適切なのでしょう。それしか、分りませんでした。

 いつもより頭が働かないのが、自分でのよく分りました。これまで何か考えると言っても、自分に関係のないことを客観視して最もあり得る可能性を自分のものさしで図って決めていたのですが、それに自分が入った途端メモリが均一でなくなってしまうことに二十幾年生きてきて、今日初めて知りました。「あり得る可能性」事態をどこまでで棒引きするかが、全く分らなくて、いざそれを虱潰しにしていこうとすると、結局どれも似たり寄ったりのものだと気付くのです。その感覚が、今思うと幼い頃目隠しをされて倉庫に入れられて、自力で複雑な鍵を解くような状況と酷似していたと思います。

 はっと我に返ると、女性は少し前からずっと私たちのやりとりを見ていた恰幅の良い女性と、長身の女性なだめられて、私の足下ですすり泣いていました。女性の背中を恰幅の良い女性がさすっていると、すっくと長身の女性こちらへ来て、

「ごめんなさい、彼女、娘さんが行方不明になってからその、気が少し可笑しくなっちゃって…。普段はとてもいい人なのよ」

と耳打ちしました。それが聞こえてしまったのかどうなのか、

「あんたがさらったんじゃないの?」

と、どす黒くねっとりした、殺意の凝縮された言葉が聞こえました。勿論、言ったのは女性です。私は反射的にとでも言うべきか、「このバスケットはいただいた物なんです…ですから私は…!」と必死に弁明しました。できるだけ気を魚でない風に言ったつもりなのですが、どこを間違えたか、女性の気をかき回してしまったようで、「返して!!!! 娘を、ローサを帰してええええええええ」と、絶叫に近い形で叫ばれたときには、もうこの場を逃げようとしか思いませんでした。

気付けば走り出していて、走っている最中にやけに体が軽いことに気付いてからようやくバスケット、傘、買った物全てをあの場に置いて行ってしまったことに気付きました。それでも引き返すことなく、私はある場所へ向かいました。最中、女性の、娘の名を叫ぶ声が鼓膜にべったりと張り付いて、何故だか自然と涙が零れそうになりました。その涙をぐっとこらえようと他のことを考えようとしますが、そうすればそうするほど、次第に水を吸って重くなっていく靴と、泥水が跳ねてすでに膝元まで汚れたズボンの方へ意識が行って、自分が余計惨めであることを痛感しました。

 女性の叫ぶ声が耳からやっと離れたかと思えば、いつしかみたいに、心臓がはち切れそうな程うなっているのが分りました。でもそれが久々に走った所為でないことは、考えなくても分ります。ちゃんと「呼吸」を意識しなければ、それができないのも、ふと何も考えずにいたら行きができなくなったので分りました。まちから家がある崖まで走らずに来たというのに、体温は下がっている感じしかせず、それが雨に打たれた所為でないのも、わかっています。こうやって、分ったことで頭を埋め尽くしていれば気が紛れると思っていました。でも何にも紛れなくて、ついに涙が堰を切ったように溢れ出し、視界もぐらりとゆがみました。

 私は、その時おとなしく家へ帰っていれば良かったのでしょうか。でも、ゆがんだ視界のなかでも、走り出したときからずっと思っていた、『彼にあって話を聞く』と言う目的は少しもぶれませんでした。『崖に続く坂に沿って下り、左手に続く蚤の食道くらいに細い小道の先にある丘を二つ超えて、最後に腐りかけの橋が架かった川を渡った先の原っぱ』に青年はいる…。来るなと念押しされ竹生もありましたが、その時はあの時の恐怖よりも、青年が『何か』に関与しているのだろうかという疑問と恐怖の入り交じった感情を取っ払わない方が怖かったです。

 私はできるだけ、青年の家へ向かう途中暗いことを考えないようにして走りました。もし、青年は私が急に来たことを知ったらどんな反応をするのでしょうか。私はただ、青年に今昨期待ちであったことを全て話して、嘘でも良いのです。嘘でも良いから、いつもみたいにふふ、と控えめに笑ったあとに否定してくれればいいのです。別に伴侶や恋人がいたっていいのです。私は元々、彼と幸せになることとは許されない人物ですし、希望はきちんと捨てておいた方が良いのです。青年が、誰かを誘拐したと言う事実がなければ、全く良かったのです。その事実さえ泣ければ、これは私の脳内劇場にすぎません。そうであれば、時が経てばこんな話、青年にも話せる笑い話になるかもしれません。

 そう考えていたのは、一つ目の丘を越え、二つ目の丘を下っているときでした。ずっと動かしていたかった体は、もうすでに悲鳴を上げていました。肋骨が何本も折れたように肺が痛く、なぜ自分でも脚を動かすことができているのか分らないくらいでした。そのあたりからでしたでしょうか。安堵感と、妙な胸の高鳴りがあったのは。安心感は、おそらく青年が私に伝えた道は、正しいと言うことです。どうしてわざわざ誘拐犯が自分の家を正しく伝える必要があるのでしょう。私だったら、適当にごまかしていると思います。しかし、私は今ちゃんと丘を下っており、その前の細い小道もちゃんと人が通った後があった! …妙な胸の高鳴りは、それが関与しています。青年が一人暮らし、或は家庭を築いているとしても、小道からここまでの道は、明らかに最近、しかも雨が降り始めてから複数人、しかも十名以上の成人済み男性の通った足跡がありました。深くしっかりと刻まれた足跡が、私ガム立っている方向一方香にしかないことからも、青年が何度も往復したという可能性は消されました。水中に沈んだ泥が、小石が投げられたことによって巻き上がるみたいに、次々といろいろなことが頭に浮かんでいきました。


 丘を下りきったところで、少しいった先に川が流れているのに気がつきました。斜め前方に橋も見つけ、ああ、神よ! と、信仰心のかけらも普段は見せないイエスを讃えました。いえ、讃えたのです。わずか数秒ほどでしたが。

橋の先を目で追っていくと、ちゃんと原っぱがありました。確かにあったのです。しかし、底に羊は一頭もいませんでした。かろうじて遠目で分るくらいの、やっとの事で立っているくらいのあばら屋が、ただ一つ、立っていました。

 橋の先を目で追っていくと、ちゃんと原っぱがありました。確かにあったのです。しかし、底に羊は一頭もいませんでした。かろうじて遠目で分るくらいの、やっとの事で立っているくらいのあばら屋が、ただ一つ、立っていました。それだけではありませんでした。あの足跡の正体でしょうか。両手でも数えきれない数の、この節暑い中でも決して誰ひとりジャケットを脱がず、国に忠誠を誓った警察官がいました。

 私が橋の向こうで挙動不審な行動を取っているのを、ひとりの長身でむっくりとした警察官が気付いたらしく、隣の細身の男の肩を二、三回つついたかと思えば、二人がこちらに向かってやってきました。私はその間、きっと逃げることもできたのでしょう。しかし、そんな安易な発想すら青も言うカバないくらい、私の頭はこの状況を飲み込めずにいたのです。私は、次第に距離を詰めてくる警察官を、小説でも読んでいるかのように、何の恐怖心も抱かずに待ち呆けていました。

 きっと、仮に逃げていたとことでもう立っているだけで精一杯だった脚では限界があるとも、心のどこかでは思っていたのかもしれなせん。

 ふと、片方が私に何か声をかけたとき、一気に恐怖がやってきました。私が彼らを恐れた理由は、別に職務質問やらが怖かったのではなく、彼らが私にいとも簡単に全ての真実を伝えてしまうのではないかと言うことに恐怖していました。


 彼らがすべてを語るとき、私は蛇の体内でとかされてゆく蛙の気分でいました。


               ******


 私がどうやって家に帰ってきていたのかは、全く覚えていません。警察の方たちの手を煩わせてしまったのかとも思いましたが、あの時よりも確実に重くなっている脚と、裾が破れたズボンを見ると、きっと自力で帰ってきたのだろうと思いました。気がついたときには、幾らかの思い出が詰まった円形テーブルには花形ケガ一つあるだけでしたが、代わりに水晶みたいなのが幾つも転がっていました。それは、私の視界が一度ぼやけて、また線形になるときには一つ、二つばかり数を増やしているのです。何故、自分が泣いているのかさえ分りませんでした。現実の、無残さにでしょうか。それとも、彼に裏切られたことにでしょうか。それとも、私が今まで食べた肉について、深く知りすぎてしまったからでしょうか。

 ふと、テーブルの上に不規則に散らばったしずくに映る、腫れた目元の男を見て、ああ、私はあちゃんと存在しているんだと思いました。私の体は、存在している。いつだったか、現在の体を構成している物は、自身が二、三ヶ月前に摂取した食べ物だと聞いたことがありました。私が初めてあの肉を口にしたのは、バスケットの数から考えても一年以上前・・・。突如、胃の中から何かわき上がるような感覚に襲われたものの、何も履くものが無かったので、ただ嗚咽音だけが、暗い部屋に響きました。それに、もしも胃の中に食べ物があったとして、それを吐いたところで私の体の一部がなくなるわけではありませんものね。

 確かには雲のはありませんでしたが、遺産が少しばかり逆流して、しばらくすると喉に焼けるような痛みが走りました。・・・彼女たちも、焼けるような痛みを味わったのでしょうか。殺され、犯され、四肢を切断され、ミンチにされ…。ああ、やはり私は取り返しのつかないことをしてしまった。

 十四つのバスケットが、愚かな男を見つめるだけでした。



               ******




 私は、ぴっちりと縦横が揃えられた紙をもう一度頁がそろっているかを確認したあと、つけられた三つ折りの折り目に従って、まず一度指で折り、次にその折り目を爪で擦るようにして唖然対の暑さを均等にし、入れられていた何のおもしろみもない茶封筒へ滑らせた。それから、半歩くらい左にある寝台の足下の方へそれを投げた。さてこれから一眠りしようかと思って、ずっと手紙を読んで固まった体を伸ばしているときだった。

「何も、感じないのか?」

 深々と帽子をかぶり、まじめに制服を着こなした男がこちらを見てそう問う。腰には格子越しにもわたるくらいたくさんの鍵をぶら下げている。それが、僅かな月明かりにもきらきらと反射して、嫌でも目が行った。

「強いて言うのであれば、もう少し窓が大きかったら、月明かりももう少し入りますから、読みやすかったと思います」

 私は思ったことを真面目に述べたまでなのに、男は、そういうことじゃない、と呆れたようにしてそう言った。何故、質問にきちんと答えたのにそんな目をされなければならない。私には全く理解できなかった。

「そんな目をしたって、こっちはこの刑務所一番の模範囚ですよね? 模範囚の解答だから、それを囚人たちの模範解答としては捉えてくれないのでしょうか」

 皮肉と自嘲交じりにそう言った。

「何を言っても無意味なのははじめからわかっていることだったな、すまない」

 汚らしく伸ばされた髭と、並びの悪い歯の口から出てきたその言葉は、別に私の心を興奮させも、抉りもしなかった。これならばまだ一週間三食オート麦の方が精神的ダメージは大きい。

「ところで看守さん、本当に、独房の窓は一辺あと5センチずつ大きくした方が良いですよ。空気だって入れ替わりやすくなりますし、そうすれば囚人たちの気も少しは良くなるんじゃないでしょうか? 毎晩毎晩うるさくて、こっちは寝れたものではないんですから」

 おはようからおやすみまでの間ほとんど誰かに監視され、支配され、目覚めは一年中黴っぽくて湿って暗くて腐ったようなにおいが鼻を突いて始まり、シャワーを浴びても重く体にへばりつく空気に包まれて、汚れた寝具で体を震わせながら眠りに就く。加えて食事はオート麦。馬のえさじゃないか、いや、最近の馬はきっともっと美味しいものを食べているんじゃないだろうか。とにかく、それらの全てをひっくるめて考えてみればいい。そんな場所に一人で何年もいたらどうなるだろうか? 大抵死にたくなるだろう。その心理は罪を犯した人間にも、犯していない人間にも通ずるようで、何人も殺したりだの、死姦したりだのしてきた屈強な男たちでさえ精神を錯乱させたり自殺したりする。そんな空間で何回輪廻転生すればその刑期を全うすることができるのかわからない私の身にもなってみろ。

「そんなことよりも、本当に何も感じないのか? この手紙は、」

 あの文才のかけらも感じられないひどい手紙を読んで私の機嫌はただでさえ悪かったのに、私の死活問題を「そんなこと」で片づけられたことに心底腹が立った。腸が、煮えくりかえりそうだった。

 「腸が煮えくりかえる」となって思い浮かんだのが、実際に私が煮た「腸」だった。最も彼女たちは私が隣で煮詰めたり、炒めたりしても何も怒気は見せなかった。怒気、と言うか表情一つ変えずにずっと床に転がっていた。そういえば、腸は塩漬けにして臭みを取ってから食べると美味しかっただろうか。

 ふふ、と一人笑みを浮かべてから、きっと男がそれから続けるであろう言葉をつらつらと連ねていく。

「あの手紙は、あれでしょう、私が肉をお裾分けした男性が書いたものなのでしょう? 私が殺したも同然の彼が記したあれを読んで心が痛んだり後ろめたさを感じたりしないのかって?」

「お前はきっと少しも悪いと思っていないのだろうな」

「ええ、勿論。何故そう思うか、わかります?」

 口元に人差し指を宛てて、何も知らない子どもみたいな笑顔を貼りつけた。案の定男は鼻で笑って、そうだなぁ、と腕組みをした。

「特段興味がなかったからではないだろうか」

 目の前の男があたかも自分が名探偵のように振る舞ったから、格子越しに見ると余計滑稽に見えた。

「違いますね。まあ、興味はきちんとありました。彼に対するものではなかったかもしれませんが…」

 意味が分らない、と言うような顔をされたので一呼吸開けて、今度は

「看守さん知ってますか? 人間って、共食いすると脳が可笑しくなってしまうんですって。それに興味はありました。でも興味があるのとと自責の念が湧かないのは別物だ。単に、彼の死が僕の生であろうがなかろうが、私は生きているうちにこの格子の向こうへは出られませんから・・・」

「相変わらず、狂ってるよ。なかなか楽しませてもらった」

 渇いた成人男性二人の笑い声が細長い独房にくつくつと反響したのでしばらくそれが耳に残った。ふと視線をあたりへやると、さっきの封筒が目に入った。そうだ、さっきの手紙で唯一疑問に残ったか所があったのを思い出した。「わからない」というのは非常にやきもきする気分で、私はこの気分が大嫌いだ。それこそこの気分が続いたら私は気が狂うだろう。気が狂うのだけは嫌だ。寒い夜の部屋でひとり、毎晩のように聞こえる他の狂った囚人の叫び声を聞いて思っていた。疑問をはき出さなければ、私の気は治まらないだろう。

「そういえば看守さん、手紙を読んで、疑問に思ったところがあるのですが」

「何だ。我にわかればいいが。何せ書いた本人は海の中だからな…」

 男がそう、私の部屋の小窓から零れる月明かりを見て言った。私はそれを聞いてまた腹が立ちそうになった。あんな奴とはこちらが秦でも話したくない。私をなめ回すように性的な目で見ていたからではない。私はセンスのない人間とはつるまない主義であるのだ。

「この手紙、看守さんは読みましたか?」

 自身の声を聞いて、先程より少しばかりトーンが落ちているのに気付き、これでは不機嫌なのが先方に伝わってしまうと思い、慌てて上ずるくらいにトーンを上げて続けた。

「手紙の後半、女性だと思うんですが、名前が出てくるじゃないですか。確か、イタリア語で薔薇…そう、ローサみたいな感じだったと思うんですが…」

手を伸ばして茶封筒を取り、少し曲げて波を作ってみたり厚みを確認したりして手持ちぶさたをごまかした。

「ああ、出てきていた」

「あれって一体、どちらさまの名前なんですか? もしかして、私が殺した中に入っているんでしょうか?」

 視線を曲げた封筒から看守へ移すと、看守は水を食らったように怯んだ表情をしていた。

「本当に、分らないのか」

「ええ、さっぱり」

 よっぽど、知っていたら聞かねえよと言いたかったが、そうすると夕食のオート麦を増やされるのでやめておいた。

「・・・お前が三人目に殺した人物だろう」

 私は看守の方を見ていたが、看守は私の方を見ていなかった。私は視線をもう一度手紙の方へやって、封筒のつなぎ目のところを爪で追ってみた。つまらないと思い、だったらまだオート麦を増やされた方が刺激的かもしれないと思ったので、今度は思ったことを率直に述べた。

「ああ! そうだったんですか。へぇ、ローサかぁ。そんな方がいらっしゃったんですね」

 言い終えて再び視線を看守に向けようとしたのだが目の前に看守の姿はなかった。少し耳を澄ますと、少し進んだ方で足早な足音と、狂ってやがる、と小声で呟くのが聞こえた。

 どうやら、今日の夕食はなかなか楽しめそうである。

 私はもう一度茶封筒を寝台の方へ向かって飛ばした。

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不適合と異常の薔薇の木 @kiku0713

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